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第二百六十話 夢の残滓

 瞼は、思った以上に軽かった。

 眼を開くと、視界に飛び込んできたのは薄暗い世界だ。全身がずきずきと痛み、意識が覚醒したことを全力で喜んでくれているのがわかる。

(嬉しくないけどな)

 セツナは、体中を支配する圧倒的な疲労感にため息を浮かべた。軽かったのは瞼だけらしい。手も足も自由に動かない。まるで拘束されているような錯覚さえ抱く。無論、彼の手足は縛られてはいない。本来ならば自由に動かせるはずだった。動かせないということは、体に問題が生じているからだろう。問題といっても、この疲労感以外には考えられないのだが。

 暗闇に目が慣れるまで時間はかからなかった。目が慣れてくると、見えてくるものがある。広くもない空間に山積された荷物は、ここが馬車の荷台の中だということを教えてくれるようだった。天井の低さにも納得ができるというものだ。馬車の荷台の屋根は決して低いというわけではないが、一般的な建物の天井と比べると低く感じるものだ。

 戦闘後に気を失うのはいつものことだが、馬車の中で目覚めるというのは珍しい気がする。いつもは、どこかの家の部屋だったりすることが多い。そして、寝心地の良い寝台が用意されているのだ。特別待遇、というほどではないが、それに近い待遇を受けていたのは間違いない。いつもは黒き矛の戦果に報いてくれていたのだろう。

 しかし、今回はそうではない。馬車の荷台に敷かれた毛布の上に寝かされている。毛布は何重にも積み重ねられており、少しでも寝心地の良さを提供しようとしてくれたようではった。その努力は認めるし、気遣いは嬉しいのだが、やはり、普通に寝台の上で横になる方が心地いい。もっとも、この全身の痛みと疲労では、どこで寝ていても同じことかもしれないが。

(そうか、戦いが終わって……)

 セツナは、空気を吸うだけで痛みが走るという事実に辟易しながら、自分がなぜ馬車で寝ているのかを察した。

 ザルワーンの軍勢との戦いは、セツナの活躍もあって西進軍の圧倒的な勝利で終わったはずだ。最後まで見届けることはできなかったが、敵軍の半数以上を殺したのだ。敵は抵抗する気力も失せただろう。実際、彼の足に縋り付いてきたものもいた。あの男は、戦意を失いながら、それでも生への執着を捨てきれなかったのか。それとも、セツナの殺戮がただ恐ろしかったのか。

 どちらにせよ、セツナは、彼に縋りつかれたことで矛を収めた。二本の黒き矛による殺戮劇は、そこで幕を閉じたのだ。

 戦勝後の西進軍が、バハンダールに戻るはずもない。バハンダールからの出発において、西進軍は、ビューネル砦までの行軍に必要なだけの物資と兵糧を運び出していた。ルベン近郊の平原で待ち構える敵軍を撃破後、ビューネル砦へと向かうのが、西進軍の方針だった。

 とはいえ、ビューネル砦には向かうものの、即座に攻撃を仕掛けるわけではない。中央軍、北進軍との連携を確認し、各砦に同時に攻撃を仕掛けなければならなかった。

 ザルワーンの首都・龍府の周囲五ヶ所には、五方防護陣と呼ばれる五つの砦があり、ビューネル砦はそのひとつなのだ。五方防護陣は、五つの砦が強力に連携を取っており、一箇所だけを攻め立てても両隣の砦から援軍が差し向けられるということだった。砦ひとつを落とすのなら西進軍の戦力でも十分可能だろうが、西進軍だけが突出して砦に攻め込めば、両隣の砦の戦力も一手に引き受けることになるかもしれない。龍府への総攻撃を目前にして、兵力を少しでも失いたくないガンディア軍としては、歓迎すべきものではない。

 万全を期すのなら、隣り合った三つの砦を同時に攻撃することで、他の砦からの援軍を最小限に押しとどめるべきだ。というのが、ガンディア軍の方針だった。そのためには、三つに分けた軍の足並みを揃えなくてはならない。

 砦への攻撃までは、たっぷりと時間がある。

(万全を期す……か)

 中央軍や北進軍との連携が取れるようになるまで時間がかかるだろう。その時間を無駄にはできない。とはいえ、いますぐできることなどたかが知れている。現状、日課の訓練も覚束ないはずだ。戦いで消耗した体力も精神も回復しきっていない。しっかり休まなければならない。休み、回復を図ることもまた、彼の大事な仕事だ。

 とはいえ、戦後、西進軍が取った行動が気になった。ファリアでもいてくれれば教えてもらえるのだろうが、彼女も休んでいるに違いない。ルウファだってそうだ。ふたりとも、重傷といってもいい状態だった。ファリアは満身創痍であり、疲労も蓄積されているに違いない。ルウファはこの目で見たわけではないが、ファリアの状態が感覚で認識した通りだったのだ。彼もまた、セツナの脳裏に描き出された通りに傷だらけなのだろう。

 ふたりとも、休んでいるのかもしれない。

(俺が一番軽傷なのかもな)

 セツナは、ミリュウとの戦いのことを振り返った。思い返すと、負傷らしい負傷はなかった。鎧を破壊されたのが痛いくらいで、それ以外に取り立てて騒ぐほどの傷はなかったように思う。一番の痛撃がミリュウによる抱擁だった。抱擁というより、腕の力で圧殺されかけたのだが。

 骨が折れなかったのが不思議なほどの圧力をかけられた。それもこれも黒き矛のおかげなのかもしれない。黒き矛を召喚したがために窮地に陥り、黒き矛を手にしていたおかげで窮地を脱することができた。二本の黒き矛を掴んだとき、世界が変わった。

(俺が主……)

 黒き竜の言葉が過る。夢の世界に現れた妄想の産物。しかし、ただの夢想とは思えないほどの存在感がある。いまも、セツナの意識を圧迫するように、脳裏に残留し続けている。漆黒のドラゴン。真紅の複眼が、にやりと笑っているのだ。セツナが悩み、苦しむのを楽しんでいるような、そんな風情さえある。

 だが、彼はセツナが黒き矛の主であることを認めているようだった。嘲笑いながらも、馬鹿にしながらも。

(なんなんだよ、いったい)

 セツナは、嘆息とともに天井を睨んだ。思考が渦巻いている。もう一度寝るには、この興奮が冷めるのを待つしかない。が、このまま毛布の上に寝転んでいては、収まるものも収まらないかもしれない。目が冴えてしまった。

 おもむろに起き上がる。全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げた。それはそうだろう。あれほどの戦いをしたのだ。酷使という言葉では生ぬるいほどに体を動かした。二本の矛から流れこむ力のおかげで、普通では考えられないような速度で動けたのだ。肉体の限界を超えた速度。反動がくるのはわかりきっていたことだ。いつものことだといってもいい。一本の黒き矛を振り回していても、反動が来るのだ。二本ならばなおさらだ。一日二日寝ていたとしても不思議ではないし、体力がある程度回復するまでは意識が戻らないなんてことはざらにあった。

 いまは、動けるだけましだと思うほかない。

 即席の寝台から抜け出し、荷台の外へ向かう。

 外へ出ると、夜の闇が頭上にあった。馬車の荷台の中だから暗かったわけではないようだ。月が遠い。星々の明かりも、小さく見えた。雲は少なく、風も弱い。鼻腔をくすぐるのは草花の匂いだ。血と汗の蔓延する戦場の臭いではない。ほっとする。戦場からは移動しているようだった。

 周りを見ると、無数の馬車がいくつもの列をなしていた。アスタル=ラナディースが考案したという行軍方法は、大量の馬車を用いるのだ。その馬車には歩兵や荷物がこれでもかと詰め込まれており、行軍時、地を走るのは馬だけだった。セツナは大抵、だれかの馬の後ろに乗せてもらう。ルウファであることが多いのは、彼が《獅子の尾》副長であるということもあるが、隊長補佐のファリアに乗せてもらうのは照れくさいからでもある。気にしすぎではないかとも思わないではないが。

 馬車の周囲には、西進軍の兵士たちが屯している。鎧兜を着込んでいないところを見ると、戦闘が終わってからかなりの時間が立つのだろう。セツナが意識を取り戻すまでにどれほどの時間が経過したのか。気になるところではあったが、すぐにわかることでもある。

 あの戦場からどれくらい進んだのだろう。談笑する兵士たちの様子から、ビューネル砦を目前にしているという風でもない。警戒感がないのだ。戦いが終わったということもあるのだろうが、気が抜けきっている。もっとも、セツナとしてはそのほうが過ごしやすくていいのだが。軍隊としては、どうだろう。

 そんな、自分らしくもないことを考えているときだった。

「セツナ?」

 声に振り向いて、少しばかり驚く。声の主はファリア=ベルファリアだったが、驚いたのは、彼女の首や手など、体の衣服から露出した部分が包帯に覆われていたからだ。顔面には包帯こそ巻きつけられてはいないが、手当の跡が生々しく残っている。髪も肌も焦げ付いたような様子であり、痛々しいことこの上なかった。足取りも重い。疲労が残っているだけではなく、痛みもあるのだろう。癒えきってはいないのだ。

「もうだいじょうぶなの?」

 ファリアが心配そうな表情を浮かべている。表情がぎこちないのは、痛みに抗っているからではないのか。セツナは彼女の体調こそ心配になった。ファリアもまた、苛烈な戦いを越えてきたのだ。全身傷だらけになるほどの戦闘を乗り越えたのだ。黒き矛の力に頼りっぱなしのセツナとは比べるのもおこがましい。

「ファリアこそ、だいじょうぶなのか?」

「わたしは大丈夫よ。鍛え方が違うもの」

 そういって彼女は笑ったが、微笑もまた、ぎこちないことこの上なかった。

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