第二百五十七話 ミリュウとファリア(一)
視界が開くと、目に飛び込んできたのは天幕の天井だった。全身がずきずきと痛むうえ、どうやら両手が縛られているようだ。足も、動かせない。きつく拘束されている。だが、死んではいない。生きているらしい。殺されなかったのだ。黒き矛との戦闘の経過が気になったが、そんなことはあとで教えられるだろう。彼女は負けたのだ。どのような形であれ、現状を考えれば、敗北したとしか言いようが無い。生きているというだけで儲けものだと考えるべきなのだろう。
彼女は、首を動かした。痛みよりもなによりも、いまは自分の置かれている状況の把握こそ優先すべきだった。
右を見ると、女がこちらをじっと見ていた。すぐに夢の中で見た女だと気づく。セツナがもっとも大切に想う人物だということがわかると、なぜか胸がざわついたが、その理由はわからない。なぜか、彼女に対して敵愾心を抱いている。軽い妬みというべきか。ミリュウは胸中で苦笑しようとして、そういう態度さえ取れないことに愕然とした。心に余裕がない。
女は、ミリュウが目覚めたことに気づくと、小さく息を吐いた。セツナの記憶の中の姿とは違い、傷だらけだった。顔は焼け焦げたような痕があり、首や腕には包帯が巻きつけられている。あの戦いに参加していたのだろう。そして、ザインかクルードのどちらかと戦ったのかもしれない。でなければ、これほどの傷を負うとは思えない。
ミリュウは、そのときになってようやく自分の口が封じられていないことに気づいた。いまなら武装召喚術を行使することもできる。が、意味がない。両手が堅く縛られているのだ。これでは召喚した武器を握ることもできず、無駄に精神を消耗するだけに終わる。目の前の女に嘲笑されるのが落ちだろう。
ミリュウは、女を見据えながら、口を開いた。
「無様ね」
「お互い様よ」
間髪入れず告げてきた女の声音の冷ややかさに、ミリュウはほくそ笑んだ。彼女もまた、ミリュウになにかしらの感情を抱いているのかもしれない。彼女としてみれば、ミリュウは紛れもない敵なのだ。敵意を持っているのが普通だといえる。
「どうなったのかしら?」
視線を巡らせる。決して広くもない空間。馬車の荷台かなにかだろうか。山積された荷物が物資や兵糧の類だとすれば、馬車の中というのも間違ってなさそうだ。天幕と思われたものも、荷台の屋根だとすれば合点がいく。この空間が妙に明るいには、屋根に吊るされた魔晶灯が冷ややかな光を投げかけているからだった。そのおかげで、状況を理解できた。
ミリュウが寝かされているのは、当然、寝台などではない。荷物で作られた即席の寝台とでもいうべきものの上に、彼女の体は横たえられているようだった。とはいえ、寝心地は悪くない。毛布が何十にも敷かれているらしい。なんとも待遇のいいことだ。これで手足が縛られていなければ最高なのだが。
「ガンディア軍の大勝利。あなたたちは負けたのよ。完膚なきまでにね」
「全滅?」
ミリュウは、彼女の冷酷な口ぶりに、二千人以上の兵士が殺戮されたのかと思ったのだが、女は頭を振った。
「まさか。降伏してきたひとたちまで殺す必要はないでしょう」
「それもそうね……」
ミリュウは納得してみせたものの、心のどこかでは納得できていない自分がいることに気づいていた。それは、魔龍窟での十年が、そんな甘さを許さなかったからだ。敵対者は殺すしかなかった。降伏は油断を誘う手段であり、懇願もまた、敵を出し抜くための方法に過ぎなかった。
そもそも、だれに降伏するというのか。
だれもかれも、殺し合うことを強いられているだけだった。ミリュウも、クルードも、ザインも、ランカインですらそうだ。自分の意志で殺戮に興じるものなどいなかったのだ。地獄での日々が人間らしさを失わせていっただけだ。正常な感性は消えて失せ、心に残った狂気を抱えながら壊れていった。
だれもが壊れたのだ。
正気を保ち続けるには、死ぬしかなかった。死んだ人間だけが、正気を保っていたというべきか。ザインもクルードもミリュウも、十年前とはまったく別の存在になってしまった。なるしかなかったのだ。そうしなければ、生き残れなかった。
生きたかった。
生きて、もう一度、陽の光を浴びたかった。
ただそれだけを思って、あの闇の中を戦い抜いてきたのだ。
(その結果がこれなのよ)
ミリュウが嘆息すると、女もまた軽く肩を竦めた。この状況を快く思っていないのは明白だ。拘束した敵武装召喚師の監視など、面白くもなんともないだろう。ミリュウが彼女の立場でも、退屈を極めたに違いなかった。ミリュウとて、弱者をいたぶる趣味はない。
ミリュウは、ひとしきり息を吐いたあと、女に尋ねた。
「ねえ、あたし以外の武装召喚師は生き残っていないのかしら?」
「ええ」
簡素な返答とは裏腹に、女の瞳が揺れていた。まるでこちらの心情を気遣うような揺らめきに、ミリュウは目を細める。ミリュウの心情など、彼女にはなにも理解できないだろう、という思いもあれば、こういう女性だからセツナの記憶を占めているのではないかとも考えるのだ。
もっとも、ミリュウは、ふたりの死に触れて動揺したわけではない。そんなものはすべて織り込み済みだったのだ。
「……そう」
ミリュウの脳裏には、クルード=ファブルネイアとザイン=ヴリディアの姿が浮かんでいる。三人は、魔龍窟のころから一緒だった。ミリュウがクルードを窮地から救ったのがきっかけになった。それからザインと知り合い、三人で互いの命を守りあった。魔龍窟で生き抜くには徒党を組むのが常套手段だった。そうでもしなければ生き残れない地獄だ。だが、仲間を選ぶのもよほど注意しなければならなかった。仲間とは名ばかりの敵を身近に置く可能性もあるのだ。だれもが他人を出し抜き、生き残ろうとしていたのだ。
ミリュウは、だれかを騙すような真似はしなかった。クルードにはお人好し過ぎると怒られるくらいだ。逆に騙され、命の危機に陥ったこともあった。そういうとき、ザインとクルードが助けてくれたものだ。心強い仲間。数少ない心許せる相手。気の置けない間柄だったのだ。
三人で地上に出ることができたのは、幸運だった。魔龍窟に残っていたのが三人だけだったのもあるだろうが、生き残れたのは、三人で協力し、切磋琢磨してきたからでもある。
ふたりのおかげで、陽の光を見ることができたともいえる。
(感謝していたのよ、ずっと)
ミリュウは声には出さず、つぶやいた。瞑目し、彼らの魂に安らぎが訪れることだけを祈る。ふたりとも、戦いに疲れ果てていただろう。殺戮の日々から解放されるのだ。むしろ喜んであげるべきなのだ。けれど、ミリュウの目頭は熱くなっている。
「まったく、困ったわね」
自分の意志とは関係なく溢れだした涙に対し、ミリュウは苦笑するしかなかった。視界が滲んでいる。涙は止まらない。ザインとクルード。ふたりの最期がどんなものだったのか、知りたいと思った。存分に戦えただろうか。持ちうる限りの力を振るった上で死ねただろうか。
彼らは、救われたのだろうか。
ミリュウの頭の中で、ふたりの記憶が無数に踊って、消えた。いくら考えても、答えは見いだせない。彼らのことをよく知っているつもりでも、心の奥底まで触れたことはなかった。クルードがなにを考え、ザインがなにを想い、クルードがどんな夢を持ち、ザインがどんな希望を持っていたのか、ミリュウには想像もつかなかった。
茫然とする。
結局、なにも知らなかったのではないか。
気の置けない仲間などと言いながら、その実、互いに利用しあっていただけなのではないか。自分の身を守るためだけの間柄だったのではないか。本当に心を許していたのか。心の底から信用し、すべてを認め合っていたのか。
(あたしは……)
ミリュウは、天井を見た。涙だけがこぼれる。
「このままじゃ、涙も拭えやしないじゃない」
言い訳のようにつぶやくと、女が、またも気遣うような口調でいってきた。
「我慢してくれる? あなたは捕虜なの。しかも武装召喚師よ。自由を許すことなんてできないわ」
言葉こそ普通のことだ。しかし、声音は、こちらの感情を汲みとったように柔らかく、温かい。
「それはわかってるわよ。でも、ひと前で泣くのは恥ずかしいでしょ」
「そうね。じゃあ、外に出ているわ。あなたのことばかり見ているわけにもいかないし」
「お優しいことで。その間に抜け出したらどうするつもり?」
「いまのあなたじゃなにもできないし、万が一、ここから抜け出せても、馬車の外には監視の目が光っているわ」
女が釘を差してきたものの、ミリュウにだってわかりきったことだ。敵軍に囚われたのだ。厳重な監視の下、自由などあろうはずもない。ただ、彼女をからかいたかっただけだ。自分でもなぜかはわからないが。
「ま、なにもできないのはわかっているわ。おとなしくしているつもりよ」
ミリュウはそういいながら、両手を目の前に掲げた。両手とも、包帯で雁字搦めにされている。きわめてきつく縛られており、どうやっても破れそうになかった。歯で噛み切ることも不可能だろう。手が自由にならなければ、召喚武装を呼び寄せても意味がない。足も拘束されているのだ。
(手も足も出ないってことね)
ミリュウは胸中でつぶやいて、嘆息を浮かべた。笑えない冗談だ。
「そうしてくれると、わたしとしても助かるわ」
女はミリュウの態度に安心したのか、そっと立ち上がった。全身の傷が痛むのだろう。立ち上がる際、何度も表情が歪んだ。しかし、すぐに消える。彼女はこちらを見ると、ミリュウが身動きがとれないことを再確認したようだった。手足を縛られているのだ。なにもできまい、とでも思っているのかもしれない。実際、その通りなのだが。
ミリュウはなぜか、これだけは聞いておかなければならないという使命感に駆られて、声をかけた。
「あなたの名前を聞いてもいいかしら?」
「別に構わないわよ。わたしはファリア=ベルファリア。ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》隊長補佐よ」
「ファリア=ベルファリアね。覚えたわ」
ミリュウは、彼女の名前を記憶に刻みつけるように反芻した。セツナの女神だ。覚えておく必要がある。肩書はどうでもよかった。どうせ、関わることはあるまい。もう二度と、彼女の顔も拝めないかもしれない。
「あなたの名は、ミリュウ=リバイエンであってる?」
ファリアに問われて即答できなかったのは、リバイエンという家名に抵抗があったからかもしれない。呪われた家名だ。いや、家名そのものが呪われているというわけではない。が、似たようなものだろう。
オリアン=リバイエンの家族として生まれたものは、幸福な人生を歩めない。
「そうだけど、セツナに名乗ったから知っているのかしら?」
「そういうことよ」
ファリアが眉根を寄せたのは、ミリュウがセツナの名を呼び捨てにしたからだろうか。彼女にとっても特別な人物なのだとしたら、ミリュウが入り込む余地はなくなる。が、そもそも、ミリュウにそんなことをしている時間は残されてはいないだろう。
捕虜となったものの処遇がどうなるのかなど知る由もないが、少なくとも、自由に生きていくことなどできないだろうということは想像がついた。ならばせめて、黒き矛のセツナの素顔が見てみたいものだが。
闇の中でも輝く赤い瞳は、よく覚えていた。