第二百五十六話 泣いている
ランカイン=ビューネルは、ミリュウたちが魔龍窟に放り込まれた十年前には、既に実力派の武装召喚師として魔龍窟に君臨していた人物であり、彼は魔龍窟が地獄へと変じていくのを心底楽しんでいた。
彼の中に正気と狂気の境はなく、あるのは絶望的な闇だけだった。ミリュウは何度か、彼に殺されかけている。いまなら遅れは取るまいが、当時、魔龍窟に投げ入れられたばかりの彼女に対抗する術などあろうはずもなかった。殺されずに済んだのは、ランカインはただの殺戮に興味はなかったからに過ぎない。彼は、敵が強くなることを望んでいた。強者との戦いにこそ自分の生きがいがあるのだと公言して憚らなかった。弱者を痛めつけるのも、憎悪を以って這い上がってくることを望んでいたからだ。
ミリュウは彼の望むままに憎悪をつのらせ、心身を鍛え上げた。しかし、彼との決着はつかなかった。彼が地上に上がったからだ。ランカインの地上行きを喜ぶ声は多く、ミリュウとしても素直に嬉しかった。彼のような猛毒がひとつでも消えることは、魔龍窟での生活がましになるということなのだ。もっとも、地獄はさらに苛烈になっていったのだが。
視界の主は、黒き矛の力を過信したのか、無謀にも炎の中に飛び込み、ランカインを打ち倒した。殺してはいない。それはミリュウも知っている。地上に出てから、彼の行方を知った。ランカインは、ガンディアの小さな町を焼き払い、その罪で極刑に処されたのだ。その際、ガンディアがランカインを捕らえることができたのは、セツナの活躍があったからだ、というのは有名な話らしい。
やはり、この視界の主は、セツナ=カミヤで間違いないようだ。
(どうして?)
どうして、彼の記憶を覗いているのだろう。なんのために。なんの意味があるのか。意味などないのかもしれない。ただ、黒き矛の力が暴走しているのかもしれない。複製物故に制御できなかった、ということではない。黒き矛の膨大な力を引き出そうとして、失敗したのだ。
逆流があったのを、彼女はいまさらのように思い出した。
力の逆流。解き放った力のすべてが、召喚者への攻撃となって返ってくる現象のことだ。制御しきれない召喚武装と契約を結ぶとよく起こる現象だ。自身の力量と召喚武装の性能を見極めることが重要なのは、そういうことがあるからだ。未熟な武装召喚師が、力だけを求めた結果、逆流現象によってすべてを失うというのは、よくあることだ。そうやって死んだ人間を知らないわけではない。
(逆流したから……?)
逆流した黒き矛の力が、本来の持ち主であるセツナの記憶までも連れてきたというのだろうか。逆流してくるのは、なにも力だけではない。召喚武装によって強化された五感が捉えたあらゆる情報が、鋭利な刃の如く押し寄せてくる。惰弱な精神は、それだけでずたずたに切り裂かれ、廃人のようになってしまうだろう。幸い、ミリュウの心身はそこまでやわではない。もっとも、耐え切れたからこそ、このような現象に遭遇してしまったのかもしれないが。
つぎにセツナの目に映ったのは、女だ。若い女。ミリュウよりも年若く、美人だといえるだろう。青みがかかった髪と、縁の赤い眼鏡をかけている。眼鏡といえば高級品という印象が拭えないが、彼女は高貴な立場にある人物には見えなかった。女性の肢体を強調する服装が目についたが、それ以外は特に気にはならなかった。
その瞬間までは。
再び、暗転した。視界が開くと、闇夜に雨が降っていた。敵に囲まれているのがわかる。鎧兜を着込んだ兵士たちを相手に立ち回っているようなのだが、どうも、押されている。黒き矛を使っていないらしい。ミリュウは歯がゆかった。こんな雑兵、黒き矛を振り回すだけで片付くはずだ。ミリュウなら、そうするだろう。相手は敵だ。容赦する必要はない。殺さなければ殺されるのが戦場なのだ。雷鳴が聞こえた。馬が迫ってくる。馬上から手を伸ばしてきたのはランカインだった。彼は生きていた。ミリュウが驚く暇もなく、セツナはランカインの手を掴んだ。引き上げられ、その場を脱する。
ミリュウは、頭の中に飛び込んでくる情報量の多さに辟易した。やはり、逆流だ。逆流が原因なのだ。さらに遡れば、黒き矛を複製してしまったことだろう。複製物を手にし、その圧倒的な力に酔いしれてしまった。その結果、彼女は、セツナ=カミヤの記憶に触れてしまっている。
(妙な感じね)
ミリュウは嘆息した。さっさとこんな夢からおさらばしたいものだと思った。目が覚めれば、どうせろくでもない現実が待ち受けているに違いないのだが、他人の記憶を盗み見続けるよりはましだろう。自分の身がどうなったのかなど、想像するだけでぞっとしない。
場面が変わると、目の前に広がるのは戦場だ。戦場、戦場、戦場、戦場。なにがどうなろうと、彼が身を置くのは戦場だった。黒き矛を手にし、皇魔や人間を相手に大立ち回りを演じる。黒き矛の絶大な力の赴くままに殺戮を行っていく。矛を振るえば、鉄の鎧も紙切れ同然に切り裂き、人体は一瞬にして肉塊へと成り果てる。皮膚を割く瞬間、切れ目から吹き出す鮮血の紅さが、彼の視界を塗り潰すかのようだった。剣を砕き、槍を割り、矢を切り落とす。化け物が相手だろうと、やることは変わらない。ただ敵の攻撃をかわし、矛を振るう。石突を叩きつけ、柄で殴る、切っ先で貫き、切り裂く。暴風のように繰り出される斬撃の嵐が、敵兵を細切れにした。血飛沫が目の前を真っ赤に染めた。
敵は殺す。敵は殺さなくてはならない。敵だけは、生かしておくわけにはいかない。敵を生かせばどうなるかを身を以て知っている。目の前の男が、その成れの果てだ。人間ならざる姿に成り果てた武装召喚師の姿に、ミリュウは慄然とした。穂先が回転する槍を手にした男は、セツナへの憎悪を隠そうともしなかった。敵意と殺意を振り撒き、殺到してくる。死闘の果て、勝ったのはセツナだ。またしても戦場に飛んだ。ただただ敵兵を殺していく。繰り返される殺戮の光景に、ミリュウは吐き気を覚えた。見慣れた光景のはずだ。彼女もそうやって、生き延びてきた。
(だからよ)
だからこそ、痛いのだ。胸が締め付けられる。彼の感情が、手に取るようにわかった。こうまでも殺戮の記憶に囚われているということはそうなのだろう。呵責がある。ひとを殺すことに疑問を持たない人間などいない。それが正しいことであったとしても、だ。彼は正義を実行しているに過ぎない。ガンディアの黒き矛に求められることを忠実に実行しているだけなのだ。それでも、彼は人殺しの瞬間から目を背けられずにいる。忘れられずにいる。命を奪うということを重く捉えている。
(あなたも、そうなのね)
ミリュウが、セツナが見ている風景に共感を覚えたのは、彼女もまた、あの悪夢から逃れ得ないからだ。仲間を、同胞を、親類縁者を手にかけなければ生き残れなかった地獄の日々が、悪い夢として脳裏から離れない。それと同じなのだ。命に貴賎はない。彼のように関わりのない人間を殺すのも、彼女のように関係者を殺すのも、同じことだ。
少なくとも、ミリュウにとっては。
深い溜息は、音にもならなかった。
闇の中、彼女は意識としてたゆたっているだけだ。実体はなく、肉体もない。ため息も、そう意識しただけのことであり、実際に息を吐いたわけではない。それでも、嘆息せざるを得ない。深い闇の中で、殺戮の光景だけを見続けるというのは、彼女の精神にもきついものがあった。自分のしたことではないから尚更かもしれない。
そんなとき、セツナの視界に変化があった。恐らく彼に関わりのある人物であろうひとびとの顔が、浮かんでは消えた。貴公子然とした青年、銀髪の青年、野性的な大男、眼鏡の男、王者の風格を持った男、美しい黒髪の少年、金髪碧眼の少年、鎧をまとった美女に真紅の鎧の男、軽薄な表情の美丈夫、そしてランカイン。ザイン、ミリュウ、クルードの顔まで浮かんできたことに、彼女は苦笑するしかない。直近の記憶だ。
そして、最後に視界を埋め尽くしたのは、あの青い髪の女の顔だ。さまざまな表情で、彼を見ている。笑顔だったり、怒っている顔だったり、口を尖らせていたり、頬を赤らめていたり――彼女を眺めているだけで時間を潰せそうなほどに千差万別の表情が、セツナの視界を彩っていた。
セツナは、その女性のことを考えることで、殺戮の現実から逃れているのかも知れなかった。
少しばかり妬ましい。が、悪いばかりでもない。なぜか、ミリュウの心まで晴れていく。同調しているからだろうか。そんなことを考える。
(あなたの女神かしら)
ミリュウがそんなことを考えていると、意識が遠のいていく感覚に苛まれた。夢が覚めるという確信は、なぜか寂しさを抱かせる。もう少し彼の記憶に触れていたいと思っている自分に気づいた。なぜだろう。共感したから、というだけではあるまい。気になっている。彼がこの先、どのような記憶を見せてくれるのか。どのような感情を伝えてくれるのか。
もう、見せてはくれないのだろうか。
そう思うと、無性に哀しくなった。無意味に泣き叫んで、駄々をこねている自分に気づいた。どうして、こんな無意味なことをしているのだろう。
呼び声が聞こえる。
だれかが、彼女の名前を呼んでいるのだ。
聞いたことのある声だった。
『ミリュウを?』
彼がだれに問いかけているのかわからないまま、彼女は覚醒の感覚に囚われた。