第二千六百八話 皇帝たるもの
雷鳴よりも物凄まじい咆哮が響き渡ったのは、超特大の岩塊が光に包まれ、加速し始めた直後のことだ。
おそらくは神の力による加速を得た岩塊だったが、突如響き渡った咆哮とともに生じた黒き奔流に包まれると、その落下を止めた。なにが起こったのかはわからない。ただ、それがニーウェハインによるものだということはだれの目にも明らかだった。
そして、黒い奔流が白く輝く岩塊を飲み込み、でたらめに破砕していく様は、地上のどの戦場からでも見ることができた。ただ視力が強化されているからではない。岩塊が、それほどまでに地上に接近していてたからであり、ニーウェハインの行動が遅れていれば、間もなく、岩塊が地上に激突し、甚大な被害が出ていたことは想像に難くない。
とはいえ、黒い奔流がニーウェハインの異形化した半身の成れの果てだということに気づいたのは、ニーナを含め、そう多くはないだろう。ニーウェハインがなにかをしたのは理解していても、それがなんであるかを知ることができるのは、ニーウェハインの姿を肉眼で捉えなければ、わかるまい。
「陛下……」
ニーナは、空を覆い尽くすほどに巨大な岩塊がゆっくりと、しかし確実に破壊されていく光景に空恐ろしいものを感じていた。それは、とても人間が持ちうる力には思えなかったからだ。無論、知っている。ニーウェハインの右半身がエッジオブサーストの力によって異界化し、異世界の力、つまり人知を越えた力を用いることができるということは聞いていたし、実際にこの目にもしている。この戦場でも、ニーウェハインの右半身が猛威を振るい、数多の神人や神獣を一蹴してきたものだ。その力自体、人知を越えたものだったし、ニーウェハインの姿は人外の怪物に等しかった。
だが、それでも、ニーウェハインがそれまでに使っていた力は、まだ、理解の及ぶ範囲のものだ。たとえば武装召喚術によって呼び出した召喚武装を使うのに似ている。異世界の力とは、いわば、召喚武装の力といっても過言ではないはずだ。ニーウェハインは、つまるところ、右半身を召喚武装として用いていたのではないか。そう考えれば、納得もできる。
しかし、いま目の前で繰り広げられている光景は、ただの召喚武装では成し遂げられるようなことではないはずだ。もちろん、ニーウェハインは、マユリ神の加護や数多の召喚武装の支援を得、常ならざる状態にあったのは間違いない。通常とは比べものにならないほどの力を発揮できる状態だったのだ。
だからこそ、空を覆い尽くすほどに巨大な岩塊を破壊し始めているのだろうが、だとしても、異常に見えた。まるで、ニーウェハインの右半身が爆発しているかのように見えるのだ。右半身が爆発するとともに溢れ出た黒い奔流が岩塊を覆い尽くし、岩塊を破壊し続けている。それはまるで、制御を失い、暴走する力そのもののようであり、そこにニーウェハインの意思が介在しているように見えなかったのだ。
だからこそ、ニーナは、茫然とする。
ニーウェハインは、覚悟を決めていた。皇帝としての責務を果たすのだ、と、息巻いていた。それがどういう意味なのか、理解できないニーナではない。ニーウェハインは、命を賭してでも岩塊を破壊するつもりだったのだ。そして、そのために死ぬのならば、なんら後悔はない、と、彼は想ったはずだ。
彼は、先帝の死に感銘を受け、皇帝に対する認識を改めている。
「陛下が……」
「ああ、陛下が、やったのだ」
「おお……陛下……」
「さすがは……皇帝陛下」
「やはり、皇帝陛下こそ、ザイオン帝国唯一の神……」
周囲で声が上がったのは、超特大の岩塊の落下が止まり、破壊が始まったことがだれの目にもわかったからだろう。感嘆、感銘、興奮、賞賛――様々な声が入り乱れ、ニーナの心を掻き乱す。ニーナは、ニーウェハインを見ていた。破壊され続ける岩塊の表面で、彼はもはや身動きひとつとっていなかった。そこに意思があるのかどうか。あれば、なにか反応して欲しい、と、叫びたかった。
やがて岩塊が真っ二つに割れると、さらに四つに砕け、そこから無数に細分化されていく。そうなれば、もはや完全破壊まで時間はかからなかった。黒い奔流が洪水のように渦を巻き、細分化した岩塊の破片を徹底的に粉砕していく。そしてすべての破片が砕かれると、土砂粉塵が空を漂い、風に流されていった。
自軍全将兵から歓声が上がる。だれもがニーウェハインの活躍を手放しに褒め称えるのだが、ニーナは、それどころではなかった。
頭上の蒼穹には、黒い一点だけが残っていた。その一点とは無論、ニーウェハインそのひとであり、彼は、黒い奔流に飲み込まれ始めていて、ニーナは叫んだ。
「ニーウェッ!」
叫びは、届かない。
ニーウェハインは、一切反応を示さず、黒い奔流に飲み込まれていく。黒い奔流とは、つまり、彼の右半身だ。しかし、異界化した右半身であり、それは彼の意思とは無関係に彼の左半身をも岩塊同様破壊し尽くそうとしているかのようだった。だからこそニーナは叫ぶのだが、ニーウェハインには聞こえている様子がない。
「このままではニーウェが……なんとかならないのですか? マユリ様!」
『案ずるな。我らが英雄をむざむざ死なせるつもりはないよ』
マユリ神の穏やかな声は、ニーナの心を一瞬にして落ち着かせ、彼女は自分の焦燥が恥ずかしくなった。いくらニーウェハインのこととはいえ、我を忘れすぎではないか。だが、そうなるのも致し方のないことだ、と、彼女は想う。一方、このような状況でも冷静さを失うべきではないとも考えるのだが。
空を見ていると、ニーウェハインの左半身をも飲み込もうとしていた黒い奔流が、突如として収縮を始め、元の右半身の形に変わっていった。それがマユリ神の干渉によるものだということがわかっていたこともあり、彼女は、心の底からマユリ神に感謝した。
「マユリ様……なんと感謝申し上げれば良いか……!」
『いまはよい。それよりも、だ』
「はい?」
『状況が動いているぞ』
「状況が……動いている?」
ニーナは、マユリ神の言葉を反芻しながら、前方に視線を移した。
主戦場における戦況というのは、そう大きく変わってはいない。超大型神人が暴れ回る中、白毛九尾を主戦力とする自軍戦力が死闘を続けている。マユリ神の加護が増大したことにより、多少なりとも押し返し始めてはいるものの、依然、敵軍が優勢であることに変わりはない。ニーナとて、なにもしていないわけではない。前方の味方を支援するべく、遠距離攻撃を続けていたのだ。
そんな中でニーウェハインによる岩塊への特攻があったわけだが、岩塊が完全に破壊され尽くしたことは、大陸を存亡の危機から救ったことにはなるものの、戦況そのものに影響を与えたわけではなかった。
当然だ。
戦況が悪化したのは、岩塊のせいではないのだ。神人や神獣の融合による超大型化が戦力差を積み上げた。超大型神人の撃滅報告はある。が、超大型神人は、つぎつぎと誕生していて、どれだけ撃破しても敵戦力が減っている様子はなかった。むしろ、増え続けている。このままでは、圧倒的な戦力差の前に統一帝国軍が敗れ去るのではないか。
『そうだ。セツナが、追い詰めている!』
マユリ神の通信は、ニーナが感じていた不安を容易く吹き飛ばすものだった。
なにを、などと聞かずともわかっている。
ナリアを追い詰めている――。