第二千五百七十二話 絶望をもたらすもの(四)
氷に閉ざされた空から降ってきたのは、とてつもなく巨大な氷塊の雨であり、それらはまるで意思をもっているかのように移動しながら絶対零度の大地に降り注いだ。が、当然のようにマユラには当たらない。マユラは、分霊の攻撃に対処するべく、先手を打っている。両腕を振り上げて撃ち放った神威は、光の奔流となって頭上を白く染め上げ、降り注ぐ氷塊群をつぎつぎと破砕し、蒸発させていった。さらに凍り付いた空をも貫き、巨大な穴を開けて見せると、氷塊の雨が止んだ。
氷塊の雨こそ止んだものの、既に上空に在った氷塊のすべてが消えて失せるはずもない。それら氷塊群は、マユラの攻撃を避けるようにして地上に降り注ぎ、凍てついた大地を激しく揺らしながら聳え立った。氷霧が地に満ち、視界を白く染め上げる。
ふと、頭上の凍り付いた空に開いた大穴が急速に埋められていくのを認め、マユラは、視線を地上に戻した。氷塊の雨が止んだのは、マユラの攻撃を受けてのことではないようだ。地に落ちた氷塊群が音を立てて動き出したのを把握し、瞬時に理解する。ほかの分霊と同じだ。ナリアの手駒たる分霊たちは、どうやら手駒を作り、操るのが好みらしい。ほかの戦場でも様々な姿形をした神人とも神獣とも使徒とも異なる存在が、分霊の手駒として運用されていた。
この塔を司る分霊の場合、氷塊が、それらしい。
立ちこめる氷霧がきらきらと輝く中、分霊の手駒がその本性を明らかにしていく。氷塊がばらばらに砕けたかのようにして、それらは立ち上がり、巨躯を見せつけてくる。小型の巨人。それも氷でできた巨人というべきだろう。大きさから考えれば、大型の人間とはいえない。頭部は小さく、顔らしきものはない。分厚い胸板に腰は細く、がっしりとした足が地を踏みしめている。肩よりも肥大した拳が特徴的だ。なんとも不格好だが、力強そうに見えなくはない。
先程降り注いだ数多の氷塊はすべて、氷の巨人となってマユラを取り囲んでいる。百体どころではない。何百、いや、何千という数だった。もっとも。
「これでわたしをどうにかできると想っているのか?」
マユラは、表情ひとつ変えずにつぶやくと、氷の巨人たちが動き出すより早く、右腕を頭上に翳した。神威を収束させ、振り下ろすのと同時に撃ち放つ。神威は、莫大な光量を生み出して視界を塗り潰し、音もなく、前方直線上の巨人たちを消滅させていく。氷の巨人たちが動き出したのは、マユラの直線上にいた数百体が凍土ともども蒸発してしまってからのことだった。
大地を揺らし、凍てついた空気さえ震わせながらの大行進に、マユラは、無表情のまま対応する。両手を掲げ、軽く回す。指揮を執るように、とでもいうべきか。手の動きに合わせて彼の神威が周囲の空間そのものを歪ませ、巨人たちを足止めした。前進し、マユラとの距離を詰めようにも、身動きひとつ取れず、どうすることもできない。巨人たちの氷の巨躯が軋むだけだ。マユラは、両手を握り締め、高く掲げた。すると、神威によって掌握された氷の巨人たちが空中高く浮かび上がり、マユラの手の動きに合わせて空を泳いだ。最初は、無意味に巨人同士が接触しないよう遊んでいたマユラだったが、数秒で飽き、巨人と巨人を激突させた。巨人の巨躯と巨躯が勢いよくぶつかり合えば、それだけで凄まじい衝撃が領域を揺らし、巨人の体は衝撃に耐えきれず四散し、雨の如く降り注いだ。
すべての氷の巨人がばらばらになるまで多少の時間を要したものの、それによってマユラが消耗するようなことはほとんどなく、彼は、空を仰いだ。氷に閉ざされた空の彼方から、巨人たちとは比べものにならないほどの力が降ってくる。
「やはり、我が兵だけでは相手にならぬか」
「やはり? 本当は期待していたくせになにをいうのか」
マユラは、頭上から聞こえてきた声に苦笑した。すると、どうだろう。凍り付いた空が震えたかと想うと、突如として圧縮し、一塊の氷となった。氷塊はやがて色彩を帯び、人間に極めて酷似した姿を見せる。分霊の依り代となった人間はさぞ美しい女だったのだろう、と、その容貌から想像がつく。ザイオン皇家の人間だったのだろうが、ザイオン皇家になんの興味もないマユラには、関係がない。
雪のように白い頭髪も透けるような肌も、真白く美しい装束も、この氷の領域に相応しい出で立ちといえる。それは、冷ややかなまなざしをこちらに向けてきた。一切の感情の籠もらないまなざしは、分霊であるが故なのか、それともまったく別の理由なのかは想像もつかない。
どうでもいいことだ。
マユラの目的は、分霊を討つことだけだ。それ以外に興味はなかった。
「我は大いなるナリアが分霊、氷天星ディファ。ナリアに従わぬ異界の神よ、我が汝の時を凍てつかそう」
「随分と、強気なものだ」
マユラは薄く笑い、氷天星ディファの周囲の空気が急速に冷却されていく様を見た。ただでさえ低い気温がさらに下がっていく。領域の風景から冷気を司る分霊と断定したが、その分析に間違いはなかった。それは分霊の手駒を見ても一目瞭然のことではあったのだが、ディファの力の発現を目の当たりにして、確証を得る。やがて、ディファの周囲で急激に冷却された空気が凝固し、無数の氷塊が生成されていくのを見て、マユラは動いた。
「だが、そういうのは嫌いではないぞ。絶望に抗うのはな」
手の先より神威を光弾として撃ち出し、自身は後ろに下がる。直後、ディファが放った氷塊がつぎつぎと飛来し、マユラの立っていた場所に着弾した。世界が震撼するほどの爆発が起こり、爆煙が膨張した――かに見えたつぎの瞬間、爆煙が凍てつき、巨大な氷塊となる様を目撃する。氷塊は、つぎつぎと大地に突き刺さり、爆発とともに巨大な氷塊を形成していく。
大地は広く、地平の果てまで続いているため、逃げようと想えばどこまででも逃げることはできるだろう。しかし、逃げれば逃げるほど、ディファを斃し難くなるのは間違いない。ディファを斃すことそのものは決して困難ではないが、だからといって、時間をかけすぎるわけにはいかなかった。
目的は、八極大光陣の攻略であり、一柱でも分霊を残しておくわけにはいかない。八極大光陣は、その名の通り、八柱の分霊があってはじめて効果を発揮する類の結界だということはわかる。故に、一柱でも分霊を討てば、その瞬間、八極大光陣はその効力を大きく損なわれ、ナリアが誇る絶対無敵の布陣とやらも崩れるだろう。しかし、それだけでは駄目なのだ。そこから間髪入れずにナリアを滅ぼせなければ、分霊が補充され、八極大光陣が再度構築されてしまうからだ。
八極大光陣さえなければ確実に勝てるというのであればまだしも、そうではない以上、危ない賭けに出るような真似はできない。あのときのように、戦神盤の能力によって時間を戻すことはできないのだ。この度失敗すれば、それまでだ。だからこそ慎重に慎重を重ね、確実に勝てる状況に持って行かなければならない。それが八極大光陣の完全な破壊であり、すべての分霊の討滅であり、八極大光陣の再構築までの時間を稼ぐということなのだ。
そこまでお膳立てして、ようやく五分五分といったところだ。
(なるほど)
マユラは、氷弾の爆撃そのものが凍り付き、氷の山脈のように成り果てていく光景を見遣りながら、ディファがなにを考えているのかを想像した。
(時間を稼ぐつもりか)
無論、こちらとはまるっきり逆の理由で、時間を稼ぎたがっているのだ。
ディファは、八極大光陣によるナリアの絶対性を維持し、その間に、ナリアが目的を達するものと信じているのだろう。世界を滅ぼすことがナリアの目的ならば、現状、絶対的な力を持っている間にこそ成し遂げられるものと、ナリアも分霊たちも考える。それには、セツナを絶望させるのが一番手っ取り早い。しかし、そのためには、セツナの心を折る必要があり、ナリアは、そのためだけに八極大光陣の外に出ることはできなかった。
ナリアが八極大光陣を出た瞬間、こちらは総力を結集し、ナリアに当たる算段を立てている。戦神盤の能力を用いれば、全戦力を結集することは容易い。
もちろん、八極大光陣などあろうとなかろうと、大いなる神ナリアを討ち滅ぼすのは簡単なことではないが、八極大光陣の外ならば、あのときのように、セツナ以外が為す術もなく殺されることもないのだ。
そうなれば、勝機はある。
それがわかっているから、ナリアも八極大光陣の外に出られない。
つまり、現状、ナリアはセツナを絶望させることなどできないのだ。