第二千五百五十一話 愚かなるもの
「まったく、お話になりません……ね?」
ナリアは、苦笑を禁じ得ないとでもいわんばかりに片目を瞑り、同意を求めてきた。その表情には、当然とはいえ余裕がある。
「八極大光陣は絶対無敵の布陣。八極大光陣ある限り、あなたはわたしに触れることさえできない。わたしは、あなたに触れることも容易いのですが」
艶然と、それでいて面白おかしく笑いかけてきたのは、セツナが反撃ひとつできないことをわかりきっているからだろう。セツナは、身動きひとつ取れない状態にあった。いや、それは正しい表現ではない。動けないことはないのだ。手も足も、指先ひとつ、彼の思うままに動く。しかし、動いたところでどうしようもないというのが正しかった。
彼はいま、五体をばらばらにされた上、虚空に固定されていた。
「ほら、このように」
ナリアは、自分の目線の高さに固定したセツナの顔を両手で包み込むと、口づけするような素振りを見せた。素振りだけだ。セツナが嫌がることをするのが楽しくて仕方がないのかもしれないし、あるいは、目的に適っているからこそ、そんなことをするのかもしれない。
セツナが全身をばらばらにされた上、空中に固定されているのは、ナリアに完膚なきまでに敗れ去ったからだ。黒き矛だけで挑んだがために、ナリアに触れることもできないまま蹂躙され、為す術もなく、五体を切り裂かれ、ばらばらにされた。激痛こそあったが、死ぬようなものではなかった。しかも、ばらばらになった五体は、どういうわけか神経そのものは繋がっていて、彼の意思によって自由に動かすことができた。だから、引き裂かれているという実感が薄いのかもしれない。
それに殺されないだろうという安心感もある。ナリアは、セツナを利用する必要があり、それにはセツナを殺してはならないからだ。だからこそ、敗れること前提でナリアに挑みかかったのだが。
もし、最初から本気で勝ちに行くつもりであれば、黒き矛だけで挑むような愚かなことはしない。すべての眷属を召喚し、完全武装状態で挑んだだろう。それでも勝てないことはわかりきっている。ナリアは現在、八極大光陣の中にいる。
八極大光陣は、絶対無敵の布陣。
それが真実かどうかはこの際問題ではない。
問題なのは、ナリアの力が八極大光陣によってさらに引き上げられているという事実だ。ナリアは、ただでさえ強力な神だ。マユリ神以上の力を持っているだけでなく、何百もの神々が、これでは敵わないと力を合わせ、一柱の強大な神ヴァシュタラを作り上げなければならなくなるほどの力を持っている。
通常状態でさえ、完全武装のセツナが太刀打ちできるものかどうかもわからないというのに、そこに八極大光陣が合わされば、一筋の光明さえ見当たらないと考えるのが妥当というものだ。
だからこそ、八極大光陣を破壊し、ナリアを絶対無敵の布陣の中から引きずり出さなければならないのだ。
ナリアが背を向けたまま、こちらを振り返ってくる。金色に輝く瞳は、神々しくも禍々しい。
「……あなたは、これほどの力の差を理解しながら、わたしに降るつもりはなさそうですね?」
「そりゃあそうだろ」
「どうしてです?」
「世界を滅ぼす悪行の片棒なんて担げるかよ」
「……いまさら」
女神の口から、苦笑が漏れた。そして、こちらに向き直ってくる。衣が揺れて、宇宙染みた影が覗く。いや、宇宙そのものなのだろう。衣の内側で星々が瞬き、銀河が息づいていた。
「いまさら、なにを仰っているのですか?」
「なんだって?」
「あなたは、これまで、自分がどれほど多くの命を奪ってきたのか、覚えていないというのですか?」
「……忘れるものかよ」
吐き捨てるように、告げる。忘れるはずもない。忘れられるはずもない。
「ああ、そうさ。俺はこれまで、数え切れないほどの命を奪ってきた。上からの命令だから、任務だから、国のため、愛するひとたちのため、色んな理由をつけて、正義と信じて戦ってきた。殺してきた」
数え切れない命が黒き矛のひとふりで、眷属による攻撃で、散っていった。幾千幾万の命を奪ったのだ。殺す必要のない命まで奪ってきたに違いない。勝利のためになりふり構わず戦い続けた結果がそれだ。それを正義や大義、任務や使命で偽装し、言い訳してきたのだ。だからこそ、いまがある。いまの自分がいる。それを否定することはできない。否定してはならない。それは、自分自身の否定でもある。それだけならばまだしも、愛しいひとたちをも否定することになる。それはできない。それだけは、断じて。
「だから問題ないとでもいうつもりか?」
「はい」
「……正気かよ」
「目的のためならば、使命のためならば、任務のため、正義のため、大義のため――ひとは、理由さえあれば、なんだってできるでしょう。ひとを殺すことも、ひとを裏切ることも、なんだって。世界を滅ぼすことだって、同じでしょう?」
ナリアの言葉を否定できない自分がいて、彼は、憮然とした。否定できないのには、十分すぎるほどの理由がある。セツナは一度、世界を滅ぼしかけた、という。記憶にはないが、体と心は記憶している。すべてを失ったがために、黒き矛の力を暴走させた。それがなにを意味するのかわからないセツナではない。制御できないほどの力の拡散とはすなわち、世界の破壊そのものだ。
黒き矛には、それほどの力が秘められている。
百万世界の魔王の力、その片鱗こそ、魔王の杖――黒き矛カオスブリンガーなのだ。
「わたしがあなたに正義を与えましょう。わたしがあなたに使命を与えましょう。わたしがあなたの大義そのものとなりましょう。そうすれば――」
「冗談じゃねえ」
セツナは、ナリアの言葉を最後まで待たず、切り捨てた。
「だれがあんたに従うかってんだ。どんな理由があっても、な」
「では、理由を与えましょう」
「理由?」
「ご覧なさい」
ナリアが背後を指し示すと、虚空にいくつもの光が走った。光はそれぞれ立方体を形成していくと、ひとつの大きな立方体を中心に八つの立方体が衛星のように旋回し始めた。全部で九つの立方体の表面に、無数の光線が走ったかと思うと、映像が流れ出す。それぞれ異なる九カ所の映像。いずれも予期せぬものであり、彼は、言葉を失うほかなかった。
「あれは……」
「あなたがたは、愚かにも八極大光陣を攻略するべく手を打った。わたしと戦うため、わたしを戦場に引きずり出すためには最善の策といえるでしょうが、しかし、あなたがたの持ちうる戦力では、わたしの分霊を打ち破ることなど不可能……」
衛星のような八つの立方体に流れる映像は、八極大光陣のもののようだった。火山地帯だったり、雷の嵐の中だったり、水中だったりと、八つの塔の外観からは想像も付かない戦場の数々には、セツナも驚愕する以外なかった。塔の中は、広大な異世界となっていたのだ。いずれもが苦戦しているように見えたが、それは当初からわかっていたことではある。分霊は、使徒などよりも遙かに強力な存在なのだ。苦戦するのは当然だった。
「そして、あなたがたが戦力を分散させたがため、あなたがたは窮地に陥るのです」
中心の大きな立方体には、移動城塞周辺を上空から見下ろしたような視点の映像が映し出されていて、その荒れ果てた大地を白く塗り潰されていく様は、絶望的といってもよかった。
大帝国が誇る百二十万の大軍が、統一帝国軍を滅ぼすべく動き出したのだ。