第二千六百十八話 白と黒(十)
「あなたは帝国に必要不可欠な存在だ。先帝シウェルハインが任命した唯一の正当後継者であり、この混乱期において南大陸を統一した偉大なる皇帝。それがあなただ」
ニーナは、爆煙の中で外殻――恐らく防御形態かなにかだろう――を解除し、元の状態に戻る怪物を見遣りながら、静かにいった。連鎖爆発の中では決して聞こえなかったであろう声も、静寂が戻れば、届く。そう、届くのだ。
セツナは、ニーウェハインだったものを見つめている。ナリアによる横槍を最大限警戒しながら、ナリアが決して手出ししてこないだろうことを確信している。ナリアは、セツナの心を折ることこそ目的としている。そのためにニーウェハインを神人以上の存在に作り替えたのだから、これ以上なにもする必要はない。セツナがニーウェハインだったものを殺し、心に傷を負ってくれれば、それで万々歳なのだ。そうして、少しずつでもセツナの心の傷を増やし、最終的に絶望させる。そして世界を滅ぼさせ、自分は在るべき世界へ帰る。それが目的。ナリアがニーウェハインだったものを滅ぼしては、意味がないのだ。
セツナに殺させなければ。
だから、ナリアが直接手を下すことはない、と、彼は見ている。
「この期に及んで、なにをいっているのでしょう。帝国もなにも、じきに滅び去るというのに」
「黙れよ」
「黙りませんよ」
ナリアのどこか朗らかな反応からも、セツナは確信を得た。ナリアは、状況を把握し切れていない。自分の勝利を確信し、酔ってさえいるのではないか。
「聞こえないか、ニーウェ。あなたを呼ぶ声が。あなたを皇帝と呼び、讃える声が」
ニーナの言葉を聞いて、セツナは耳を澄ませるようにした。完全武装状態によって通常とは比較しようもないほどに強化された聴覚は、ともすれば遙か広範囲の雑多な音を拾い上げてしまうものであり、調整を間違えれば、洪水のように流れ込んでくる音によって脳を破壊されかねない。無論、それを制御するのが技術であり、そのための鍛錬と研鑽なのだ。セツナが完全武装状態で我を忘れず、壊れずに済んでいるのも、地獄での修行の日々のおかげだ。あの呼吸をするように血反吐を吐いていた日々がいまのセツナを支えている。
そして、聞こえる。
声だ。いくつもの声。数多の、それこそ数え切れないひとびとの声。戦場に満ちた統一帝国軍将兵の様々な声が、セツナの意識を震わせる。だれもが、統一帝国皇帝ニーウェハインを讃え、敬い、尊んでいた。その無事を祈り、願っていた。ニーウェハインによる統治を求め、ニーウェハインによる新時代の到来を望んでいた。ニーウェハイン皇帝陛下ならば、この混沌とした時代も切り抜けられる、と、そう本気で信じている。それもこれも、ニーウェハインがみずから率先して戦場に立ち、将兵の前に身を以て指し示したからだろう。
特大隕石を粉砕したのは、ニーウェハイン自身だった。その姿は、だれの目にも焼き付き、彼への忠誠心、皇帝ニーウェハインへの信仰心を新たにしたのではないか。
「いまやあなたは統一帝国になくてはならない存在となったのだ。ただの正当後継者だからではなく、あなた自身の力で勝ち取った信頼が、この戦場全体を包み込んでいる。耳を澄ませば、聞こえるはずだ。ニーウェ。ニーウェハイン皇帝陛下。聞いてください、皆の声を。皆が、あなたを必要としているのです、陛下」
ニーナの声は、凜としていた。変わり果てた姿のニーウェハインの中に、彼の魂が存在し、自我があると信じているのだ。ニーウェハインならば、神の支配をも断ち切ってくれると、信仰しているのかもしれない。藁にも縋る想いといえばそれまでだが、しかし、ニーナの様子にはそういった必死さは感じられなかった。彼女は、ただ、信じているようなのだ。ニーウェハインならば当然そうであるものと信じ切っている。それは、確信に近い。
ナリアは、そんな彼女を嘲笑う。
「何度もいったはずです。彼の自我どころか、魂も作り変わったいま、あなたの声に応じるはずもないでしょう」
それは、道理だ。
これまでもそうだった。神人とは、神の力を得た人間ではない。神人とは便宜上の呼称であり、神の力によって変容した存在といったほうが正しいのだ。肉体のみならず、精神にまでその変容は作用し、魂までも形を変えてしまうという。神の力でもってもしても元に戻せないというのは、そういう次元の問題だからだ。自我も意識も精神も、なにからなにまですべて失われてしまっているのだ。
だが、それでもニーナはニーウェハインを信じていたし、セツナも希望を見出さざるを得なかった。なぜならば。
「だったらどうして、あいつは俺たちを攻撃しない?」
「え?」
「あいつには、俺を襲うように命令しているんだろう。俺への攻撃を邪魔するものへの、ニーナさんへの攻撃だって命令しているはずだ。だのに、なぜ、攻撃してこない。余裕ぶっているってんなら話は別だがな」
「なにを……?」
ナリアは、ようやく気づいたようだった。
ニーウェハインは、爆撃から身を守って以来、セツナたちへの攻撃の手を止めていたのだ。爆発は収まり、爆煙さえも風に流れて消えて失せた。彼の行動を妨げるものはなにひとつない。ましてや、セツナは、メイルオブドーターの翅の障壁を展開していなかった。セツナたちを攻撃するには絶好の機会だったはずだ。だのにニーウェハインだったものは――いや、ニーウェハインは、セツナたちを攻撃するどころか、考え込んでいるような有り様だった。
巨躯を折り曲げ、頭を抱え込むようにするその様は、懊悩と表現してもいいだろう。
「ニーウェハイン! ニーウェ! なにをしているのです! わたしの命令を聞きなさい! あなたが耳を傾けるのは、わたしの声だけでしょう!?」
ナリアが取り乱すのも無理のない話だ。寝耳に水とはまさにこのことだろう。ナリアは、ニーウェハインを神人、あるいは使徒として作り替えたのだ。人間ではなくなり、神に隷属する存在と成り果てた。ナリアの思いのまま動く操り人形と化したのだ。ニーナの声など届くはずがない。ニーナの言葉に耳を傾け、戸惑うはずがないのだ。
ならばなぜ、ニーウェハインは、頭を抱えこんでいるのか。
答えは一つ。
「ニーウェ! 聞こえるだろ? 聞こえてるんだろ! 俺たちの声が、皆の声が!」
「ニーウェ!」
「なぜ、どうしてなのです? どうして、わたしの命令に従わない……!?」
ナリアが半ば狂乱するかのように叫ぶ中、声が聞こえた。
「……ああ、そうだ。聞こえる。聞こえるよ……声が。皆の声が。わたしを必要とするものたちの声が」
声は、ニーウェハインだったものの口から漏れていた。神人化した直後、右半身の力だけで自我を取り戻したときとは違う。全身が彼の意思によって動き、口もまた、彼の意のままに動いているようだった。なめらかではないが、決して辿々しくもない。強い意志があり、その意志のままに上体が動く。
「だれもが……そう……統一帝国のだれもが、わたしを求めている。統一帝国皇帝ニーウェハイン・レイグナス=ザイオン。皇帝は帝国の神であり、神の庇護なくしては帝国に安寧は訪れ得ない。わたしは……皇帝。わたしは、神……」
静かに、ことさらゆっくりと状態を起こし、抱えていた頭を解放したニーウェハインの双眸からは、金色の光が漏れていた。いや、両目からだけではない。全身、どこからともなく溢れ出た光が、彼の異形の巨体に亀裂を走らせていく。
光はまばゆく、そして、神々しかった。