第二百六十二話 出血の価値
「損害は軽微、といっていいものか」
アスタル=ラナディースの囁きに、エインは視線だけを向けた。
エインたち西進軍上層部が顔を並べているのは、馬車の荷台の中だ。屋根に吊るされた魔晶灯の冷ややかな光が、軍議用に設えられた荷台を照らしている。決して広くはないが、四人の大人が顔を突き合わせるには十分な空間があった。中心に置かれた卓を囲むように椅子が配置されており、アスタル、エイン、ドルカ=フォーム、ニナ=セントールが腰掛けている。
九月二十日、夜。
先の戦いから丸一日が経過し、各部隊の被害状況も明らかになっていた。
死者の総数は百七名。バハンダール攻略戦よりも遥かに多いのだが、バハンダールでの戦闘が実質市街地での掃討戦だけだと考えると、妥当なところと見る向きが大きい。エイン隊から三十六名、アスタル隊が四十一名、ドルカ隊からは三十名の死者が出ている。重軽傷者を含めるとさらに増加するだろうが、今後の戦闘に参加できそうにないような重傷者は少なかった。重傷者よりも死者の数のほうが多く、軽傷で済んだものはさらに多い。
敵軍の分断に成功したとはいえ、結局、正面からぶつかり合ったのだ。ある程度の損害は覚悟の上だった。
「想定よりは少ないんですし、軽微といっていいんじゃないですかね?」
ドルカが、ティーカップに手を伸ばす。だれの気遣いかは知らないが、卓にはお茶とお茶菓子が置かれている。軍議は始まったばかりだ。ティーカップからは湯気が立ち上り、紅茶の香りをこの仮設会議室に充満させていく。
「二百人以上の死者が出ることも、想定していました」
ニナの補足説明にエインは小さくうなずいた。敵軍の総数が完全に把握できないまま立てた作戦だ。被害予測も不完全ではあった。が、恐らくその程度の犠牲は必要だろうと踏んでいたのも事実だ。二百人。痛い出血だ。しかし、ルベン近辺に布陣した敵軍を無視することができない以上、覚悟しなければならないことでもあった。
無傷の勝利はありえない。
《白き盾》ならばそれも可能なのかもしれない。《白き盾》が西進軍に配属されていれば、エインは彼らを軸とした戦術を建てただろう。しかし、エインには無敵の盾を運用することはできなかった。その代わりといってはなんだが、西進軍には最強の矛があった。黒き矛セツナ・ゼノン=カミヤだ。彼を軸にして、作戦を建てた。バハンダール攻略戦でもそうだが、最強の攻撃力である彼を主軸に据えるのは、エインとしては当然の判断だった。
「わかってはいるよ。だが、もっと出血を抑えられたのではないかという想いもある」
アスタルの考えはもっともだと、エインは思った。たとえば、死者が五十名に抑えられたとしても、彼女は満足しなかっただろう。無傷で勝てたとしても、納得はできても、満足はすまい。アスタル=ラナディースとはそういう人物だ。常に最善を求めている。
ドルカがティーカップを置いた。音は立たなかった。静かなものだ。夜の虫の声だけが、馬車の外から聞こえてくる。
「最初から全軍で突撃していたら、どうなっていたんですかねえ?」
「最悪、大打撃を受けていたのはこっちでしょうね」
エインは、手元の資料をまとめながらドルカの質問に即答した。資料とは、エイン配下の各部隊長から提出された報告書だ。死傷者のこと、戦功のこと、その他様々な報告が記されている。そのすべてに目を通しておく必要があるのだが、時間が作れない。だから、こうして持ち歩いているのだが。
「ほう?」
「敵武装召喚師のひとりが、厄介な召喚武装の使い手だったんですよ。皆さんもご覧になられたと思いますが、セツナ様が手にしていたもうひとつの黒き矛は、その召喚武装によって複製されたものなんです」
「あー……あれ、そういうことだったのか」
ドルカは、戦場を蹂躙するセツナの姿でも思い出したのだろう、白い顔をさらに青白くした。ドルカのような人物でも畏怖を覚えることがあるのかと、エインは彼の表情にそんな感想を抱く。隣のニナは、いつも通りの無表情だが、この場合、そのいつもの顔が隠れ蓑になっているといってもいいのかもしれない。彼女の表情から感情の動きを読み取るのは難しい。ただし、ドルカに関することだと、顔色を即座に変えるので、扱いやすい人物ではあるのだ。
「つまり、全軍で正面から突撃していた場合、黒き矛を手に入れた敵と戦う羽目になっていたということです」
エインが告げると、元々静かだった仮説会議室がさらに深い静寂に包まれた。虫の声だけでなく、風に揺れる草の音さえ聞こえてきそうなほどだ。
つまるところ、セツナを餌にした敵軍の分散は、大成功だったのだ。敵軍から武装召喚師のひとりを引き剥がせただけではない。その敵武装召喚師――ミリュウ=リバイエンが引き起こしたであろう大量殺戮を未然に防ぐという結果になったのだ。ミリュウが西進軍にもたらした被害というのは、全体の被害の一割にも満たない。東の森に張り付いていた七名が殺されただけだ。
だが、もし、ドルカのいう正面からの全軍突撃を行っていれば、被害はその十倍では済まなかっただろう。ミリュウは間違いなく黒き矛の複製のために動いただろうし、彼女の能力を知らないセツナは、まんまと引っかかったはずだ。複製とはいえ、あのカオスブリンガーなのだ。いったい何人の兵士が彼女の手にかかって命を落としだだろう。考えるだに、ぞっとしない。
たとえ、セツナがミリュウに張り付いていたとしても、余波による被害は防げない。セツナがミリュウを圧倒し、瞬殺でもしない限り、西進軍は多大な損害を被っただろう。そして、敵がミリュウだけではない以上、瞬殺などできるとは思えなかった。敵軍には、あとふたりの武装召喚師がいた。ルウファ・ゼノン=バルガザールとファリア=ベルファリアが苦戦を強いられた相手だ。黒き矛を手にしたミリュウを含めた三人が連携でもしてきたら目も当てられない事態に陥っていたかもしれない。
「俺の策が当たったとか、そういうのは結果論なのでどうでもいいです。敵武装召喚師の能力なんて知り得ませんし、ドルカ軍団長のいう全軍による一斉攻撃もひとつの案としては有ったんです」
「しかし、エイン軍団長の立案した戦術を採用して正解だったのは疑いようのない事実だ。なにも考えず、戦力を過信して突撃していれば、手痛い痛撃を受けるところだった」
アスタルのいう戦力とは、兵力差ではあるまい。物見に出した兵やルウファが目測で算出した敵部隊の兵力は、確かにこちらを下回ってはいたものの、実数を把握できていたわけではないのだ。将軍の上げた戦力とは、やはり黒き矛を筆頭とする《獅子の尾》の武装召喚師たちだろう。無論、ログナー人としては、ログナー兵の強さも考慮のうちに入れているのだろうが、
「そうですねえ。ルウファ殿やファリアちゃんが頑張ってくれたおかげで、俺達はかなり楽をできましたし。あ、うちが終始優勢だったのは、ルウファ殿が武装召喚師を引きつけてくれたのと、ニナちゃんが頑張ってくれたからですよ」
「軍団長……」
ニナがドルカに視線を送ると、彼は気恥ずかしそうに頬を掻いた。ニナの活躍に関しては報告書に上がっていて、エインは既に目を通していた。ドルカの報告書は理路整然としていて、読みやすいのだ。それによれば、部隊の指揮こそドルカが取ったものの、戦術を立案したのはニナ=セントールだということだった。さすがにいい副官を持っている。
すると、アスタルがどことなく冷ややかな眼差しをドルカに注いだ。
「つまり、おまえはなにもしていなかった、と」
「右眼将軍ともあろうお方が、そのような早計な判断をなさるものではありますまい」
「ふむ?」
「俺は存在するだけで、部下たちの心の支えとなっているんですよ!」
ドルカは胸を張って宣言したものの、仮設会議室の中には彼に同意するものはひとりとしていなかった。さして気まずくもない沈黙が空間を支配する。
静寂を破るように口を開いたのはアスタルだ。
「大勝と引き換えに、《獅子の尾》の三名中二名が重傷を負い、残るひとりも意識を失ったまま、か」
アスタルが、嘆息を浮かべたのは、武装召喚師頼りの西進軍の有り様を嘆いてのことかもしれない。確かに、つぎの戦闘で《獅子の尾》の三人が使えないとなると、エインも頭を抱えざるを得ない。バハンダールにせよ、昨夜の戦いにせよ、《獅子の尾》ありきの作戦を構築してきたのだ。特に黒き矛を中心としていたが、別にルウファやファリアを蔑ろにしていたわけではない。むしろ、ふたりの活躍もまた、西進軍の勝利に欠かせないものだった。
今回の戦闘を振り返ればよくわかる。ふたりの力がなければ、分散作戦はあっという間に瓦解していただろう。分散したこちらの戦力が、敵武装召喚師に各個撃破されたに違いない。もっとも、西進軍に武装召喚師がいなければ別の作戦を考えることになったのだろうが。その場合、やはり多大な犠牲を必要としたことだろう。
バハンダールの攻略さえ可能だったのかどうか。
黒き矛あっての西進軍の躍進なのだ。こればかりは否定出来ない。昨夜の大勝利だって、終盤、セツナが修羅の如き戦いを見せてくれたからなのだ。彼が敵戦力の大半を蹴散らしてくれたおかげで、エインたちは比較的楽に勝利を得ることができた。
「ファリアちゃんは元気に走り回っているけど、あれ、相当無理をしてるね。傷だらけの天使って感じで麗しいんだけどさ」
エインは、ドルカの心配そうな口調にうなずいた。副官の眼の色が一瞬変わったように見えたのはきのせいだと思うことにする。
「隊長と副長が動けない以上、ふたりの分まで働かなくちゃならないって思っているんでしょうけど、戦いが終わった直後くらい、ゆっくりしてくれても構わないのに」
戦闘終盤に合流したファリアの凄惨なまでの姿に度肝を抜かれたものだ。満身創痍といっても過言ではなかった。話によれば、敵武装召喚師クルード=ファブルネイアと戦闘し、その際に傷を負ったのだという。しかも、クルードには致命傷を与えることには成功したものの、逃げられたというのだ。とはいえ、クルードが生きている可能性は限りなく低いらしい。クルードはミリュウを援護するためにファリアの前から去ったが、セツナが無事であることから、彼の目的は果たされなかったと見るべきだろう。
彼が援護しようとしていたミリュウ=リバイエンは、当時既にエイン隊の監視下にあった。セツナが確保し、部隊長に引き渡していた。エインがそれを知ったのは戦闘が終わってからのことだったが。東の森に待機していた部隊がエインと合流できたのが、戦後だったのだ。セツナにいわれた通り、街道を南に迂回しているうちに戦いが終わっていたということであり、彼女らに落ち度はない。
「しばらく戦闘はないからな。《獅子の尾》隊にはしっかり休んでもらう」
「将軍命令ですね」
「ああ。そうだ。つぎの戦闘が始まるまでは待機させる。ついでといってはなんだが、ルウファ・ゼノン=バルガザールについてだ。彼はどうする?」
ルウファもまた、敵武装召喚師との戦いで深手を負っていた。ファリアよりも余程重傷であり、戦後、エインが彼と対面したとき、彼は意識を保っているのがやっとという有り様だった。彼が戦った武装召喚師はザイン=ヴリディア。ルウファは、その敵武装召喚師に勝てたことを心底喜んでいた。心身ともにぼろぼろの状態だったが、彼の喜ぶ姿は、エインには救いになった。彼がたったひとりで敵武装召喚師の相手をするように戦術を組んだのはエインなのだ。彼が重傷を負うことになった原因のひとつといってもいい。
彼はいま、馬車のひとつを借りきって、休んでいるはずだ。死者以外では、彼以上の重傷者はいなかった。それほどの傷を負いながら、苦痛の表情ひとつ見せようともしないルウファの精神力には感嘆するばかりだ。衛生兵や軍医に対しても、泣き言ひとつ漏らしていないという。だが。
「彼は後送するべきかもしれません。いくらつぎの戦闘まで時間があるといっても、戦線に復帰できるような状態まで回復する見込みはないということですし」
「そうだな……それが、彼のためでもある。が」
「問題は、彼が、将軍の命令に従うかどうかということですね」
エインが続けると、アスタルは静かにうなずいた。ドルカが疑問の声を上げてくる。
「西進軍の指揮権はアスタル将軍にあるんでしょう? なにか問題でもあるんですか?」
「王立親衛隊を支配するのはレオンガンド陛下だけだ。陛下の命令こそが最優先事項なのだ。西進軍総大将であるわたしの命令よりも優先されるのは当然だろう?」
「しかし、それっておかしくないですか? 西進軍に配属された以上、将軍の命令に背くなんてできないでしょ」
「彼が王命を盾にすれば話は別だよ。《獅子の尾》隊にくだされた王命では、わたしの命令を絶対遵守しろなどとはいわれていないはずだ。彼らは西進軍に参加し、その作戦行動を援護するのが役割なのだ」
王立親衛隊《獅子の尾》の役目は、遊撃である。《牙》や《爪》が王の剣と盾ならば、《尾》は王の意志といってもいい。王の意志ひとつで戦場を飛び回り、各部隊の支援に回るのが彼ら《獅子の尾》なのだ。西進軍には配属こそされているものの、それは《獅子の尾》の使命を果たすためだ。
「えーと、つまり、どういうことです?」
「《獅子の尾》の使命を盾にされれば、将軍も黙っているしかないということですよ」
ニナが、ドルカに説明するのを聞きながら、エインはアスタルに視線を戻した。将軍は、紅茶に口をつけている。
「とはいっても、部隊の後方にいるくらいならなにも問題はないんですけどね」
「そうだな……」
ルウファのために衛生兵のひとりでも割かなければならなくなるが、その程度、たやすいことでもある。それに彼は敵の武装召喚師をたったひとりで撃破するという、まばゆいばかりの戦功を上げているのだ。衛生兵のひとりやふたり、彼のために使っても構いはしない。