第二千六百三十話 待ち受けるもの(三)
神皇御座。
ネア・ガンディアが総力を挙げて作り上げた最新鋭の超大型飛翔船シウスクラウド、その中心部に設けられた大部屋は、その名の通り、神皇が鎮座するための場所であり、神聖そのものといっていい空間だった。室内は白を基調とし、赤や青、黒といった多様な色彩が用いられ、幻想的な飾り付けによって神の座所であることと印象づけようとしている。この船を作り上げたのはネア・ガンディアの神々だが、神皇御座の内装を決めたのは、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディア本人だ。
この室内の装飾の数々も、レオンガンドが腰を下ろす獅子を模した玉座も、彼の好みということになる。
神皇御座は、神皇の座所というだけあり、シウスクラウド号を旗艦とする飛翔船団における頭脳であり、中枢といってよかった。作戦行動中、神皇からの命令は、すべてここから発せられている。
とはいえ、いや、故にこそ、その大広間とでもいうべき空間に足を踏み入れる事自体は少なく、いまのように多くの家臣が顔を揃えるようなこともなかった。
めずらしくも神皇により招集された理由は、深く考えずとも察しが付いた。
ディナシアが帰投したからだ。
神皇に従属する神の一柱であるディナシアは、神皇にとって極めて重要な作戦行動中にあるにも関わらず、突如持ち場を離れ、姿を消した。それは重大な違反行為であり、規律と秩序でもってネア・ガンディアを纏め上げようと考えている神皇には許しがたいことだったはずだ。もっとも、神皇は表面上、怒りを表すことはない。いまも、玉座の彼は、穏やかな表情で、ディナシアを見下ろしている。
なぜ見下ろしているのかといえば、神皇御座の床が玉座に向かうに連れてせり上がっているようになっており、もっとも高い位置に玉座が設置されているからだ。自然、玉座にある神皇は、室内に揃った全員を見下ろすことになる。
唯一、神皇と対等な目線を保つことが許されているのは、その妃くらいのものだ。ナージュ・レア=ガンディアは、神皇の隣に用意された玉座に腰を下ろし、レオンガンドをじっと見つめていた。熱っぽいまなざしだった。心底惚れている、そんな感じがする。
一方、神皇の視線の先、神皇御座の最下部には、ディナシアが立っているのだが、そこに至るまでの段差に彼を始めとする神皇の側近たちが並んでいた。三神将、獅徒、神々。いずれも、自分たちが招集された理由を知り、ディナシアにどのような罰が下されるものかと待ちわびている。多くは、ディナシアを快く思ってはいない。当然だろう。
ディナシアは、よく規律を無視する。独自の軍事力を持つのは、神ならば当たり前のことであり、そのことは問題ではない。問題なのは、ディナシアが勝手な行動を取ることだ。命令を無視し、作戦を無視し、指示を無視し、自分勝手な振る舞いをする。だれもが内心不快に思うのは必然だった。
それも、神皇が眠っている間ならば、まだよかった。彼らの主君は、神皇だからだ。神皇の不興を買わなければなにをしてもいい、という考えは、多少なりともだれもが持っているものであり、その最たるものがディナシアだった。ただそれだけのことだからだ。
しかし、神皇が目覚め、直接指揮を執り始めたいま、ディナシアのような身勝手な振る舞いは認められるものではない。
ディナシアとて、理解していないはずはないのだが。
「そなたは、なにゆえ持ち場を離れた」
レオンガンドは、厳かに問うた。すると、ディナシアは、悪びれることなく口を開く。
「東にて、大いなる運命の導きを感じましたが故」
「……大いなる運命の導き?」
「はい。そしてわたしは、運命に導かれるまま、東の地に赴き、そこで大いなる力を得たのでございます」
「大いなる力……ふむ、確かにそなたの力は増している」
神皇は、ディナシアを見据え、告げた。神々の王のまなざしは、金色に輝き、ディナシアの身動きを止める。神皇に凝視されれば、さすがのディナシアも硬直せざるを得ないのだ。
「それもこれもわたしのため、などと嘯くつもりではあるまいな」
「陛下の御為以外、なにがありましょう」
「まったく……つまらぬ冗談を平然という。そなたには、心というものがないらしい」
「ぐあっ」
ディナシアが突如身を捩らせたのは、彼の左半身が消し飛んだからだ。突然、なんの前触れもなく、一瞬にして、だ。神皇の御業であることはなんの疑いようもないが、ヴィシュタルの目をもってしても、なにが起こったのかがわからないくらいなのだ。その力、神々の王に相応しいというほかあるまい。そして、そんな状態でなお立っていられるディナシアも相当な力の持ち主であることがわかる。当然のことだが、人間ならば即死しているし、人間でなくとも、意識を保っていられはしないのではないか。
神皇の御業だ。絶大な神威の発露。
「まあ……よい。そなたの力は確かに増した。その力、大いに活用しようではないか。そなたがなにを企み、なにを目論んでいようと、わたしには関係がない。しかし、つぎはないと思え」
「ははっ……」
神皇の冷厳たるまなざしに対し、ディナシアは恐れるように平伏したが、彼が内心どのように思っているのかは疑問の残るところだった。
もっとも、彼の考えていることなど神皇には筒抜けだろうし、なにを心配する必要もない。
心配するべきは、神皇そのひとのことだ。
それが不敬だということはわかっているものの、ヴィシュタルには、ここのところの神皇の様子が心配でならなかった。
神皇は、もはやディナシアに興味を失ったのだろう。妃たるナージュに視線を移し、その手を取り、なにごとかを囁いていた。だいじょうぶ、心配はいらない。
そんな言葉が聞こえた気がした。
ヴィシュタルが部下を連れて神皇御座を退出すると、広い通路の片隅にディナシアたちがいた。たち、というのは、ディナシアが独自に作り上げた軍勢、その戦闘要員たちと一緒にいたからだ。ディナシアを含め、全員黒ずくめだが、ディナシアと異なるのは、彼以外の全員が目元を隠していることだ。そのことにどんな意味があるのかはわからないが、興味がないわけではなかった。ディナシアの姿を含め、ヴィシュタルの感情を逆撫でにする要素ばかりが、その一行にはある。
ディナシアは、神皇に消し飛ばされた半身を既に復元させているのだが、その全身は、見るたびにヴィシュタルを不愉快にさせた。ディナシア本来の姿ではないことは、どうでもいい。元より、神属は己の姿を自由自在に変えられるものだ。そして、気に入った姿を取る神属も少なくはない。だが、いや、だからこそ、ヴィシュタルは、ディナシアのいまの姿が気に入らない。
そんなことを思っていると、ディナシアの部下が彼の袖を引っ張った。なにやらこちらを指差したところを見ると、ヴィシュタルの視線に気づき、そのことをディナシアに伝えようとしたようだ。ディナシアは、無論、こちらに気づいているはずだ。神皇曰く、力の増したディナシアのことだ。ヴィシュタルたちの接近くらい、気配で感じ取れよう。しかし、ディナシアは、部下にいわれてはじめて気づいたような素振りをして、こちらを見た。
「これはこれは、獅徒の方々がわたしになにかようかな?」
「……その姿で、よく陛下の御前に出られたものだと感心しましてね」
ヴィシュタルは、慇懃に、されど決して謙ることなく伝えると、ディナシアは面白いものでも見たかのように目を細めた。その表情、仕草、どれを取っても癪に障った。大切なものを穢された、という感情が生まれている。
「陛下には、どうでもよいことなのでしょう。わたしがどれだけ力をつけようと気になされないのだから、わたしの姿など、取るに足らないことなのだ。きっと」
彼がどこか残念そうにいったのは、やはり、その姿のままだったのは、神皇を挑発するためだったからなのだろう。ディナシアは神皇に従属しながら、忠実な僕であろうとはしないところがある。
そして、ディナシアのいうとおりかもしれない、と、ヴィシュタルは思った。
セツナによく似た、セツナの父親そのものといってもいいディナシアのいまの姿は、従来のレオンガンドであれば、怒り狂ってもおかしくはないはずだ。それなのに神皇は、ディナシアの姿については気に留めてもいなかった。それはつまり、もはやセツナのことなどどうでもいいとでもいわんばかりではないか。
それならばそれで、構わないのだが。
(いや……)
ヴィシュタルは、胸中、頭を振る。レオンガンドがセツナに拘らないとは思えない。
「ところで……卿の部下がひとりたりないようだが……?」
不意に問われて、ヴィシュタルはディナシアの目を見つめた。神であることを隠せない金色の瞳。そこだけは、セツナの父親と似ても似つかない。だが、顔の造作は、写真で見た彼の父親そっくりだった。
「レミリオンのことなら、陛下の命に従い、北へ赴いているまでのこと。ディナシア。あなたに詮索されるようなやましいことはなにひとつありませんよ」
この場にいない獅徒はレミリオンを含めふたりだが、もうひとりの獅徒についてはディナシアに存在自体認知されていない可能性のほうが高いため、彼はそう答えた。