第二十五話 焼殺する漆黒の魔矛
「なんだ……あれは!?」
ジオ=ギルバースは、右翼に展開した軍勢が、突如として紅蓮の猛火に飲み込まれるのを目撃して、意識が吹き飛ぶほどの衝撃を受けていた。地獄の業火の如き真紅の奔流は、まるで大蛇のようにうねりながら無数の兵士たちを喰らっていく。兵士たちは、悲鳴を上げる暇さえも与えられず、爆炎に飲み込まれてしまった。
あっという間であった。
大きく翼を広げた鳥のような陣形を展開したログナー軍の最右翼が、一瞬にして崩壊してしまったのだ。前線がガンディア軍との戦闘に入って、ほんのわずかしか時間がたっていないのにもかかわらず、である。
考えられない事態だった。
圧倒的な数の有利は瞬く間に水泡に帰し、ガンディア軍を包囲して押し潰すという当初の目論見は呆気なく潰え去った。
「あれはいったいなんなのだ!?」
ジオの叫びは、どこからともなく上がった兵士たちの悲鳴によって掻き消された。想像を絶する事態だった。だれもが、悪夢のような現実を目の当たりにして、恐怖に飲み込まれていった。恐怖は連鎖し、やがて嵐の如き恐慌となって戦線を崩し始める。
「くっ……!」
ジオは、歯噛みして内心の恐怖を押さえ込むと、動揺する周囲の兵士たちを叱咤した。
「なにをしている! 前線を立て直せ!」
だが、戦陣の崩壊は止まらない。
「あれは……セツナか!」
レオンガンド・レイ=ガンディアは、敵陣の右翼を襲った紅蓮の猛火の物凄まじい勢いに、ただ驚くばかりだった。燃え滾る分厚い炎の帯が、ログナーの兵士たちを薙ぎ払ったのだ。その炎がもたらしたログナー側への衝撃たるや、想像を超えるものがあるだろう。
それは、ガンディア側とて同じかもしれない。
レオンガンド自身、手にした長槍を危うく落としてしまうところだったのだ。それほどの驚きが、電流のようにレオンガンドの全身を揺さぶっていた。
(予想以上なんてものじゃない……!)
レオンガンド率いるガンディア軍精鋭部隊と、ログナー軍の正面衝突によって生じた戦闘は、小競り合いといっっても過言ではなかった。重装備に身を固めた歩兵たちが一進一退の攻防を繰り広げる傍らで、レオンガンドは白馬を駆っては敵陣への突入と離脱を繰り返すことで戦線の崩壊を目論んだものの、そう容易く崩せるようなものでもなかった。
そうこうするうちに左翼の敵軍が動き出し、右翼の軍勢もそれに呼応するようにして、こちらを包囲殲滅するための布陣を取ろうとした。左翼の突出には、ルシオンの白聖騎士隊が当たってくれるだろう。
右翼には、傭兵たちがいる――そんなときだったのだ。
真紅の業火が右翼の一軍を薙ぎ払い、ログナーの優勢に傾きかけた戦場に狂乱の嵐を巻き起こしたのは。
(ベル! 君のおかげだ!)
レオンガンドは、感極まって叫びだしたい衝動を辛くも抑えると、動きの鈍くなった敵兵の喉下に手にした長槍の切っ先を突き入れた。
「あれはなんだと思う?」
ハルベルク・レウス=ルシオンに問いかけられながらも、リノンクレア・レーヴェ=ルシオンは、真紅の猛火が敵陣の右翼を焼き払う光景から目を逸らすこともできなかった。
それは、リノンクレアの愛馬エバーホワイトの駿足が、彼女をログナー軍の左翼へと連れて行く最中の出来事だった。戦線が動き出したのを確認した彼女は、予定通り、白聖騎士隊を率いてログナー軍の陣形の横腹を突くつもりであった。
その突撃軍にハルベルクが参加することになるのは想定外ではあったものの、彼の愛馬ムーンドレッドもまた、エバーホワイトに比肩する駿馬である。問題はなかった。
白銀の甲冑に身を包んだ女性騎士の集団に、王子とはいえ、ひとりだけ男が混じっているのは違和感を禁じえなかったが。
なんにせよ、リノンクレアたちルシオン白聖騎士団は、予定通りの進路を辿り、敵陣への突撃を試みようとしていた。レオンガンド率いるガンディアの主力部隊を包囲しようとしたがために、ログナーの左翼の戦線が伸びきっていたのだ。
ただ、突撃あるのみだった。
そんなときである。
遥か前方、敵陣の右翼が、突如として爆炎とでも言うべき業火に飲み込まれたのだ。圧倒的な光景だった。一瞬にして、ログナー軍が形成した陣形が崩壊したのだ。
そう、それは間違いなく崩壊である。
陣形の一翼が消滅したのだから。
「武装召喚師に違いありません」
リノンクレアは、やっとのことでそれだけを口にした。敵陣はもはや眼前にまで迫ってきているのだが、意識は、炎のほうへ向かってしまう。
「それ以外には考えられないな。だが、あれほどの力を持った武装召喚師が、ガンディアにいたか?」
ハルベルクを一瞥すると、いつもは穏やかな彼の表情が、いつになく引き締まっているように見えた。ハルベルクは、決して優男ではないし、むしろワイルドといったほうが近いのだが。
なにしろいつもにこにこと笑みを絶やさない男なのだ。故に、時折見せる冷ややかな表情が、リノンクレアの情動を刺激するのだ。
とはいえ、ここは戦場。みずからの感情に流されるわけにもいかず、リノンクレアは、視線を前方に戻した。夫に言葉を返す。
「いえ……」
ガンディア王国に仕える武装召喚師の能力など、高が知れているのだ。未来の暗い弱小国家に仕官しようとするものが実力者であるほうがおかしい。実力があるのなら、もっと将来有望な国へ赴くべきだし、リノンクレアが当事者でもそうするだろう。
ガンディアの武装召喚師よりも遥かに強力な武装の使い手であるファリア=ベルファリアは、此度の戦に参加しているとはいえ、国王の支配下にあるわけではない。
彼女は大陸召喚師協会に仕える身であり、そもそもその素性を知れば、どうあがいても支配できないことも理解できるというものだ。
そんなファリアの召喚武装とて、あれほどの被害をもたらすとはとても考えられない。戦争向きの武装ではない、というのは彼女の弁である。実際その通りなのだろうが。
だとすれば、考えられるのは――。
「セツナ=カミヤか!」
リノンクレアのつぶやきは、エバーホワイトの跳躍によって風に乗った。
「ひ、引くな! 陣形を立て直せっ!」
それは、だれの怒号だったのだろう。いや、むしろ悲鳴だったのかもしれない。絶叫だったのかもしれない。そしてそれは、断末魔に等しい。
セツナは、眼前に広がる地獄のような光景に愕然としながらも、頭の中に入り込んでくる数多の情報を冷静に分析し、把握していた。
死屍累々という言葉ほど相応しいものはなかった。何百という焼死体が、鎧に抱かれたまま、大地に横たわっていた。燃え盛る紅蓮の猛火に呑まれ、為す術もなく焼き尽くされた兵士たちの亡骸である。
武器による攻撃を寄せ付けないだけの重装備など、すべてを焼き尽くすべく荒れ狂った業火の前では、まったくもって意味を成さなかった。
ログナーの兵士たちは、逃げることも、立ち向かうことも許されなかった。
すべてが、あっという間に燃え尽きた。
「ったく、やってらんねー」
本心からやる気のない声音は、背後のルクス=ヴェインからだった。確かに、彼としてはやってられないだろう。一振りの剣で以て、やっとの思いで十数人を斬り倒した彼にとって、一瞬にしてその数十倍の戦果を上げられれば、やる気が激減しても仕方がない。
だが、それはセツナとて似たようなものだった。
予期せぬ事態だった。
望外の結果だった。
そもそも、黒き矛にこんな力が秘められていると、だれが思うものか。
(いや……)
セツナは、頭を振ると、もはや炎の出なくなった黒き矛を見つめた。禍々しくも美しい漆黒の矛は、セツナの手に良く馴染んでいた。手に触れるだけで意識は研ぎ澄まされ、感覚が冴え渡るのだ。まるで、矛がセツナ自身に力を与えているようだった。
(これは……違う)
セツナは、漠然とした確信とともに、矛の石突に埋め込まれた宝玉に目を向けた。かつてカランの大火のすべてを取り込んだ宝玉は、いつかのように透明な輝きを湛えていた。