第二千五百九十四話 大いなる女神(二)
ナリアがたぐり寄せた光の板は、ほかのものよりも格段に大きかった。
その大きな画面には、移動城塞より出撃した総勢百二十万の大軍勢が地を白く塗り潰している様が、遙か高空から見渡すような画角で映し出されていた。俯瞰図というべきか。ディヴノアからノアブールに至るまでの荒れ果てた大地がしっかりと画面内に収まっていて、移動城塞とディヴノアがそれぞれ対立する陣営の本陣としてはっきりと見て取れた。統一帝国軍が築き上げた無数の仮設陣地に殺到する白き軍勢は、さながら白い濁流のようであり、その勢いたるや、物凄まじいとしか言い様がない。
神人、神獣、神鳥――神の怪物と化したものたちが怒濤の如く押し寄せる様は、圧倒的であり、脅威以外のなにものでもあるまい。
しかし、それに対抗する統一帝国軍将兵は、ひとりとして、怯む様子を見せなかった。武装召喚師ばかりではない。いやむしろ、召喚武装を用いるの人間のほうが圧倒的に少なく、ただの人間が戦力のほとんどを占めている。にもかかわらず、彼らは、神の化け物とでもいうべき敵の軍勢を前にして、恐れることもなければ、怯むこともなく、ただ果敢に、ただ勇猛に立ち向かっていた。
その戦いぶりたるや、激闘などと呼べるようなものではない。死闘かくあるべし、とでもいうべきだろうか。まさに血で血を洗い、死で死を覆う戦場だった。だれもが死に、死ぬことによって敵を討ち、わずかな勝機を繋ごうとしている。数の上でも、戦力の上でも、敵軍のほうが圧倒的に上だ。統一帝国軍が勝っているところなど、なにひとつない。戦意も士気も、神の意のままに動く化け物たちには関係がない。どれだけ吼え、どれだけ叫ぼうとも、怪物たちは怯みもしない。ただひたすらに死を撒き散らすだけなのだ。それでも、帝国将兵もまた、ひとりとして下がらないものだから、最前線には死体の山ができあがり、血の川が流れていた。
数多の将兵が命を落とし、数多の敵が消滅していく。
地獄のような戦場。
その光景をいくつもの光の板を用いて見せつけてくることにどのような意図が在るのか。
考えずともわかる。
ナリアは、セツナを精神的に揺さぶっているだけだ。
「この惨状も、あなたの不甲斐なさが招いた結果」
ナリアは、掲げた指先に光の板を引き寄せた。回転する光の板に映し出されているのは、ファリアの様子だ。激しい雷の嵐の中、彼女は苦戦を強いられているようだった。ファリアを見せつけてきたのは、セツナとファリアの関係性を知ってのことだろう。ナリアほどの力があれば、ウルクやアーリア、ウルの記憶を覗き見ることも容易なはずだ。
「あなたに力があれば」
回転に合わせ、光の板に映し出される光景がめまぐるしく変わる。八柱の分霊と繰り広げられている死闘の数々。だれもが死闘の中にいる。ミリュウ、レム、シーラ、エスク、ウルク、ダルクス、ランスロットたち、サグマウ、それに数多の帝国武装召喚師たち。だれもが傷つき、だれもが苦境に立たされている。
そんなとき、セツナは、ふと、違和感を覚え、ひとつの疑念を抱いた。映し出される光景の中に、マユラ神の姿はなかった。マユラ神は、分霊よろしく分身し、ふたつの塔を担当していたはずだ。八つの塔における戦いの惨状を示すのであれば、マユラ神の様子も映し出すはずだが、それをしないということはどういうことなのか。考えつくのは、ひとつだけだ。マユラ神は、苦境に立たされていないのではないか。むしろ、優勢なのではないだろうか。だから、ナリアは、マユラ神を映さないのではないか
「あなたが魔王の杖の護持者としての自覚を持ち、その力を自由自在に操ることができていれば、このような事態にはならなかった」
「そうだな」
虚空に視線をさまよわせるようにしたのち、ナリアに定める。周囲を漂う光の板には、様々な戦場が映し出されており、その中にはマユラ神の様子を映していたものもあったはずだが、いま確認したところ、マユラ神の姿は見当たらなかった。疑念は確信へ変わる。ナリアは、マユラ神の戦況を知らせたくないのだ。勝てるかどうかはともかく、マユラ神が優勢であることがセツナに伝われば、セツナに精神的余裕を与えることになりかねない。
事実、セツナは、マユラ神が想像通りに活躍していることを理解したことで、精神的な余裕を得たのだ。
「まず、あんたが消滅していた」
セツナがそう告げれば、ナリアが眉を潜めた。
「俺が黒き矛の使い手として完璧ならな。最初に遭ったあのとき、あんたは否応なしに滅び去っていたんだよ。感謝して欲しいもんだ。俺の不完全さにな」
「あなたは、自分の立場、状況を理解していないのではありませんか」
ナリアは、しかし、冷静さを取り戻したのか、静かに微笑んだ。美貌の女神の微笑は、幻想的ですらあるのだが、セツナの心を動かすには至らない。
「確かにあなたが魔王の杖の護持者として完璧であれば、わたしを滅ぼすことも不可能ではありません。しかし、それは可能性の話であって、現実ではない。あなたの現実は、いま、その命数はわたしの手の内にあるという厳然たる事実なのですよ」
「だからなんだってんだ」
セツナは、吐き捨てるようにいった。女神が指先の光の板を元の位置に戻すのを見遣り、各戦場の光景に想いを馳せる。だれもが血反吐を吐くような想いで戦っているというのに、自分はなにをしているのか。そういう想いもまた、あるのだ。それが怒りとなって心の奥底で燃え続けている。だが、まだだ。まだ、早い。いま動き出しても、またナリアに圧倒されるだけだ。
八極大光陣ある限り、ナリアには敵わない。
だからこそ、いまは皆を信じるのだ。
「俺を殺すか?」
にやり、と、彼は笑った。嘲笑だ。神への。
「できないだろう、あんたには。あんたの目的が俺にこの世界を滅ぼさせることなら、そんなことできるわけがねえよな」
ナリアは、セツナの嘲笑に対し、微笑を湛えたままだったが、聞き流せたわけではなかったようだ。光の板に死体ばかりを映し出して見せた。それでセツナの心を抉ろうというのだろう。確かに効果がないわけではない。帝国人とはいえ、味方だ。だが、犠牲もなしに勝利できる戦いとも想ってはいない。割り切れなくとも、背負い込む覚悟はある。
「そしてあんたは、自分が必ずしも優位に立っているわけでもないことを知っている。だから、こんな回りくどい手を使うのさ」
「セツナ」
ナリアは、やはり笑顔を崩さないまま、口を開いた。
「あなたはやはり、自分の立場というものを勘違いしているようですね」
「勘違い? 違うな。正確に把握しているんだよ」
セツナは、苦笑交じりに言い返した。
「あんたは俺を殺せない。殺したくても、滅ぼしたくても、それができない。俺を殺せば、俺を滅ぼせば、魔王の杖によるイルス・ヴァレの破壊計画もご破算だものな。まあ、何百年、何千年、いやあるいは何万年も待てば、俺と同じように黒き矛を使える奴も現れるかもな」
黒き矛は、だれもが扱える代物ではない。普通の人間はもちろんのこと、優秀な武装召喚師でさえ、扱おうとすれば、黒き矛の怒りを買い、逆流現象に飲まれ、自分を失う。
「でも、それもこれも、黒き矛が手元になければ意味がないってな」
彼は、ナリアを見つめながら、黒き矛を送還して見せた。無数の光の粒子となって在るべき世界へ還っていったカオスブリンガーを見送るほかなかった女神は、そこで初めて両手をわななかせた。
「これでますます、俺を殺せなくなったな?」
セツナは、ナリアの金色に輝く瞳に怒りが覗くのを見て、内心、畏怖を覚えずにはいられなかった。
八極大光陣の力を得たナリアは、絶対無敵の存在なのだ。
その怒りの力は、黒き矛を送還したセツナには、どうしようもないものだ。