第二千六百十二話 白と黒(四)
それを白と黒と認識したのは、それが黒き異形の右半身と白き異形の左半身を持つ存在だったからだ。そしてその全体像を精確に把握した瞬間、セツナは理解した。ナリアがなぜ、セツナと黒き矛の力を恐れながらも、どこかに余裕を隠し持っていたのか。
すべては、このときを待っていたのではないか。
「ニーウェハイン!?」
セツナは悲鳴にも等しい叫びを上げた。そう、そこにいたのは、ニーウェハインだった。異界化し、異形化した右半身は黒い怪物そのものであり、紅く輝く右目がこちらを睨んでいる。左半身もだ。左半身も、人間のそれとは異なっていた。完全に白く変容しているのだ。白化症に冒されたものの成れの果てたる神人と同じだ。皮膚全体が白で塗り潰されている上、奇妙に肥大し、白い翼が無数に生えていた。無数の黒い翼を生やした右半身とは対称的だった。白と黒。左右非対称でありながら、どこか対称的なのだ。
悪魔のような右半身と、天使のような左半身というべきだろうか。
実際、顔面の右側は悪魔的な禍々しさがあったが、左側は、慈愛に満ちた天使のような表情をしていた。白く変容してはいても、だ。だから、それがニーウェハインだとわかったのだ。ニーウェハインの、セツナそっくりな顔がそこにあった。
セツナと同じ顔をしたものが、ニーウェハイン以外にいるはずもない。
セツナは、ナリアを睨み、吼えた。
「ナリア貴様!」
「あなたも、知っていたでしょう? 彼が、ニーウェハインがあなたたちのいう白化症に冒され、苦しんでいたことを、認識していたはずです」
ナリアは、セツナが昂ぶる様を見て、ほくそ笑んだようだった。それが、セツナには許せない。ニーウェハインは、あの特大の隕石を破壊し、消耗しきっていたはずだ。いや、だからこそ、なのだろう。ニーウェハインが消耗しきっていたからこそ、彼の白化症を進行させることが容易かったのではないか。ニーウェハインの白化症は、左半身全体にまで至ってはいなかったはずだ。しかも、マユリ神の加護によって抑えられていた。それが神人へと変容するほどにまでなってしまったのは、どういうことか。
「彼は、世界が壊れたあの日、わたしの神威を浴びた。故に神化をはじめたのです。神次元への順応を。そして今日まで、わたしの目となり、南大陸を監視していたというわけです」
「ずっと見ていたってわけか、ニーウェハインの目を通して!」
「そういうことです。ですから、わたしはあなたが南大陸に到来したことを知れた。わたしが南大陸を訪れたのも、そのため」
ナリアが、不意に苦笑した。
「まあ、八極大光陣を布いたため、不要と判断していたのですが……つい先程、彼がその存在を想い出させてくれました」
「……不要と切り捨てたものを利用しないと行けないくらい追い詰められたってわけか」
「なんとでもいいなさい。あなたには、為す術もないでしょう? あなたに、彼が殺せますか」
「くっ……」
セツナは、歯噛みした。
ナリアのいう通りだ。ニーウェハインを殺すことなど、できるわけがない。ニーウェハインは変わり果てた。もはやそこにいるのは、ニーウェハインなどではない。白化症患者の末路は、嫌というほど見てきている。神人となったものには、もはや自我はなく、破壊と殺戮を振りまくだけの神の怪物と成り果てている。
そして、神人となったものを救う方法はない。
殺す以外には。
(いや!)
セツナは、胸中頭を振り、ニーウェハインを見上げた。
「ニーウェ!」
叫び、呼びかける。が、ニーウェハインだったものは、こちらを見て、双眸を輝かせただけだ。声に反応したのだ。敵の声に。そしてセツナを睨み、吼えた。大気を揺さぶる異形の咆哮が響き渡り、無数の翼が虚空を叩いた。姿が掻き消える。それほどの速度。一瞬後には、眼前に姿があった。肥大した左拳が唸りを上げながら迫り来る。闇の翅で受け止めれば、そのまま吹き飛ばされた。痛みはない。翅を貫くほどの威力はなかった。だが、油断はできない。相手は、こちらを斃すつもりなのだ。
(殺しはしないだろうが)
殺さないからといって、痛めつけないとは限らない。
吹き飛ばされた先で展開し、ニーウェハインを視界に収める。ナリアの動向も気になったが、どうやら気にする必要はなさそうだった。ナリアは、高みの見物を決め込んでいる。セツナがなにもできないことを知っているからこそ、ニーウェハインにいたぶられる様を観覧しようというのだろう。それがさらにセツナの怒りを昂ぶらせるのだが、その怒りをナリアにぶつけるには、まず目の前の相手をどうにかする必要がある。
「聞こえないのか! ニーウェ!」
ニーウェハインは、右目を大きく見開いていた。血のように紅い虹彩の中心、瞳孔が開ききり、その奥底から赤黒い閃光が迸る。セツナは咄嗟に右に飛んだが、翅の障壁の一部が掠り、貫かれた。貫通力においては、眼光線のほうが左拳による強打よりもあるようだ。受け止めていた場合のことを考えると、ぞっとする。障壁ごと体を貫かれていただろう。
当然だが、加護などで強化された肉体よりも、メイルオブドーターの翅の防壁のほうが強固なのだ。防壁を貫くような攻撃が肉体を貫けないわけがない。
ただ、幸いなことに、眼光線は、そう簡単に連発できないようであり、ニーウェハインは、すぐさま別の攻撃に移った。両腕を前方に突き出すように構え、前腕や二の腕から無数の触手を突出させてきたのだ。黒い触手と白い触手。いずれも尖端が鋭利な刃のように研ぎ澄まされている。触手というよりは、牙か角とでもいったほうがいいのかもしれない。
「ニーウェ! 止めろ! 止めてくれ!」
セツナは、ただ、逃げた。追いかけてくる触手を撃ち落とすのではなく、かわし続けたのだ。回避し続けながら、ニーウェハインの説得を試みるも、ニーウェハインは聞く耳を持たない。それはそうだろう。彼は神人化しているのだ。白化症罹患者ではないのだ。こちらの声は聞こえない。こちらの言葉は届かない。こちらの想いは響かない。
だが、それでも、と、セツナは想う。想わざるを得ない。相手は、ニーウェハインだ。自分の半身だから、ではない。彼を殺せない。殺すわけにはいかない。そんなことをすれば、多くのひとが不幸になる。ニーナやランスロットたちがあまりにも哀れだ。
「無駄ですよ、セツナ」
ナリアの声には、完全に余裕が戻っていた。セツナが逃げ惑う様を見て、落ち着きを取り戻したのだろう。そして、こうなればもはやみずから手を下す必要はないと想っているのではないか。それくらい、ナリアは余裕を持っていた。
「彼は、いまやわたしのものなのですから、あなたの声など、届くはずもありません」
「うるせえ! 黙ってろ!」
「うふふ……随分焦っているようですね。先程までの威勢はどこへいったのでしょう?」
「うるせっていってんだろ!」
セツナは、怒りの赴くままに黒き矛をナリアに向け、激情のままに“破壊光線”を撃ち放った。切っ先が白く膨張し、破壊的な光の奔流がナリアの元へ押し寄せる。ナリアは動かない。それどころか、みずからを護る素振りも見せなかった。ただ、微笑む。そして、“破壊光線”は、直撃した。
「……くそが」
セツナは、吐き捨てるようにいって、ナリアを睨んだ。ナリアの目の前には、“破壊光線”を受け止めたがために、左半身の大部分を失ったニーウェハインが浮かんでいた。
「彼はわたしの矛であり、盾。わたしを護るのは、当然ですね」
ナリアは、慈しむようにニーウェハインのぼろぼろの左半身を撫でた。セツナの“破壊光線”によって破壊された左半身が、ナリアの力によって見る見るうちに復元していく。それはまるで当てつけのようであり、挑発のようでもあった。