第二千六百二十九話 待ち受けるもの(一)
大きな、とてつもなく大きな戦いが終わったことの疲労感は、むしろ大勝利の達成感や喜びのほうが遙かに強く、そのことが戦後処理への身軽さに繋がったのは事実だろう。
もちろん、失ったものの多さ、払った犠牲の大きさを考えれば、手放しには喜べないのも事実だ。だが、敵対勢力の規模、戦力差を鑑みれば、その程度の代償で勝利できたのは、むしろ奇跡というほかなく、統一帝国が存在しているだけでも喜ぶべきことだった。少なくとも、存亡の危機に瀕し、滅亡する可能性だってなくはなかった。
もし、セツナたちがこの大陸を訪れることがなければ、東西紛争の真っ只中、北大陸からの侵攻があっただろうし、そうなれば、たとえ東西帝国が外敵に対抗するべく手を取り合うような事態になったとしても、万にひとつの勝ち目もなかったのは疑いようがないのだ。容易く敗北し、ナリア率いる大帝国の軍門に降っていたのは想像に難くない。
「とはいえだ。戦死者は十万を下らず……。これでは、犠牲が少なく済んで良かったとは喜べるものではないな」
ディヴノアから届けられた報告書に目を通しながら、ニーウェハイン・レイグナス=ザイオンは、ゆっくりと息を吐いた。帝都ザイアス至天殿内にある彼の執務室にいる。執務用の机の上には山のように積み上げられた書類があり、彼は、それら書類にいちいち目を通し、ときには判を押し、ときには筆を走らせていた。
体調は、すこぶるよかった。
まるで体内を汚染していた不純物がなにもかもすべて、一切合切消えて失せたような爽快さがあり、透明感があった。こんなにも身も心も軽くなったのはいつ以来だろうと思い返せば、おそらく、右半身の異界化以前以来のことであり、右半身の異界化による負荷や違和感も消滅していることが大きいようだった。
部屋の壁に設置された鏡を見れば、一目瞭然だが、なにを隠そう、ニーウェハインは、元に戻っていたのだ。左半身の神人化も、右半身の異界化も綺麗さっぱり消えてなくなっている。黒髪赤目の青年が、そこにいるのだ。そして、鏡を見る度に想うのは、やはりセツナそっくりだということだ。
同一存在なのだから当然なのかもしれないが、それにしたって似すぎている。顔つきが多少違うくらいで、顔の造作はほぼ同じものだ。父も母も違うのに、どうしてここまで似るのだろうか。まさか、両親まで同一存在ということがあるはずもなく、運命のいたずらでしかないのだが。
「しかし、喜ぶべきでしょう。実際問題、この程度の損害で済んだのは、奇跡というほかないのですから」
「……まったく、大総督閣下のいう通りだが」
「心情的には、わたしも陛下と同じですよ。将も兵も、帝国の民。皇族たるもの、彼らをひとりとして失いたくはありませんから」
「ああ……これ以上の犠牲が出ずに済んでよかった、と、いまは想っておこう」
「それがよろしいかと」
大総督ニーナ・アルグ=ザイオンは、にこりと、微笑んだ。ニーナは、いつものように制服に身を包んでいるが、以前のような堅苦しさが薄れていた。ここのところ、笑顔が増えた気がする。そして、そんな笑顔を向けられれば、ニーウェハインも笑顔を返さざるを得なくなる。すると、ニーナもさらに笑顔になるものだから、笑顔合戦になって止まらなくなったりもする。
それもこれも、おそらくはニーウェハインが素顔を晒せるようになったというのが大きいだろう。
彼は、戦いのすべてを思い出せるわけではない。記憶の中にはあるのかもしれないが、あったとしても堅く封印されていて、引き出せない部分が多いようだった。覚えている範囲での最後は、自分が自分ではなくなり、セツナに襲いかかり、彼と激闘を繰り広げたところまでだ。そこから先、彼の記憶は暗黒の霧に包まれたようになっている。つまり、そのあと、自分の身になにが起こったのか、まったく思い出せないのだ。
死ぬものと、想っていた。
自分が神人化し、セツナに襲いかかったのだ。もはや、滅ぼされる以外に道はない。帝国臣民を護るという皇帝としての務めを果たせた。後悔はない。そう想った。いや、ただひとつ、ニーナを幸せにしてやれなかったという悔いは残っている。だが、それも、致し方のないことだと想うほかなかった。神人となった以上、神の意のままに操られている以上、斃され、滅ぼされる以外にはないのだ。セツナも覚悟を決めたはずだ。
だのに、生きていた。
話によれば、ニーウェハインは、神になった、らしい。
そこだけを聞いてもなにがなんだかわからなかったし、理解の及ぶ話ではなかったが、どうやら、納得のできなくはない理屈のある話のようではあった。いや、実際のところ、彼は自分が神になった理論を完璧に理解したわけではないし、理解しようとも想わなかったが、ともかくも、神になったのは事実らしい。そして神になったことでナリアの支配を脱却し、セツナと協力、ナリアの討滅に成功したとのことだ。
つまり、ナリアの討滅に関して直接的に協力することができた、ということらしい。
よくはわからないが。
彼から転じた神は、帝国の守護神ニヴェルカインと名乗ったという。帝国将兵、帝国臣民の祈りが生み出した神であり、歴代皇帝が五百年に渡って神の如く崇め称えられてきたことの結果なのだそうだ。そして、その神は、最終的にニーナの願いを聞き入れ、ニーウェハインを元に戻し、消え去った。ナリアが構築した信仰収束機構を強引に利用したことによって出現した神は、ナリアの滅びによってその役目を終えたというのが真相らしい。
「ところで、戦勝祝賀の宴についてですが……」
「なにか問題でもあったのか?」
「いえ。問題ではないのですが、当初の予定よりも費用がかかりそうな気配がありまして」
「あれほどの戦いに勝ったのだ。費用のことなど気にする必要はない。いっそのこと、帝都中を巻き込むくらい盛大な宴にしても構わないが」
「そうしようと画策していたところなのです」
ニーナがくすりとした。そのいたずらっぽい笑顔は、昔の姉を見ているようで、彼はなんだか嬉しくて仕方がなかった。それはつまり、ようやく、ニーナが自分らしく振る舞えるようになってきたということだ。
「陛下のお墨付きを得られて、なによりです」
「……君に一任している。思う存分、好きにしてくれたまえ」
帝都中を巻き込むほどの祝宴となれば、途方もない費用がかかるだろうが、構いはしないだろう。大帝国との戦いは、終わった。海を越えてまで訪れる侵略者など、そうはいまい。南大陸は統一帝国の統治下にあり、戦後しばらくは不安な情勢が続くかもしれないが、それも収まれば、あとは大きな問題はない。ゆっくりと、秩序を築き上げていけばいい。
北大陸の様子が気になるし、放ってはおけないが、いますぐどうにかできることでもない。いまは、南大陸の統治運営にこそ、全力を注ぐべきだった。その一環として、戦勝祝賀の宴を開くのは、重要なことだ。統一帝国が勝利し、政府が機能していることを大いに主張するということでもある。
「しかし……主賓はまだ眠っているのだろう?」
「はい」
ニーナが静かにうなずく。その表情からは、セツナへの感謝を含めた様々な想いが感じ取れる。
ニーウェハインとて、同じだ。
セツナには感謝しかなかったし、それ以上に様々な想いを抱かざるを得ない。彼があっさりと神人化したニーウェハインを滅ぼさないでいてくれたからこそ、ニーウェハインはここにいられる。こうして、皇帝として返り咲き、ニーナと談笑することができるのだ。すべては、セツナだ。
セツナが、もたらしてくれたこと。
彼がこの世界に召喚されなかったと想うと、ぞっとする。
きっと、ニーウェハインを取り巻く運命は大きく違ったものになっていただろう。
と、そのとき、扉の外から声がした。
「失礼しまーす」
聞き知った声の野放図さに、ニーウェハインは、ニーナを顔を見合わせ、そして鏡写しのように噴き出した。「噂をすればなんとやら……だな」
「はい」
やがて、執務室に入ってきたのは、ふたりの想像通りの人物だった。
セツナだ。