第二千五百七十四話 人形遣い(一)
移動城塞ハインディアエンド。
彼女たちの主にして大いなる女神ナリアが、南ザイオン大陸掌握に向けて秘密裏に建造していた水陸両用の移動城塞は、来たるべき神々との決戦に備え、八極大光陣を有効的に活用するため、八つの塔を備えている。それら八つの塔には、八極大光陣を司る八柱の分霊が鎮座し、それぞれに領域を展開している。その八つの領域の交差地点にこそ八極大光陣が形成され、ナリアは、その中において絶対無敵の存在となる。八極大光陣の中であれば、たとえ相手がもう一柱の大神エベルであろうと、至高神を名乗ったヴァシュタラであろうと、両者が力を合わせて攻め込んでこようとも、撃退するどころか滅ぼすことも不可能ではない、と、ナリアは自負し、彼女もそれを信じていた。
故に八極大光陣さえあれば、この世界においては絶対無敵と言い切っても問題はない。
たとえセツナが魔王の杖の力を思い通りに扱えるようになっていたのだとしても、ナリアには敵わない。敵うはずがない。仮にナリアと多少なりとも戦えるようなことがあったとしても、絶対的な力を誇るナリアの前には、セツナも敗北せざるを得まい。無論、ナリアにはセツナを殺す道理はないのだから、命を奪いはしないし、むしろ、セツナだけは生かす必要があるのだが。
なればこそ、ナリアはセツナに挑発行為を繰り返し、セツナが移動城塞に攻め込んでくるのを待ち望んだ。すべては、ナリアの目的のため。ナリアが在るべき世界に返り咲くため。それだけがすべてであり、そのためにこの世界がどうなろうと、ナリアには知ったことではなかった。
彼女にとっても、この世界の存亡など、どうでもいいことだ。
彼女たちが生まれ育ち、呪い、祝福した国は、とうに滅び去った。その滅亡こそ見届けられなかったものの、かつての彼女たちの主は、夢半ば、道半ばですべてを失うという絶望を味わったのであれば、それで十分だ。あとは、この世界がどうなろうとどうでもいいことだったし、自分たちのことさえ、どうでもよかった。
だから、ナリアの使徒として使命が与えられたことには感謝していた。
使徒アーリウルは、ハインディアエンドの城門を潜り抜けると、戦場に向かってひとっ飛びに飛んだ。ハインディアエンドには現在、敵戦力が攻め込んできている。しかも、八極大光陣を司る分霊たちが鎮座する八つの塔に同時に攻め込まれていて、敵――セツナたちが八極大光陣の攻略を最優先に考えていることは一目瞭然だった。
一度、セツナは、八極大光陣の中ですべてを失うという経験をしている。しかし、どういうわけか時が戻り、すべてがなかったことにされた。セツナたちはナリアの前に現れることなく、八極大光陣は発動しなかった。故にセツナと魔王の杖によるイルス・ヴァレの滅亡は引き起こされず、世界はいまも存続している。馬鹿げたことに。
そして、もっとも馬鹿げているのは、そのときの記憶をだれもが持ち合わせているということだ。
つまり、八極大光陣の存在が知られた可能性があるのだ。
だからこそ、セツナたちは、八極大光陣攻略のための策を練り、打って出てきた。無論、八極大光陣あってのナリアではないし、八極大光陣があろうとなかろうと、偉大なるナリアが負けることなどありえないが、絶対無敵の存在ではなくなるというのは、大きな違いだろう。
もしかすると、万が一、ということもありうる。
だからといって、アーリウルに分霊の力添えはできない。
アーリウルは、ナリアの使徒であって、分霊ではない。
位でいえば、分霊のほうが遙かに上なのだ。分霊が展開する領域には、使徒も神兵も踏み込めない。
だからといって、アーリウルには、セツナを支配することもできないため、ナリアの側にいる意味もなかった。セツナをいたぶるだけならば、ナリアに任せればいい。
アーリウルがなぜセツナを支配できないのかについては、彼女なりに考え出した結論がある。それは、彼が異世界の存在だということだ。セツナは、異世界から召喚された人間であり、異世界人だ。アーリウルの異能であるところの認識消滅と支配は、神々にはまったく効果を及ぼさなかった。だからアーリアとウルは皇帝暗殺に失敗し、ナリアによってばらばらにされたのだ。
その後、ナリアの手でひとつの存在、ナリアの使徒となった彼女たちは、ナリアから様々な話を聞いた。ナリア曰く、彼女たちの異能が神々に通じないのは、神々が異世界の存在であり、この世界の法理から外れた存在だからだということだった。
セツナもまた、異世界の存在だ。この世界の法理から外れた存在なのだ。だから、アーリアの認識消滅も効果がなく、ウルの支配も受け付けない。アーリウルとなったいまでも、この異能は、異世界の存在には通用しないのだから、致し方がない。
ではエレンは。魔王ユベルと名乗った彼の異能は、なぜ、皇魔に通用するのか。
それにもまた、ナリアが考察していた。エレンの異能は皇魔を支配するものだが、それは、皇魔がもはや異世界の存在ではないという証なのではないか、ということだ。
皇神は、召喚されたときからなにひとつ変わらない。が、皇魔たちは、この世界に住み着き、世代を重ねている。五百年前、聖皇の召喚に巻き込まれた皇魔たちは、いまや存在しないのだ。異世界から召喚され、何世代も経てば、この世界に順応し、法理にも取り込まれるということ、らしい。
ナリアの考察がすべて正しいというわけではないだろうが、否定する要素もない。
おそらくは、それで間違いはないのだろう。
ならば、アーリウルにできることはひとつしかない。
戦場に赴き、この世界の法理に従うものたちを“支配”し、蹂躙してやればいい。
目的は、この戦争に打ち勝つことでは、ない。
勝利条件は、セツナに魔王の杖の力を最大限引き出させること。
そのためには、セツナをあのときのように絶望させる必要がある。
胃もたれするほどに仲間想いの彼を絶望させることは、必ずしも難しいことではない。仲間の中に自分の居場所を見出し、希望を見出す彼のことだ。彼の仲間を根絶やしにしてやればいい。皆殺しにしてやればいい。それだけで彼は希望を見失い、絶望に堕ちるだろう。実際、そうやって彼は絶望し、魔王の杖の力を解き放った。
あのときは、上手く行ったのだ。
あのまま、時が戻らなければ、時間が戻されなければ、なかったことにされなければ、この愚かしくも闘争を続けるくだらない世界は跡形もなく滅び去り、すべて虚無の闇の中に沈んでいったというのに。
アーリウルは、白く塗り潰された大地を見渡しながら、目を細めた。
セツナと魔王の杖ならばこの世界を滅ぼすことができると知ったときには、どれほど喜ばしく、どれほど愉快だったのか、彼女たちは、神化した鳥に己が身を運ばせながら想いを馳せる。神の力を受け、変容した存在は、神兵と総称される。人型の神兵がもっとも多いのは、運用しやすいからというよりは、作りやすいからだ。人間は、社会という群れの中で生活している。その分、一斉に神化させることが容易いのだ。
獣型や鳥型の神兵も少ないながらも存在し、それぞれいくつかの類別に応じて呼称がある。
たとえば、アーリウルが伸ばした糸に絡め取られながら空を進むのは、鳥型神兵の中でも大型のカルガーンと呼称されるものだ。鳥型神兵には、ほかにも小型のカーラギス、中型のカルオーンなどがいるが、アーリウルがカルガーンを掴まえたのは、近くにいたからにほかならない。
カルガーンは、使徒たるアーリウルの命に従い、空を行く。
眼下、南ザイオン大陸北西部を白く塗り潰すのは、百万を超す神兵の群れだ。
本来ならば、これだけで勝負がついたはずであり、南ザイオン大陸は絶望に染まったはずだ。
が、どういうわけか統一ザイオン帝国を名乗る軍勢は善戦し、圧倒的なはずの戦力差をものともせずに食らいついている。
「どういうことなのでしょう?」
アーリウルは、小首を傾げた。