第二千六百二十四話 灰色の決着
「かの忌まわしき裏切りものをここまで弱らせることができるとは……さすがというしかないな。しかも、捕獲できるなど、想定外も想定外だ」
男は、掲げた手の先に視線を戻した。その男が大事そうに掲げるのは、なにを隠そう、ナリア本体の上半身だった。上半身というのも物足りない、体の一部。頭部、首、左の胸、肩、腕――。ナリアの宇宙でセツナがつけた傷をそのままに、ナリアは、黒衣の男に囚われていた。だから、ナリアの依り代が動きを止め、分霊も動けなくなっていたのかもしれない。そこに因果関係を求める以外、納得のできる理屈は生まれないだろう。
「あんたは……」
何者か。
問おうとしたとき、ナリアが左手を男に向かって伸ばした。手の先に神威が収束し、輝きが生まれる。莫大な量の神威がその光の中にある。それを見て、だろう。男はむしろほくそ笑んだ。その口から漏れる声にも、聞き覚えがあった。
「神と神の戦いは不毛だ。互いに不老不滅故、決着のつけようがない。不滅なるものを滅ぼす方法などはないのだからな」
ナリアの発した神威の光は男の右半身を容易く消し飛ばしたが、男は、微動だにしなかった。瞬時に黒衣ごと復元して見せると、ナリアを両手で包み込むようにした。男の全身から生じた黒い影のようなものがナリアを覆っていく。ナリアは抗おうとしたが、無駄に終わった。黒い影は、ナリアを完全に覆い、ナリアは身動きひとつ取れなくなってしまった。
「だが、ひとつだけ、神が神に勝利する方法がある」
男は、黒い影に包み込んだナリアを両腕で抱え込むようにして自身の胸に押しつけた。そのまま、ぎゅっと押し包んでいく。ナリアは悲鳴を上げただろうか。断末魔の、叫びを上げただろうか。ふとそんなことが気にかかったのは、ナリアがなにかを叫んだように見えたからだ。だが、なにも聞こえず、なにもわからないまま、ナリアの姿は男の胸の中に消えていく。
セツナは、憮然とした。
これが、いまのいままで暴威を振るい、一度でもセツナを絶望のどん底に突き落とした神の最期とは、とても思えなかった。セツナが致命傷を与えたとはいえ、だ。どこからともなく現れた男に取り込まれる形で終わるなど、そんなもの、認められるはずもない。
これでは、いままでの戦いのすべてが茶番だったといわんばかりではないか。
「弱り切った神を取り込むことさ」
ナリアを取り込んだ男は、そう言い切ると、こちらに向き直った。そこで改めて男の姿を確認する。長身とはいったが、いまのセツナとそれほど変わらない。肉付きもそうだ。痩せすぎているというわけでもない。顔立ちは、ニーウェハインによく似ていると想った通りだ。つまり、セツナとも似ているということだが、目つきに関していえば、ニーウェハインよりもセツナのほうが近い気がした。年齢は、男のほうがだいぶ上のようだが。
「ただし、そのためには対象の神が極限まで弱り切り、こちらの力が十全でなければならないという条件がつくが……ナリアは、おまえのおかげで条件に当てはまっていた。いや、おまえたちのおかげ、かな」
「あんたは……」
「おまえたちがナリアの信徒を奪ってくれたおかげで、余計な手間をかけずに済んだ。改めて、感謝させてもらおう。ありがとう」
「なにものなんだ」
問うも、多少、わかったことはある。男は、神だ。男自身が、神同士の戦いについて語り、その決着の付け方を実践したことから、彼が神であることは疑いようもない。だが、それ以外のことは、なにひとつわからなかった。セツナによく似た顔立ち、聞き知った声は、紛れもなく作り物だ。神の正体とは無縁のものだろう。依り代がセツナに似ていたというだけのことかもしれないし、セツナの前に現れたから、セツナに似せただけかもしれない。
「いずれ……いや、すぐにわかる」
男は、皮肉げに笑いかけてきた。その笑みには、悪意があった。警戒心を煽るほどの悪意。
「おまえがザルワーンの情勢を放っておけないのであれば、な」
「え? いま、ザルワーンっていったか?」
「さて、わたしは行くよ。力を得たとはいえ、怒りを買っては意味がないのでな」
「ま、待て。待ってくれ!」
「ザルワーンの空で逢おう」
「お、おい!」
セツナは手を伸ばしたが、当然、遙か彼方の男には届きもしないまま、男の姿は掻き消えた。神なのだ。空間転移くらい容易いことだろう。それは、いい。もはやどうにもならない。どうしようもない。男の気配は、セツナの感知範囲内にはなかった。
「……ザルワーンの空で……だと?」
男の言葉を反芻したセツナの脳裏には、男がそう発したときの悪意に満ちた表情が浮かんでいた。明らかに有効的な話し方だというのに、表情だけはセツナに対する悪意に満ちていて、それがなにを意味しているのか、想像も付かなかった。ただ、どうやら男は、いや、あの神は、セツナの敵であるらしいということは確かなようだ。敵だからこそ、セツナに似た姿を取ったのかもしれない。
セツナを煽るために。
「どういうことだ? ザルワーンでなにが起きてる……?」
心配なのは、ザルワーンのことだ。
ザルワーン島は、龍神ハサカラウによって護られている。ハサカラウは、シーラに心底惚れ込んでおり、彼がシーラとの約束を破ることはないだろう。その点では安心できていたのだが、いま、悪意に満ちた神の発言により不安が膨れ上がった。
あの男は、神だった。その神がザルワーンの情勢について、なにか含んだような言い方をしたのだ。ザルワーン島でなにか重大な事件が起き、それがいまもなお進行中なのかもしれない。放っておけば、大変なことになる可能性がある。ザルワーン島といえば、太后グレイシア率いる仮政府の収めるガンディア領土だ。様々な問題が片付き、ようやく訪れた平穏が乱れるような事件でも起きたというのであれば、いてもたってもいられない。とはいえ、いますぐどうにか出来る問題でもないというのも事実だ。
「……いやいまはそれよりもだ」
セツナは、強引に自分の意識をザルワーン島から南ザイオン大陸に戻した。
「戦場は……どうなった?」
ナリアとの戦いは、終わった。
幕切れはあっけなく、灰色の決着としかいいようのない結末だったとはいえ、ナリアが他の神に取り込まれ、消滅したのは事実だ。この目で見ている。と、そこまで想い、彼は頭を振った。
(いや……)
ナリアは、本当に消滅したのだろうか。あの男は、ナリアを取り込んだ、というような表現をした。それはつまり、どういうことを示しているのか。ナリアがあの男神の力の一部となったのは間違いないだろうが、それがどういう結果をもたらすのかは、不明だ。黒き矛で滅ぼしたときと同様に消滅したことになり、神人も使徒もすべて消滅するのか。それとも、男神の中で生き続けていて、神人も使徒も男神を滅ぼすまで生き続けることになるのか。
前者ならばともかく、後者となればここからさらなる被害の拡大を考慮しなければならなくなる。いくらセツナが参戦できるようになったからといって、すべての神人を殲滅するまでには、かなりの時間を要するだろう。そうなれば、多数の統一帝国軍将兵が命を落とすのは想像に難くない。いままでも多量の血が流れている。これ以上の血が流れるとなると、暗澹たる想いにならざるを得ない。
セツナは、そんな可能性を考えながら戦場を見渡して、ほっと胸を撫で下ろした。
移動城塞とディヴノアの間に横たわる広大な戦場、その各所で勝ち鬨の声を上げる将兵たちの姿があった。神人も神獣もいない。残っているのは、人間ばかりだ。血で血を洗うような死闘を潜り抜けた統一帝国将兵とセツナの仲間たち。
だれもが勝利の喜びを声にし、あるいは涙とし、分かち合い、称え合っている。戦死者たちへの弔いと、その犠牲が無駄にならなかったことを高らかに告げるかのように。
戦いは、終わった。