第二千六百二十五話 ニヴェルカイン(一)
戦いは、終わった。
南ザイオン大陸北西部一帯を狂乱の戦場へと変えた統一ザイオン帝国対南ザイオン大帝国の一大決戦は、大帝国指導者にして皇帝マリシアハイン・レイグナス=ザイオンに取り付き、真なる支配者として君臨していた大いなる女神ナリアがどこからともなく現れた黒い神に取り込まれるという予期せぬ最期によって幕を閉じた。
戦争は、終わった。
ノア川直上に停止した移動城塞と大都市ディヴノアの間に横たわった広大な戦場は、勝ち鬨を上げる兵士や勝利を喜ぶ将校たちの姿で満ちていた。だが、手放しで喜べるような結果とはいえない。死屍累々。数え切れないくらいの戦死者が出ていたし、膨大な量の血が流れ、死が溢れていた。友を失い、仲間を失ったものたちの慟哭は、もはや敵の影もない戦場にこだまし続けている。
だれもが勝利を謳いながらも、その実感にありつけないのは、決着があまりに唐突であり、半ば信じられないという気持ちがあったからだろう。
歓声が一団と大きくなったのは、セツナがニヴェルカインを纏ったまま、戦場の真っ只中に降り立ち、勝利を宣言してからのことだった。
「ナリアは斃れた! 我々は勝利したのだ!」
セツナの勝利宣言は、マユリ神によって戦場各地に散らばったすべての将兵にすぐさま伝えられた。各所の仮設陣地に設置された通信器から拡散されるナリアの言葉は、統一帝国軍の全将兵を大いに沸き立たせた。大地を震わせ、空を揺らした。真っ青だったはずの空は、いまや赤みがかっている。かなりの長時間、戦っていたということになるが、それでもなんとか生き延びることができたのは、やはりセツナひとりの力ではない。
皆の力だ。
彼は確信をもって、仲間たちの姿を見た。ファリア、ミリュウ、レム、シーラ、エリナ、ダルクス、エスク、ウルクの八人。皆、随分と疲労している様子だった。
「本当に……終わったのね……?」
「ああ。終わったよ。この戦いはさ」
セツナは、ファリアの質問にはそう答えた。あの灰色の決着については、いまは口にするべきではないだろう。ナリアが斃れ、ナリアの兵士がすべて消滅したのだ。勝利したという事実に変わりはない。ならば、いまはその勝利を享受するべきだ。ファリアがほっとしたように微笑むと、ミリュウが大手を上げて突っ込んできたかと想うと、セツナを思い切り抱きしめた。疲労困憊なのだろう。その力は、いつもよりずっとか細く、か弱い。
「よかったあああああ」
ミリュウらしからぬ感想に、セツナは、ファリアを一瞥した。彼女は、最愛の妹でも見守るようなまなざしをミリュウに向けている。激戦の最中、色々想うことがあり、なにがしかのやり取りがあったりしたのだろう。ミリュウの頭を撫でてやりながら、そんなことを想う。
「はは……へろへろだぜ」
ついさっきまで白毛九尾の姿がったシーラが、その場に座り込んだ。憔悴しきっている。白毛九尾形態は、強力無比だが、その分消耗が激しいのだろう。そんな白毛九尾形態のまま戦い続けていたのだ。精も根も尽き果てるとは、まさにそのことだろう。
「だいじょうぶ? シーラお姉ちゃん」
「まあ……な」
エリナににこりと笑い返したシーラだったが、とてつもない疲労の中にいることはだれの目にも明らかだった。後で労をねぎらってやるべきだろう。そこではたと気づく。
「エリナがどうしてここに?」
「戦いが終わったから、マユリ様が送ってくれたの!」
「なるほど。さすがはマユリ様だな」
「うん!」
本陣に待機しているのも同然だったエリナだが、この場に居合わせられないというのは可哀想だとマユリ神は判断したに違いない。粋な計らいというやつだ。
エスクが呆れるほど明るい笑顔で声をかけてくる。
「大将ならやってくれると信じておりましたぜ」
「当たり前でございます。わたくしの御主人様でございますから」
「レム。わたしたちの、では?」
「そうですね、ウルク」
レムが殊の外嬉しそうにウルクに応えたのは、ウルク自身がセツナの従僕であることを誇りに想っているということが喜ばしいからだろう。
ダルクスは、相変わらず無言のままだったが、セツナの健闘を称えるような仕草をしてきた。セツナも拳を上げてそれに応え、視線を巡らせた。
戦いは終わり、勝ち鬨が響き渡っている。だれもがこの勝利を喜び、讃え、泣き、叫んでいる。ただの勝利ではない。多大な犠牲を払った上での勝利だ。ただ喜んでばかりもいられないのだ。嘆き、悲しむ声も少なくない。とはいえ、いまは勝利したばかりということもあり、喜びのほうが声としては大きい。激しく苦しい戦いを乗り越え、勝利したのだから、当然といえば当然かもしれない。
と、エスクが訝しげな顔をした。
「ところで大将、その格好は?」
「そういえば……いつもと違うわね?」
ミリュウがセツナを抱きしめたまま、きょとんとする。白と黒の法衣は、確かに完全武装とは大いに異なるものだ。
「それがセツナの新たな力?」
「いや……これは――」
「我はニヴェルカイン」
セツナに説明をさせるまでもないとでもいわんばかりに、それは形を変えた。白と黒の法衣から、白と黒の二色が織り成す神の姿へ。その際、ミリュウが弾き飛ばされ、尻餅をついたが、彼女は怒るよりもむしろ呆気に取られていた。
「うおっ」
「わお」
「な、なに……?」
だれもが驚愕する中、白と黒からなる男神ニヴェルカインは、その神々しくもまばゆく輝く姿を見せつけるようにそこにあった。黒い右半身に白い左半身。セツナに酷似した顔立ち。金色の双眸。白と黒の法衣。燦然と輝く光背。その姿を目の当たりにして、なにも感じないものはいないだろう。神々しく、幻想的な存在。神そのものなのだ。マユリ神で見慣れているとはいえ、ファリアたちも度肝を抜かれたのは、まさか神がセツナの体に絡みついているとは想像だにしていなかったからでもあるだろうが。
「我は、統一ザイオン帝国の守護神なり」
ニヴェルカインは、告げる。
「汝ら統一ザイオン帝国臣民の祈りに応じ、顕現せしものなり」
ニーウェハインと似て非なる声で、告げる。似て非なる、されど、ニーウェハインとしか思えない声音。ニーウェハインなのに、ニーウェハインではないと想わざるを得ない声色。彼はニヴェルカインであって、ニーウェハインではないのだ。その厳然たる事実に、セツナは複雑な想いを抱いていた。
それはすなわち、ニーウェハインがもはやいないということと同じだ。
ニヴェルカインと化したことで、ニーウェハインが救われたわけではないのだ。いや、ある種救われたのかも知れない。ニーウェハインが原因で統一帝国側が破れるという事態にはならなかったし、ナリアは滅びた。ニーウェハインにとっては、望むべくもない展開だったのではないか。
そうは想うものの、腑に落ちない部分も大いにある。
ニーウェハインを救えなかった。
セツナは無意識に拳を握り締め、神を見上げた。ニヴェルカインは慈しみに満ちたまなざしを地上に向けている。ニヴェルカインの声は、戦場に生き残った統一帝国軍の全将兵に伝わったようであり、地を揺らすようなどよめきが生じていた。
帝国将兵には、ニーウェハインの声に聞こえたのだろう。
「陛下!?」
「ニーウェハイン様!?」
「皇帝陛下……?」
ニヴェルカインに対する反応は様々だが、ほとんどは、その声がニーウェハインにそっくりだということに混乱しているものだった。
その混乱の中をかき分けるようにして、セツナたちの前に姿を見せた人物がいる。
「ニヴェルカイン……様」
認めがたくもその神の名を口にしたのは、だれあろうニーナ・アルグ=ザイオンそのひとだった。