第二千五百三十五話 八極大光陣(五)
マユラは、移動城塞から迫り出した八つの塔への転移現象を確認すると、部隊を送り込まれなかったふたつの塔への攻撃を開始するべき、己を分けた。まったく同じ姿をした分身を作り出したのだ。己の力の半分を分け与えた分身を城塞北東の塔へ送り込み、自身は北の塔へ向かう。移動中、城塞内部への攻撃を試みたが、彼が放った神威の光線はやはり、八極大光陣によって妨げられ、空中で爆発を起こしたのみに留まった。素直にマユリに従い、塔へ赴く。
塔内部への侵入そのものは、決して難しいものではない。八極大光陣に覆われているのは、塔より内側の領域であり、塔そのものは八極大光陣を形成する力場の発生源でしかないのだ。塔は、八極大光陣に護られていない。であれば、外部から塔を破壊すればいいのではないか、と考えるだろうが、それでは意味がない。塔を破壊したところで、八極大光陣が消えるわけではないのだ。八極大光陣を生み出しているのは、ナリアの八体の使徒、あるいは分霊であり、それらを討ち滅ぼさない限り、八極大光陣を消し去ることはできない。
ただ、すべての使徒を斃す必要があるかどうかは不明だ。一体斃しただけで八極大光陣は本来の力を発揮できなくなるかもしれないし、そうではないかもしれない。マユリが全滅させるべきと判断したのは、ナリアが撃破された使徒をすぐさま補充する可能性があるからであり、その判断は正しい。移動城塞には、百万を越える神人が乗っている。神人を使徒に引き上げることは、ただの人間を使徒にするよりも簡単だ。既に神威を大量に浴びているのが神人たちなのだ。それらを使徒にし、八極大光陣を再構築することは、決して難しくはあるまい。
つまり、すべての使徒を打ち倒し、八極大光陣を打ち破ることに成功しても、ナリアとまともに戦っていられる時間というのは限りなく少ないということであり、その短時間にセツナがナリアを討滅できるかどうかにすべてがかかっているということだ。もししくじれば、こちらの敗北は確定的となる。撤退は、不可能ではない。が、撤退し、立て直している間に移動城塞は南大陸の掌握を粛々と進めるだろうし、それを止める方法はなかった。
この戦いに勝利しなければ、南大陸に未来はないのだ。
絶望が待ち受けている。
その絶望の未来を塗り替えるために絶望を司る自分が動かなければならないというのは、皮肉にしてはつまらない事態ではあるが、致し方のないことだと彼は諦めていた。
約束は、すべてに優先する。
神とは、約束によって成立する存在といっていい。固く結んだ約束――契約を破ることは、己の存在を根本から否定することであり、彼の半神マユリが勝手に結んだ契約とはいえ、それを踏みにじるようなことは、彼にさえできなかった。そしてそうである以上、いまは、契約の履行にこそ、全力を上げる必要がある。
マユラは、移動城塞の北の塔への侵入を果たすと、空気感の変化に気づいた。空間そのものが大きくねじ曲げられている。塔の外と内では、世界が変わっているといってもいいくらいだ。小さな、本当に小さな異世界が構築されている、とでもいうべきか。それは、使徒の領分を越えた力の顕現だ。
(分霊か)
彼は、塔の外観からは想像もつかないほどの広大さを誇る内部空間にあって、そう断定した。使徒ではなく、分霊。それがどういうことを示すかといえば、使徒よりも厄介な相手だということだ。使徒は、神の加護と祝福を得たものであり、神の力を借りることが許されたもののことだ。その力は強力無比ではあるが、神とは比べるべくもない。たとえそれがナリアの使徒であったとしても、だ。
分霊は、違う。分霊とは、神がその力を多分に分け与えた存在であり、分身といっても過言ではない。マユラがいま作り出した分身のようなものだ。純粋に神の力を分け与えられただけあって、使徒とは比較できないほどの力を持っていると考えていい。分霊と使徒の力の差は、使徒と神人の力の差以上にある。マユリが最悪の事態を想定し、マユラだけに八極大光陣を任せなかったのは、好判断というべきだろう。
その場合はその場合で、マユラの報告を元に戦術を組み替えるのがマユリの役割ではあるのだが。
それはそれとして、彼は、ナリアの分霊が作り出した領域に目を細めた。眼下を埋め尽くすのは、どこまでも広がる雲海であり、暁光の如き幻想的な光が雲海を金色に輝かせていた。風は穏やかで、どこまでも澄み切っている。空の上。雲の上。人間が想像する天国のような光景。ただ、そこには神もいなければ、天使たちもいない。あるのは光り輝く雲の海であり、その雲海の中に強大な力が渦巻いていることに彼は気づいていた。
分霊がいる。
マユラは、両手の先に集めた神威を雲海に向かって解き放ち、問答無用に攻撃した。神威は、光の雨となって降り注ぎ、雲海に無数の巨大な穴を開けた。
マユラは、北東の塔内部に入り込むなり、本体が分析した情報通り、塔内部が分霊の領域であることを認知した。分霊である彼は、常に本体と同期し、情報のやり取りが行われている。本体の考えていることがそのまま自分の考えていることであり、自分の考えていることもまた、本体の思考となる。人間であれば処理しきれず混乱を来すようなことも、神ならばなんの問題もなく処理できるのだ。神ならば当然だったし、分霊ならば当たり前のことだ。
それはつまり、相手も同じということだ。
ナリアの分霊は、ナリアと思考を共有しているのだ。そして、分霊が得た情報は瞬時にナリアに届いている。分霊の目はナリアの目であり、分霊の耳はナリアの耳なのだ。つまりだ。分霊を斃すために全力を発揮すれば、ナリアにこちらの手の内を明かすことになるということであり、八極大光陣攻略部隊とナリア討滅部隊を分けたのは、好判断というほかない。
もっとも、神殺しを行えるのがセツナだけである以上、セツナをナリア討伐の選任にするのは当たり前の判断といえば、そうなるのだが。
とはいえ、マユリの判断は、いまのところなにひとつ間違ってはいない。
敵が分霊である以上、大量の武装召喚師を攻略部隊に組み込むのはこれ以上ないくらいの正解だったし、一般兵を足手まといとして連れてこなかったのも、正しい。
そして、分霊二体をマユラに任せたのも、正しい判断といえるだろう。
二体までなら、マユラとその分霊でなんとかなる。
空気そのものが凍てついた領域へと降り立ちながら、彼は、静かに思考する。本体は、既に戦闘を開始している。こちらもいつ戦闘に入ってもおかしくはないが、まずは状況の確認が先決だった。状況。周囲は、空気同様、凍てついた大地がどこまでも広がっているように見える。そう見えるだけだ。実際には、無限に長く、地平の果てまで世界が続いているわけではない。この閉じられた空間は、分霊の支配領域であり、ある種の結界と言い換えてもいい。彼のいる凍り付いた結界は、分霊の力の性質を示しているに違いない。
大地は絶対零度の凍土と化しており、吹き抜ける風もただひたすらに冷え切っている。人間ならば、寒さに震えるだろうし、凍え死ぬこともあるかもしれない。それほどまでに温度が低い。太陽がないのだ。光がなく、上天もまた、氷に閉ざされている。なにもかもが凍り付いた領域。つまり、この領域を作り出した分霊は、冷気を司ると考えていいだろう。
分霊は、上空にいる。
氷に閉ざされた空の彼方から、近づいてきている。
迎撃のため、だろう。
彼は、先手を取るべく、両腕を振り上げ、神威を解き放った。