第二千六百十六話 白と黒(八)
白と黒の怪物は、六枚の翼を広げ、こちらを仰ぎ見ていた。
もはや人間の原形からかけ離れたその姿は、怪物としか形容しようがない。天使的な要素、悪魔的な要素は多分にあれど、どちらも中途半端なものといってもいいだろう。白く神々しい左半身は天使的であり、黒く禍々しい右半身は悪魔的だ。その分かれ目というのは、巨体の中心線であり、見事なまでの左右非対称だった。それ故に中途半端な存在といえるのだが、とはいえ、それが問題なわけでもない。
問題なのは、それには自我はなく、ナリアの意のままに動く操り人形に過ぎないということだ。ただの神人とは比べものにならない強度を誇っているのは、先程の一瞬で理解できた。おそらく、ナリアによって強化され、使徒並か使徒そのものに格上げされている可能性がある。
(使徒……か)
神の使徒とは何度か交戦経験がある。マルカールやゼネルファーのことだが、いずれも神に操られていたのだろうが、操られていることを自覚していない風ではあった。自我を持っていたのだ。その自我も支配者たる神にとって不都合な部分には手が加えられていたかもしれないし、深層の部分では完全に支配されていたのだろうが。
なんにせよ、使徒と交渉の余地があるかどうかでいえば、支配者たる神の意思次第としか言い様がなく、そうである以上、ニーウェハインだったものとは、交渉を持てないのは明白だった。彼は、ナリアの使徒なのだ。ナリアは、セツナにニーウェハインを殺させようとしている。そうすることで、少しでもセツナの心を削ろうというのだ。
だからといって、ここでナリアに攻撃を集中すれば、同じことだ。
仮にニーウェハインだったものの攻撃を潜り抜けながらナリアを滅ぼせたとして、使徒たる彼が生き延び、元に戻るなどという奇跡が起こるはずもない。
ニーウェハインだったものが上空のセツナに向かって右腕を掲げた。両方の前腕は大きく肥大しているのだが、右の前腕には無数の突起があり、その突起が一斉に射出された。無数の黒き刃が光熱を帯び、爆発的な速度でセツナの元へ殺到する。しかし、あまりに直線的な軌道は、避けるには容易く、セツナは水上付近まで降下すると、風圧で水飛沫が上がるのを認めながら、怪物に接近した。通信器が鳴り響く。前方、水柱が上がった。怪物が六枚の翼を羽撃かせ、周囲の水を舞い上げたのだ。
『セツナ。ニーウェハインのことなのだが……』
通信器から聞こえてきたのは、無論、マユリ神の声だ。申し訳なさそうな声には、いまのいままでニーウェハインを探し回っていた苦労が窺い知れる。
「……ああ。こっちにいるよ」
『そうか。やはりか……』
「彼は……彼の白化症の原因は、ナリアだった」
『……そういうことか』
「マユリ様にも、どうにもできないんだろう?」
『済まない……』
「謝らないでくれよ、マユリ様はなにも悪くない」
『セツナ……』
通信中も、激闘は繰り広げられている。神の力を得たニーウェハインだったものの力は凄まじいが、完全武装状態かつ多種多様な支援を受けたセツナの敵ではない。敵ではないのだ。斃しきることは簡単であり、滅ぼそうと思えば、容易く滅ぼせる。使徒は使徒に過ぎない。神ではないのだ。いまのセツナにしてみれば、ニーウェハインだったものの猛攻は、児戯に等しい。怪物がどれだけ力を発揮しようとも、剛腕の一振りによって生じる衝撃波だけで移動城塞の一角が崩れ去ろうとも、セツナには当たらない。
だが、セツナもまた、ニーウェハインだったものを攻めあぐねている。それはもはやニーウェハインだったものであり、ニーウェハインではないのだ、と、どれだけ思っても、いくら理解していても、心は、納得しない。感情は、認めてくれない。怪物の動作に致命的な隙を見出しても、そこに付け入ることができない。攻め込めないのだ。
(どうしろってんだ……!)
セツナは、自分の優柔不断さに怒りさえ覚えた。状況は、逼迫している。八極大光陣の打破から随分と時間が経過していた。一刻も早くナリアを討たなければ、ナリアが再び八極大光陣を布いてしまうかもしれない。そうなれば、セツナたちに勝ち目はない。もう一度八極大光陣を攻略するだけの戦力は、こちらには残されていないのだ。ナリアが消耗した戦力の回復を待ってくれるわけもない。
いましかないのだ。
いま、この機を逃せば、セツナたちはもう二度とナリアに打ち勝つことはできなくなるだろう。そして、八極大光陣を布き、絶対無敵の力を得たナリアによって、セツナは絶望のどん底に突き落とされることだろう。それが、ナリアの狙いだ。ナリアは、セツナを絶望させることに躊躇いがない。自分の目的のためならば、この世界がどうなろうと知ったことではないし、セツナたちがどのような目に遭おうとも関係がないのだ。
ニーウェハインだったものを、怪物と成り果てた彼を斃す以外に道はない。
覚悟を決めろ。
そんな声が聞こえた気がして、彼は、矛を握り直した。覚悟はある。疾うに決めている。それは事実だ。だが、わずかでも可能性があるのならばそれに縋りたいという気持ちもあったのだ。だから、ニーウェハインを殺さず、戦いを終わらせる方法を模索しようとした。しかし、それも無駄に終わった。ナリアにその気がないからだ。
交渉の余地がない。
ナリアは、この世界を滅ぼし、本来在るべき世界への帰還を望んでいる。一刻一秒も早く、帰りたがっている。形振り構ってなどいられないのだ。世界を滅ぼすためならば、自由を取り戻すためならば、どんな手段でもどんな方法でも用いようというのがナリアだ。なんの代償もなく、こちらの望みを聞き入れてくれるわけもない。そして、その代償が世界の滅びである以上、お互い、相容れることがないのだ。
怪物の巨躯が躍る。セツナの三倍はあろうかという巨躯。白と黒、光と闇、相反する性質で構成された肉体は、その異なる性質に基づく方法で攻撃してくる。猛攻。物凄まじい攻撃の嵐は、しかし、セツナにはやはり緩慢なものであり、容易く捌ききることができた。どれだけ強化されようと、神人は神人、使徒は使徒に過ぎない。対神属決戦装備とでもいうべき状態にあるセツナが敗れる要素は一切ないのだ。そしてそれは、ナリアの思い描いた状況に違いない。セツナが反撃に出れば、その瞬間、勝負は決まる。セツナの圧倒的勝利に終わるのだ。
ニーウェハインだったものを滅ぼすことは、あまりに簡単だ。
それこそ、赤子の手を捻るくらいに容易であり、だからこそ、セツナにはやり切れない。
猛攻を捌き、かわし、やり過ごしながら、なんとかできないものかと頭脳を巡らせる。神人化したものを救う方法はない。マユリ神にも断言されたことだ。もし、マユリ神の力や、あるいはなんらかの方法で神人化した人間を元に戻すことができるのであれば、それは奇跡以外のなにものでもない。人間にしてみれば神の御業こそが奇跡なのだが、その神の御業をもってしても、神人や神獣という別の存在に変容したものを元に戻すことはできないのだ。
それでも、と、セツナは、怪物の肥大した拳を受け止め、金色に輝く双眸を見つめ、ナリアを一瞥する。空の彼方、宇宙を内包する光明神は、セツナが焦り、精神的に追い詰められている現状を見て、喜んでいるようだった。
『ひとつ……思いついたことがある』
「え?」
不意に聞こえてきたマユリ神の声は、思わぬものであり、セツナの意識を奪った。その瞬間、隙が生まれたのだろう。強烈な衝撃が脇腹を突き抜け、肺の中の空気をすべて吐き出す羽目になった。二重の意味で、不意打ちを食らったのだ。通信器を通して聞こえてきたマユリ神の声と、怪物の殴打。黒い右拳による強打だ。もっとも、それでさえメイルオブドーターの障壁を破るほどの威力ではなかった。ではなぜセツナが脇腹に激痛を覚えたのかといえば、打撃の衝撃だけが障壁を擦り抜けたからだろう。どうやったのかはわからないが、ニーウェハインだったものの能力としか考えられない。だとすれば、注意する必要がある。
『賭けになるが……試してみる価値はある』
「なに……? なにを試すって?」
『おまえは、彼女を護ってやってくれ』
「え……?」
マユリ神は、ろくな説明もせずに一方的に話を進めると、セツナの目の前にある人物を転送させてきた。
「お止めください! ニーウェハイン陛下!」
転送されてきた人物は、セツナとニーウェハインだったものの間に立ちはだかると、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
物々しい召喚武装の鎧の力によって浮かぶ人物の名は、ニーナ。
ニーナ・アルグ=ザイオン。