第二千五百七十七話 人形遣い(四)
アーリウルは、十本の糸を前方広範囲に拡散させると、二本を可視化してニーウェハインに向かって伸ばすことで牽制として彼の回避行動を誘発させ、残り八本の糸でその遙か後方にいる敵兵を“支配”した。もちろん、ニーウェハインのときとは異なり、なんの抵抗もなければ“支配”に失敗することもない。見えざる糸は正確に八人の敵兵の心身を掌握し、“支配”した。そして、彼女の意のままに動き、踊った。
ニーウェハインが、牽制の糸を翼でもって殴りつけ、瞬時にアーリウルにその矛先を向けた。空中で進路を変え、凄まじい高速機動でもって迫ってくる。が、彼女の糸のほうがわずかに早かった。ニーウェハインの前方に八人の敵兵――つまり、ニーウェハインの兵士たちが飛び込み、彼に刃を向ける。ニーウェハインの動きが鈍り、止まる。
「貴様!」
ニーウェハインがアーリウルを睨み付けてきたが、彼女は薄く笑い返しただけだ。八本の糸を繰り、八人の人形をニーウェハインに襲いかからせる。帝国人は同族意識が極めて強く、どのような理由があれ、できる限り殺し合いを避けようとするものだ。ニーウェハインは、そういった帝国人特有の感情を乗り越え、南ザイオン大陸を統一したのだろうが、とはいえ、己に忠誠を誓う部下を殺せるわけもなく、彼は、八人の攻撃を回避すると、飛び退きながら周囲を爆撃した。部下は傷つけられなくとも、神兵を減らすことはできる、とでもいうのだろう。
アーリウルは、八人の人形でもってニーウェハインを追わせながら、残る二本の糸で“支配”するべき対象を選別した。ただの兵士では、ニーウェハインを攻撃するのが関の山だが、将校ならば、配下までも操ることが可能となる。陣形を乱せば、いまでこそ拮抗している戦局を大きく揺るがすことができるだろう。
ところが、想わぬことが起こった。
(あら?)
アーリウルの視界から“支配”し、操っていた八人の人形が忽然と姿を消したのだ。唐突に、なんの前触れもなく、だ。殺されたわけでもなければ、消滅したわけではない。生きているし、糸も繋がったままだ。アーリウルは、“支配”した人形の視覚情報を得ることができるのだが、それにより、人形たちの居場所は瞬時に把握できた。把握できたからどうということはない。なぜならば、人形たちの居場所は、彼女の現在地から遠く離れており、敵も味方もいない空白地帯とでもいうべき場所だったからだ。これでは、兵士たちを殺し合わせ、最後に生き残ったものを自害させる以外に使い道がない。
アーリウルは、“支配”した対象を糸で引っ張ることで擬似的に高速移動させることはできるが、距離があまりにも離れすぎていて、ここに辿り着く前に彼女自身がニーウェハインに攻撃されかねなかった。自衛の手段は、二本の糸か周囲の神兵しかない。神兵は、ニーウェハインにとっては障害にもならず、頼りにならない。かといって、可視化した二本の糸を再び透明化したところで、ニーウェハインを操ることはできないし、牽制にもならない。
(なにが起こったのでしょう? なにをされたのかしら)
彼女は黙考しながら、操っていた八人を自害させ、糸を切り離した。指先から八つの糸を伸ばし、合計十本の糸でもって再び敵兵を掌握、ニーウェハインに襲いかからせたが、その瞬間には、またしても遙か遠方に移動していた。なんらかの空間転移能力によって、“支配”した対象のみを転送しているのは間違いない。敵軍についている神の力によるものか、召喚武装の能力によるものかは判別ができない。後者ならば召喚武装の使い手を“支配”してしまえば問題はないが、前者ならば、現状、アーリウルには手の打ちようがない。神は、“支配”できない。
十人を自害させ、糸を切り離すと、瞬時にその場を飛び離れながら糸の結界で自身を包み込んだ。ニーウェハインによる爆撃がアーリウルの周囲から神兵たちを消し飛ばし、“核”もろとも消滅させる。アーリウル自身は周囲に張り巡らせた糸の結界によって事なきを得たものの、このままニーウェハインを放置していれば、大帝国軍に多大な損害をもたらすことは明白であり、なんとしてでもニーウェハインを斃さなければならないという確信を得て、彼女は目を細めた。しかも、敵兵を操り、ニーウェハインの動揺を誘うという人形遣いの常套手段が封じられた以上、積極的に戦闘を行う以外にはない。
糸の結界を解き、十本の糸を細分、数百、数千の糸として前方中空のニーウェハインに殺到させる。可視化した千の糸と、不可視の千の糸。ニーウェハインは、目に映る千の糸に気を取られ、そちらを回避しようとして見えざる千の糸を全身に受けた。無限に伸びる糸は、ただ対象を“支配”するだけのものではない。防御手段にも攻撃手段にもなる。千の糸がニーウェハインの甲冑を突き破り、肉体を損壊していく。人間の肉体。神の加護を得ようと、どれだけ召喚武装の支援を受けようと、大いなる神ナリアの使徒たるアーリウルの攻撃を受けて、無傷で済むはずもない。ニーウェハインが苦悶の声をもらした。表情はわからない。ニーウェハインは顔面を覆い隠す兜を被っている。その兜も糸で破壊しようとしたが、彼の右腕に妨げられた。
「往生際の悪い方ですこと」
「当たり前だろう」
「はい?」
「わたしは皇帝だぞ。こんなことで死ぬわけにはいかないのだよ」
ニーウェハインは、冷笑しながら異形の右腕と翼を振り回した。翼も右腕も無数の触手のように分裂したかと思うと、彼の体に食い込む糸の尽くを無造作に切り払って見せる。すると、彼の全身の傷口がみるみるうちに塞がっていった。神兵ほどではないにせよ、常人離れした回復能力は、神の加護によるものとみていいだろう。それでわかることといえば、一度の攻撃で殺しきらなければならないということだ。そしてそれは、アーリウルには不可能なことではない。
「でしたら、残念ですね。あなたはここで死ぬさだめ」
彼女は、両手を振り翳し、すべての糸をさらに細分化させた。合計二千本の糸をさらに千本ずつ分化させた結果、二百万本の糸となってニーウェハインを包囲する。全周囲、可視化した無数の糸に包囲され、中空のニーウェハインは、もはや逃げ場を失った。たとえ一方を攻撃し、糸を破壊したところで、残るすべての糸がニーウェハインをずたずたに引き裂くだろう。今度は、先のようにはいかない。アーリウルも理解したのだ。ニーウェハインを嬲り殺しにはできない。全力で殺さなければならないのだ。
「これで終わり」
そう告げた瞬間だった。
アーリウルは、違和感を覚えた。痛みが生じた。それも極めて鋭く、破滅的な痛みであり、一瞬にして胸元から全身に広がっていくのがわかった。使徒へと転生したことで肉体は人間のそれとは異なるものとなった。強靱な肉体、無限に等しい生命力を得た。多少のことでは傷ひとつつかず、たとえ負傷したとしても、瞬時に回復する。不老不滅の存在。
絶望そのものといっていい。
だのに、彼女はいま、破滅的な痛みの中、視界が震えるのを認めた。視線の先、糸が力を失い、崩れ落ちていくのが見えた。ニーウェハインが唖然としている様子がわかる。表情は見えずとも、反応でわかる。なにが起きたのか。
「死ぬのはあなたです、人形遣いアーリウル」
無感情な、硬質に響く声には聞き覚えがあった。
見下ろせば金属製の腕が彼女の胸を貫いていて、振り向けば、ウルクの無表情があった。
アーリウルは、理解した。
これが滅びなのだ、と。
そして、ようやく終われるという事実に安堵した。
長い長い悪夢が終わるのだ。
それは、救いといってもよかった。