第二千五百九十五話 大いなる女神(三)
「だからどうだというのです?」
ナリアは、朗々と響き渡る声で、いってきた。
「確かにあなたのいう通りでしょう。わたしの目的のため、悲願のためには、あなたを殺すことなど言語道断。できればあなたがわたしのものとなり、わたしのために力を行使してくれればそれが最良なのですが、どうやらそれは不可能。あなたは、“支配”することも敵わぬ存在。故にわたしみずからが手を下し、状況を変えることであなたに力を使わせた」
女神の周囲に浮かぶ光の板に流れる映像が変化する。六つの塔内で繰り広げられる攻略班と分霊との死闘、激闘の数々。やはり、マユラ神の姿はない。マユラ神が敗れたというのであれば、堂々と映し出し、それ見たことかと煽ってくるはずだが、それもないということはつまり、そういうことだろう。ナリアにとって、マユラ神の戦況というのは、喜ばしいものではないのだ。それは、セツナの立場からすれば、喜ばしいことに違いない。ナリアはしかし、そういった事実に触れようともせず、自分こそが有利に立っているとでもいうように振る舞っている。
それはそうだろう。
ナリアは、セツナを絶望させたがっている。セツナが意に従わないのだから、どういうわけか“支配”できないというのだから、ほかに方法はない。
「それが最初」
ナリアが虚空を指差すと、その先に浮かぶ光の板に映し出されていた映像が変わった。暗黒空間に浮かぶ無数の球体。宇宙と星々だろうか。そのうちのひとつがどす黒いなにかに飲まれると、周囲の星々もつぎつぎと同じような現象を起こし、宇宙が完全な暗黒となった。その映像がなにを示しているのか、どういう意図で見せてきたのか、いまのセツナには想像がつく。
「時が戻らなきゃ、そうなっていたとでもいいたげだな」
「その通りです、セツナ。あなたは、世界を滅ぼしかけたのですよ。それを棚に上げ、わたしを責めるのはお門違いも甚だしいのではありませんか。あなたは、自分の愛するひとびとを失えば、それだけで世界を滅ぼすことだって躊躇なくできるくらい、身勝手で我が儘な存在なのです」
ナリアは、まるで優しく説くようにいってくるのだが、その声音の奥底には女神の意思の強さ、揺るぎようのない力のようなものを感じて、セツナは、目を細めた。いまさらいわれることではない、というのもある。自覚していることだ。
「あなたのようなものを、悪魔というのでしょう」
「悪魔か」
ナリアの言葉を反芻するのは癪だったが、言葉にして、その響きににやりとした。悪魔といえば、神と対立するものだ。いや、神に対立するからこそ、神に反旗を翻したからこそ、悪魔なのだ。
「悪くないな」
「なんです?」
「俺は、身勝手で我が儘さ。どうしようもないくらい傲慢で、ひとの話を聞こうともしない。いつだって自分のことが一番で、他人なんてどうだっていい」
周りのひとには幸せになって欲しいというのも、究極的にいえば自己満足に過ぎない。自分勝手な我が儘であり、それが幸せになって欲しいと願う周囲のひとびとの心を苦しめているという事実も、そのために多くを犠牲にしているという現実も理解している。独りよがりで欲深。手の施しようがないくらいの身勝手さが、自分という人間だ。セツナ=カミヤという人間のすべて。
「そんな奴は悪魔で十分だっていうのさ」
「……開き直ったところで、あなたがこの世を滅ぼさんとした事実に違いはありませんよ。目的のためならば世界を滅ぼすことも厭わない。わたしとあなたのどこに違いがあるというのです?」
「ないな」
頭を振り、女神の意見を肯定する。
「目的のためならば、あんたを斃すためならば、手段も方法も選ばず、犠牲が出ることも厭わない。だから、俺はここにいる。ここで、あんたを釘付けにしている。あんたは、俺を放ってはおけないものな」
「ですから、それがどうしたというのです? 状況はなにも――」
「いいや」
セツナは、視界の端に拘束された自分の右腕を見ていた。腕輪型通信器が明滅している。マユリ神から通信が入ったのだ。
「状況が動いたようだぞ」
「……いいえ。状況は依然、わたしの優勢のまま」
「どうだか。あんたが一番現状を理解しているんじゃあないのか。あんたの分霊がどうなっているのか、把握しているんじゃあないのか」
『セツナ、聞こえているな? マユラが分霊の二柱を斃したぞ』
通信器から響いてきたマユリ神の声とその内容に、セツナは拳を握り締め、ナリアを見つめた。美貌の女神は、その神々しい姿のまま、表情ひとつ変えず、拘束したままの右腕を見ている。すると、唐突に通信器が爆ぜた。右手首に激痛が走るが、それも一瞬の出来事に過ぎない。痛みはすぐに消え去り、傷口も瞬く間に癒えていく。神人や使徒ほどとはいかないまでも、素晴らしい回復力といわざるを得ない。
セツナは、ばらばらと音を立てて床に散らばった通信器の残骸を確認し、ナリアに視線を戻した。女神の金色に輝く目が、こちらを見据えている。
「それで?」
外部との連絡手段を奪われたのは痛いが、だが、状況が好転しているという事実が明らかになったいま、もはやマユリ神からの通信に期待する必要はなくなったといっていいだろう。マユラ神が二柱の分霊を討ち滅ぼしたのだ。八極大光陣は、その最大の力を失ったと考えていいはずだ。
ナリアの様子に変化は見受けられないが、そもそも、ナリアが八極大光陣によって絶対無敵の存在になったからといって、外見上の変化があるのかどうかさえわからないのだから、見た目では判断できない。ただ、ナリアがマユラ神の通信に対し、なにがしか、不愉快な想いをしたのは事実だろう。故に通信器を破壊した。
「認めましょう。二柱の分霊が敗れ去ったのは事実。霊天星ウォルグ、氷天星ディファが潰え去り、八極大光陣は不完全なものとなりました」
「絶対無敵の布陣とやらも、ここまでってことだな」
「いいえ」
ナリアが頭を振る。優しく、子供を諭すような柔らかさで。
「セツナ。あなたはやはり勘違いをしているようですね」
ナリアの背後、光輪が回転し、輝きを増した。衣が揺らめき、内側の宇宙に無数の星が瞬く。
「八極大光陣は、絶対無敵の布陣にして、わたし、ナリアを百万世界を遍く照らす光明たらしめるもの。ひとつやふたつ、陣が欠けようとも、なんの問題もありません」
莫大な光の中心で、女神は告げてくる。膨大な神威が嵐の如く吹き荒れ、光の板が乱舞する。その中にあって、セツナは、ナリアの力の凄まじさを理解しながらも、同時にナリアが多少なりとも焦りを感じていることを悟った。
「そうか。俺たちの策は間違っていなかったってわけだ」
「……なんです?」
「八極大光陣攻略のために全戦力を一点に集中させるんじゃなく、すべての陣に分散させたのは正解も正解、大正解だったっていってんだよ」
「……それが思い違いだといっているのですよ、セツナ」
ナリアは余裕の表情を崩さない。崩さないのだが、しかし、少し前までとは明らかに異なる反応を見せていた。ナリアが光の板に映し出しているのは、戦場の光景だ。八極大光陣の内情ではなく、大帝国と統一帝国の戦いの様子だけを映している。それも、大帝国側が優勢な部分や、積み上げられた死体の山といった光景ばかりであり、統一帝国側の奮戦ぶりは一切映していなかった。
統一帝国側が劣勢に立っていることは想像に難くない。
しかし、だからといって、これほどまでに一方的なものとなるかといえば、そうは想わなかった。統一帝国軍には、マユリ神の加護と召喚武装による支援がある。武装召喚師たちもいれば、召喚武装使いもいる。ニーウェハインだって、前線に出ていることだろう。熾烈な戦いが繰り広げられているはずだ。その様子を一切映し出さないのは、ナリアにとって都合の悪いものだからだ。
八極大光陣の戦いも、どうやら、ナリアにとって都合が悪く、セツナにとって都合の良い状況に変わりつつあるようだ。
そうでなければ、光の板に苦戦中のファリアたちの様子を映し出したはずだ。そのほうが、セツナの心を折るには効果的だ。それをしないということはつまり、そういうことなのだ。
「戦力を分散した結果、あなたは大切なひとたちを失うことになる。そして絶望し、結局はわたしを滅ぼすため、世界をも滅ぼすことになる」
「そうはならないさ」
不意にナリアから感じていた圧力が消えた。
「あんたが一番よくわかっているはずだ」
セツナは、告げ、肉体がたちまち元通りに戻っていくのを理解した。