第二千六百十四話 白と黒(六)
殺意の奔流となって押し寄せる無数の触手に対しセツナが取ったのは、回避行動だった。翅を羽撃かせ、全力で飛び退く。白濁した触手は耳を劈くほどの高音を上げながら、様々な軌道を描いてセツナに追い縋ろうとする。だが、速度では、セツナのほうが遙かに上だ。追いつけない。
「なにをしているんだ、セツナ」
「見りゃわかるだろ、避けてる」
「切り落とせよ、それくらい簡単だろう」
「できるけど」
「痛覚は死んでる。なにも気にする必要はない」
「そうじゃなくて!」
セツナは、ニーウェハインのいいたいことを理解しながらも、知らない振りをするように頭を振った。考えずともわかる。彼が辛くも繋ぎ止めた、あるいはやっとの想いで取り戻した意識を振り絞り、セツナに語りかけてきた理由くらい、聞かずとも想像がつくものだ。彼のこれまで、彼との今日この瞬間までのやり取り、経緯、絆が想起させる。
彼は、自分が神人化することをなによりも恐れていたのだ。神人と、化け物となり、周囲のひとびと――特に最愛のニーナや側近たちを傷つけてしまう可能性に恐怖し、夜も眠れぬ日々を送っていたに違いない。
セツナは、マリアたちが白化症の治療法が確立してくれるものと信じ、その日が来ることを待つことができた。なぜならば、当事者ではないからだ。白化症の罹患者でもなければ、身内に罹患者がいるわけでもない。故にマリアたちを信じていれば良かった。マリアとアマラならば、必ずや白化症の治療法を確立してくれるだろうと信じ、待ち続けていればよかった。だが、彼は違う。彼は白化症に発症した当事者であり、体の一部が既に変容を始めていた人間だ。しかも一度暴走した白化症の部位が、セツナに襲いかかったという事実がある。彼が苦悩するのは、当然のことだった。
そして、彼はいまや神人と化してしまっていたのだ。ナリアの神威に毒され、人間性を奪われ、変容した化け物。彼が辛くも自我を保っていられるのは、彼のいうように右半身のおかげなのだろう。異界化した右半身が、彼の自我を護ってくれた、と考えるべきか。
「俺のことを想ってくれるのは嬉しいがな。それよりも大事なことがあるだろう」
「ニーウェ」
「ここでナリアを討たなければ、討てなければ、世界は滅びるかもしれないんだぞ」
「ナリアを討てば、おまえが死ぬ」
「構わないさ」
「ニーウェ!」
「本気だ。冗談でもなんでもない」
ニーウェハインは、笑わない。黒い悪魔の如き顔の右側だけで、彼はいうのだ。
「俺は……いや、わたしは統一ザイオン帝国皇帝だぞ。わたしの命は、帝国臣民のためにある。帝国の秩序、帝国の平穏、帝国の安寧が約束されるのであれば、そのために死ぬことくらい、安いものだ」
「でも、それじゃあニーナさんはどうなる!?」
「ニーナには、姉上には悪いが、我慢してもらうしかない。帝国のため、臣民のためだ。ザイオン皇家の人間たるもの、人柱になる覚悟は生まれ持っている」
「そんなもの、認められるかよ!」
憤懣やるかたなく、セツナは叫んだ。叫んでも、白化部位の追撃は止まらない。濁流の如く押し寄せる白い触手の群れ。打ち払うのは簡単だ。ニーウェハインに影響がないというのなら、それでも構わないはずだが、それを行えば、意思表明になってしまうのではないか、という恐れがあった。目的のためならば、ニーウェハインを殺しても構わないという意思を世界に明示してしまうのではないか。それは、セツナの望むところではない。
「我が儘をいわないでくれ、セツナ」
「なにが我が儘なんだ!?」
「君のいっていることが、だよ」
ニーウェハインは、静かに頭を振る。右半身だけがいうことを聞くというのは本当なのだろう。彼の左半身は、彼の想うとおりに動かないようだった。首を振る仕草があまりにも強引というか、ぎこちない。
「君は、すべてを求めすぎている。完全な勝利。完璧な結末。犠牲は少なく、得るものは多く。それが君の望む結果なのだろう。この戦いの勝利の形なんだろう。だが、現実にはそれは不可能だ。既に犠牲は多く、数え切れないほどだ。有望な武装召喚師たちが数多と死んだ。老いも若きも命を落とした。幸福な結末なんてものは、もはや存在しないんだよ。それになにより、君が俺に拘れば拘るだけ、犠牲が増える一方だ。いまこの時間さえ、勿体ない」
「……俺は欲深なんだよ。百万世界一、な」
「この分からず屋が」
彼は、吐き捨てるようにいうと、翼を広げた。黒い翼が羽撃くたびに羽根を撒き散らし、無数の羽根が彼の周囲を彩るように舞い踊る。彼の意思とは無関係に暴走を続ける左腕と、彼の意のままに動く右半身は、極めて対称的だった。天使の如き左半身のほうが余程恐ろしいというのは、印象としては奇妙な感じがしないでもないが、神の化け物を天使などと呼ぶ気も起きない以上、そのほうが正しいといえるのだろう。右目が輝く。ニーウェハインは、その右目の魔眼でもって捕捉した対象を自動追尾する攻撃手段を持つ。
それが黒い羽根だ。
一斉に解き放たれた羽根の弾丸は、高空を爆走する触手とは反対側からセツナに殺到してきた。逃げ惑っていたセツナは、無数の黒き羽弾と数多の白い触手に包囲されたのだ。挟撃どころの話ではない。全周囲、ありとあらゆる方向、角度からニーウェハインの攻撃が迫ってきていた。ニーウェハインは、遙か彼方だ。ならば、問題はない。巻き込まない。
「覚悟を決めろよ」
「決まってるさ、ずっと」
告げて、セツナは、黒き矛の力を発動させた。黒き矛に込められた力を全周囲に向かって放出したのだ。セツナが全周囲攻撃と呼称する黒き矛の能力は、発動した瞬間、力の爆発を引き起こした。力は、さながら閃光となって球状に拡散し、セツナの包囲していた羽弾と触手を尽く破壊し、焼き尽くしていった。精神力の消耗は激しく、多用のできない攻撃手段だが、包囲され、窮地に陥った場合の挽回策としては優秀だ。
実際、爆発光が消えると、彼の周囲には触手も羽弾も残っていなかった。遙か前方に浮かぶニーウェハインの左腕が静かに復元する様を見ると、左腕をほとんど吹き飛ばしてしまったようだが。
致し方がない。
これは、決意表明だ。
「ようやく、か」
「なにが」
「ようやく、俺を殺す覚悟を決めたか」
「ちげえよ」
「なに」
ニーウェハインは、怪訝な声を発する。表情は大きく変えられない以上、声音で感情を表現するしかないといった様子だ。
「俺はおまえを殺さない。殺してたまるものか。おまえを殺して、ニーナさんを不幸にして、それでよしだなんて、だれが認めるかよ」
「戦いに犠牲はつきものだ。それくらい、君だって知っているはずだろう」
「知っているさ。知りすぎるくらいにな」
セツナは、ニーウェハインの目を見つめながら、肯定した。その通りだ。戦いに勝つためには、犠牲を払う必要がある。犠牲の出ない戦いなど、あるものではない。そも、犠牲が出ずに済む、血が流れずに済むのであれば、戦いには発展しないものだろう。戦いが始まったということは、血が流れるということなのだ。それはわかっている。わかりすぎるくらいに、わかっているのだ。何度も見てきた。何度も実践してきた。この身を以て、経験してきたのだ。
「だから、嫌なんだろ!」
「これ以上……駄々を捏ねないでくれ」
「駄々でも我が儘でもいいさ、通させてもらう。俺のやり方、俺の戦い方をな!」
「君は……」
呆れ果ててものも言えないというようなニーウェハインの声音の片隅に、どこか嬉しそうな響きがあったのは、気のせいではあるまい。ただ、哀しみも混じっている。彼のその感情の所以も、理解できる。
状況はなにも変わってはいない。好転したどころかむしろ悪化の一途を辿っている。ニーウェハインの左半身は相変わらずセツナを攻撃するべく動いていて、彼はそれを抑えかねている。彼の意識がいつまで保つかもわからない。保ったとして、どうなるものか。
そしてなにより、ニーウェハインを殺さないと決めた以上、ナリアを滅ぼせないということだ。