第二千六百五話 星を落とすもの(七)
「逃げる? いったい、どこへ逃げるというのだ」
ニーウェハインは、皮肉でもなく告げた。すると、ニーナは心外といわんばかりに頭を振り、後方を示した。
「ともかく、後方に下がるべきです。彼我の戦力差は、埋めがたいほどのものとなり、こちらが押されている現状では……」
「下がったところで、あれはどうにもならないだろう」
あれというのは、頭上から降ってくる岩塊のことだ。いままでの岩塊群をすべて足した以上の質量を誇るそれは、戦場を押し潰すだけでは足りないくらいに巨大であり、南ザイオン大陸の全土を吹き飛ばせそうだった。そしてそれがただの岩の塊ではないことも、明らかだ。ただの大質量の岩塊ならば、召喚武装による攻撃や神々の力で容易く破壊し、その破片を一掃することも難しくはあるまい。だが、射程に捉えた召喚武装の数々がいままでの岩塊群を打ち落とせなかったように、並大抵の破壊力では、岩塊を傷つけることは困難であるらしい。
おそらくはナリアの加護によるものだろう。
それはつまり、直撃の威力も保証されているということであり、故にこそ、マユリ神やファリアたちは岩石群の迎撃に全力を挙げ、シーラの白毛九尾の巨大化にすべてを託したのだ。二度目は、セツナが破壊し尽くした。三度目は、どうか。セツナが岩塊を撃墜するべく動いている様子は見えない。少なくとも、空を覆い尽くすほどの彼の分身は、姿を見せていないのだ。
きっと、ナリアに封殺されている。
このままでは、あの特大の岩塊が戦場に直撃し、大陸そのものを消し飛ばしかねない。そうなれば、どうなるのか。
セツナは、絶望するだろうか。
怒り狂い、黒き矛の力を暴走させるだろうか。
先の戦いのように。
「護りを固めれば……陛下おひとりをお守りすることくらいは不可能ではありませんよ」
「だが、そのためにどれだけのものが死ぬ? どれだけの犠牲を払えば、わたしひとりを護れるというのだ。わたしひとり生き残れば、皇帝ひとり守り抜くことができれば、それでいいというのか?」
「お言葉ですが、陛下」
ニーナが務めて厳しい声音でいってくる。空戦形態のインペリアルクロスによって虚空に浮かんだままの彼女の姿は、いつになく勇ましく、凜としている。
「我々、統一ザイオン帝国の家臣たるもの、陛下の御命を御守りするためならば、身命を賭す覚悟があります」
「それで全滅しては意味がない。皇帝ひとりで帝国を立て直せるはずもないだろう。皇帝とは、帝国臣民があって初めて成り立つもの。帝国臣民を護ることこそ、皇帝たるものの責務であり、使命。そうだろう」
「しかし……」
「……必ずやセツナがナリアを討つ。それまでは我々はなんとしてでも持ち堪えなければならんのだ。それが、彼との約束なのだ。彼には大恩がある。彼が、我々に助力してくれたからこそ、統一帝国は成立し、南大陸は安定の兆しを見せた。彼は、船を借りた恩を返しただけだという。ならば、この戦いはなんだ」
前方では、激闘が繰り広げられている。超大型神人と苛烈なばかりの肉弾戦を行っているのは、白毛九尾と化したシーラであり、そのシーラでさえ、死闘を演じなければならないのが超大型神人なのだ。並の兵士たちは、超大型神人の一撃で吹き飛ばされ、一掃されるしかない。女神の加護を受け、数多の召喚武装による支援を受けてなお、超大型神人の攻撃は防ぎきれなかった。
「彼はなぜ、率先して神との戦いに赴いてくれたのだ。恩返しだけではないだろう」
「それは……」
ニーナが口ごもったのは、明確な解を持ち合わせていないからだろう。ニーナは、セツナの人格、心の有り様を詳しく知っているわけではない。ニーウェハインと同一存在だということは知っているし、多少なりとも触れ合い、ひととなりはよくわかっているだろうが、それでも心の奥底まで理解しているはずもなかった。
「極論を言えば、彼には関係のない戦いだった。ウルク殿を取り戻した時点で、彼本来の目的のために動いても問題はなかったのだ。だが、彼は、我々のために率先して助力してくれた。この国の行く末を案じ、文字通り命を賭けてくれているのだ」
それはまさに言葉通りの意味だ。セツナたちは、女神ナリアへの挑戦において、一度全滅の憂き目に遭っている。ラミューリンがいなければ世界が滅びていたかもしれないほどの事態になったのも、すべては、セツナたちが命がけで助力してくれたからにほかならない。そのことへの感謝は、いまこそ強く想うのだ。
絶望的な戦いの中で、それでも希望を抱いていられるのもまた、セツナならば、ナリアだって討ち滅ぼしてくれるものと信じられるからだが。
「ならば、わたしたちも彼の恩に報いねばなるまい」
「セツナ殿の恩に……ですか」
「うむ」
ニーウェハインは、厳かに頷き、右拳を握り締めた。異界化した右半身は、戦闘が過熱するに連れ、異形化が加速しており、もはや人体の原型を留めないほどの変化を遂げている。だが、右半身は彼の肉体であり、彼の意のままに動いた。少なくとも、自分の意のままにならない白化部位よりは遙かに増しだろう。
セツナ一行が助力してくれなければ、大帝国軍との戦争は、一方的な敗北に終わっていたことは、火を見るより明らかだ。物量差、戦力差による圧倒的な蹂躙。統一帝国は為す術もなく滅び去るか、大帝国に降伏したのち好き放題されていたに違いない。
現状のような戦況にすら発展し得なかった。
ここまで食い下がれたのは、とにもかくにもセツナ一行のおかげというほかない。
だからこそ、ニーウェハインは、引き下がれない。ここで彼ひとり引き下がったところで、戦場から逃げ去ったところで、あるいは武装召喚師たちに護られたところで、どうにかなるものではない。あの岩塊がそのまま落ちてこなかったとしても、統一帝国軍が壊滅的な損害を被るのは目に見えている。いや、それどころではない。大陸中に被害は広がり、膨大な数の帝国臣民が命を落とすだろう。彼を皇帝と尊び、敬い、信仰する数多のひとびとが、絶望の中で死んでいくのだ。
それには、耐えられない。
「わたしは、皇帝なんだ。皇帝なんだよ、姉上」
「陛下……?」
「皇帝は、帝国の神であり、帝国という天地を支える柱。でも、だからといって帝都の玉座にふんぞり返っていればいいわけじゃない。いつだって帝国のことを考え、帝国臣民のために行動を起こすのが、皇帝なんだ」
皇帝はひとりだが、皇帝には代わりがいる。後継者たちがいる。後継者たちもまた、いずれも皇帝に相応しい教育を受けてきた人材ばかりだ。だれひとり、自分のためだけを想って行動するようなことはなく、それだけは皇族として誇れることだった。だれもが後継者争いに熱心になっていたのも、皇帝になりたがっていたのも、皇帝になって権力を振るいたいからではなく、自分こそが帝国臣民の上に立ち、帝国の柱たる皇帝に相応しい人間であるという自負があったからだ。
そこに、私利私欲はなかった。
それは、だれもが先帝の背中を見て育ち、あるいはその生き様を目に焼き付けてきたからだろう。
ニーウェハインは、そうではなかった。
早々に遠ざけられたこともあり、先帝のことをよく知らないまま育った。結果、先帝を憎み、自分と姉、母のことだけを考えていた。おそらく、崩壊の日がこなければ、先帝への価値観は変わらなかっただろう。
あの日、世界が崩壊したとき、ニーウェハインは、生まれてはじめて先帝シウェルハインを父として実感し、彼を誇りに想ったのだ。
先帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオンは、世界の崩壊に巻き込まれる帝国将兵を護るため、ナリアの力をもって全軍を転送して見せた。
その結果、自分の命が失われようと、構いはしなかった。
帝国臣民のために命を費やすものこそ、ザイオン帝国皇帝である、と、その身を以て示したのだ。