第二千五百四十八話 激流の底で(四)
「我は水天星ヴォイド。不純物の一切存在しない水の中の静寂こそが至高なれば、そなたらのような不純物の存在は、許しがたい。よって、我みずから、そなたらを処理することとした」
分霊のものと思しき声は、レムの耳にはっきりと聞こえていた。水中であるにも関わらず、音がはっきりと伝わってくるというのは不思議を通り越しておかしな話なのだが、相手が分霊である以上、そんなことは些細な問題としかいいようがあるまい。
分霊は、神の分身。神人、神獣は無論のこと、使徒よりも多分に神の力を分け与えられた存在なのだ。水中に声を伝播させることくらい、容易いに違いない。
水中。
レムが水中に投げ出されたのは、タズマウに穴が開いたからだけではなかった。大量の水が流れ込んでくる中、立て続けの攻撃によってタズマウの全身がぼろぼろになり、船として運用することもままならなくなって爆散したからだ。その爆圧に吹き飛ばされるようにして、レムは、水中に投げ出された。が、マユリ神が水中戦の準備を整えていてくれただけあって、レムもほかの武装召喚師たちも、なんの問題もなく行動することができていた。水中だというのに呼吸することもできれば、水圧のせいで身動きがままならないということもない。それどころか、泳ぐまでもなく自由自在に動くことができた。まるで背中に羽が生えたかのように、水を得た魚のように。その感覚に慣れるまで多少の時間は要するだろうが、慣れてしまえば、なんの問題もなさそうだ。
ただ、その時間的猶予があるかどうかは、不明だが。
「皆、無事のようですな」
サグマウが近寄ってくるなり、周囲を見回した。彼の声が聞こえるのも、マユリ神が用意した水中戦用召喚武装の能力のおかげだろう。
レムの周囲には、彼女とともにタズマウの爆圧によって吹き飛ばされた武装召喚師たちが集まっている。だれひとり、爆圧によって負傷したものはいない。さすがは神の加護、というべきだ。マユリ神の加護がなければ、爆圧によって全滅していたこと間違いない。
「ええ……しかし、タズマウ様が」
「タズマウを失ったのは残念ですが、いまは、目の前の戦いに集中するべきでしょうな」
「はい!」
レムは、力強くうなずくと同時に右に流れるように移動した。凄まじい速度で水流が起こる。碧の戦士が駆け抜けていったのだ。そこへ、武装召喚師たちの遠距離攻撃が追いかけるが、水中戦を得意とする碧の戦士を捉えるのは簡単なことではなさそうだった。なにせ、こちらは水中戦に不慣れだ。水中戦を行える状態にこそなったものの、それで同等に戦えるかといえば別問題なのだ。
とはいえ、泣き言をいっている余裕もない。
レムは、懐から大鎌を取り出すと、軽く振り回した。女神たちの支援のおかげもあり、水圧が体の動きを鈍らせるということはない。つまり、いつも通り戦えるということだ。問題は、水中戦の練度だが、それについてはいまさらどうにもならない。練度は、明らかに相手のほうが上だ。碧の戦士たちは縦横無尽に水中を駆け回り、敵に肉薄し、攻撃を加えた瞬間には大きく距離を取っている。超高速戦闘といってもいい。それくらい、水中における碧の戦士というのは脅威的だった。
ダンマウとフイグマウは、当てにできない。なぜならば、レムたちのいる戦場の遙か後方で碧の戦士たちと激闘を繰り広げており、こちらにまで手が回らないからだ。
こちらの戦力は、レム、サグマウ、それに五百名の武装召喚師たち。
敵戦力は、分霊たる水天星ヴォイドとその配下たる碧の戦士五体。数の上では、圧倒的にこちらが上回っているが、戦力差は、どうか。
考えるまでもなく、相手のほうが上なのだろう。味方武装召喚師たちがつぎつぎと打ちのめされていく様を見るにつけ、碧の戦士の水中戦の練度を思い知らされるし、碧の戦士の強さそのものも思い知るほかなかった。だが、碧の戦士に拘っている場合ではない。斃すべきは、分霊こと水天星ヴォイドなのだ。ヴォイドさえ斃すことができればそれでよく、逆をいえば、ヴォイドを斃せなければ、いつまでたっても勝利は訪れないということだ。
(そうなのでございます!)
レムは、五体の“死神”を呼び出すと、ヴォイドに向かって全速力で移動した。“死神”たちは、水中でもなんの問題もなく機能し、彼女の思うままに動いている。すると、ヴォイドがこちらを一瞥した。そしてその巨躯を、その巨大さからは想像もつかないほどの速さで動かして見せた。左腕が大きく動いただけで、ヴォイド周辺の水が激しく揺れ動き、世界そのものが震撼したかのような衝撃がレムを襲った。激痛の中で吹き飛ばされ、“死神”たちが跡形もなく消え失せる。
「レム殿!」
「わたくしの心配よりも、ヴォイドを!」
レムはサグマウが駆け寄ってこようとするのを制すると、再び“死神”たちを呼び出し、水中で態勢を整えた。サグマウがすぐさまヴォイドに向かっていったのを見て、満足する。サグマウは優先順位を理解している。それでいいのだ。味方にどれほどの被害が出ようが、ヴォイドを討ち、八極大光陣を打ち破ることが絶対なのだ。でなければ、ナリアに敗れる以外の未来がない。勝たなければならない。なんとしてでもナリアに打ち勝ち、自分たちの未来を掴み取らなければならない。
ヴォイドが、今度は右腕を振り上げた。すると、突き上げるような強烈な水の流れが生じ、レムたちは、為す術もなくヴォイドの頭上へと押し流された。その激流を耐え抜いたのはサグマウただひとりであり、そんな彼を目障りに感じたのか、碧の戦士五体が一斉にサグマウに襲いかかった。
「サグマウ様!」
レムの叫びは、しかし、余計な心配に過ぎなかった。サグマウは、殺到してきた五体の碧の戦士を流れるような動きでつぎつぎと撃破して見せると、こちらを一瞥もせず、ヴォイドへと肉薄した。サグマウは、海神マウアウの使徒。水中戦などお手の物であり、ヴォイドが生み出した戦士などより遙かに強いということも納得がいく。すると、ヴォイドがアルセル=ザイオンとよく似ているらしい顔を歪ませた。
「不純物など、この領域に存在するべきではないというに」
「不純物結構! わたしはこの魂でもって、帝国への純粋な忠誠を現そう!」
サグマウは、吼えるように告げて、ヴォイドが両腕でもって生み出した激流を貫き、その胸元へと殺到する。そしてサグマウは手にした三叉の矛でもって、ヴォイドの碧く輝く胸甲を突き破り、そのまま、ヴォイドの胸をも貫いて見せた。それだけには留まらない。サグマウの生み出した激流がヴォイドの世界をそのままヴォイドへの攻撃手段へと変えた。即ち、サグマウが突き破り、貫いたヴォイドの胸の中へ苛烈としかいいようのない激流が襲いかかり、ヴォイドの巨躯を内側から食い破るが如く荒れ狂った。ヴォイドが叫んだのは、断末魔か。サグマウが再び吼え、三叉の矛を振り翳せば、さらなる激流が巻き起こり、水の世界をサグマウの色に染め上げるかのように攪拌していく。激流に次ぐ激流が生み出す水中の竜巻は、ヴォイドの巨躯をでたらめに打ち砕き、その怒りに満ちた叫びを水中に響かせる。
サグマウは、一切手を緩めない。勝利の確証を得られるまで気を抜いてはならない、そのような生やさしい相手ではない、と、彼の一挙手一投足が告げていた。サグマウが矛を振るうたびに水の世界がうなりを上げて大きくうねり、膨大かつ圧倒的な力となって、暴圧となってヴォイドを蹂躙する。
レムは、自分たちが結局はなんの力にもなっていないことを思い知りながらも、それならそれでいいと思った。見る限り、サグマウの一方的かつ圧倒的な勝利だ。ヴォイドは、為す術もなく水流の中に蹂躙され、潰えていく。巨大な手も足も鎧もなにもかも、水の中の泡となって、弾けて消える。
ヴォイドの肉体が無残にもばらばらになっていく光景を目の当たりにしながらも、そのあまりの呆気なさには違和感を覚えずにはいられない。無論、サグマウの勝利を信じたいが、なにかが引っかかるのだ。これではまるで、使徒と化したゼネルファーよりも弱いとしかいえないではないか。
相手は分霊。
そんなわけがない――。
「レム殿――!」
サグマウの警告の声が聞こえたのは、レムの全身に鋭い痛みが走ったのとほとんど同時だった。