第二千五百三十四話 八極大光陣(四)
だれもがむせ返り、口や鼻から入った水を吐き出している中、レムは、全身がびしょ濡れになっていることも構わず、周囲を見回していた。鉄材とも石材ともいえないような物質で構成された不思議な空間の中にいる。
レムと五百名の武装召喚師は、ひとり残らず、サグマウによって救援され、タズマウの体内に吸い込まれたのだ。タズマウの体内は、いくつもの広い空間から成り立っており、レムたちは中程の広間に集められていた。生物的な外見からは想像もつかないが、タズマウの体内は、生物のそれではなかった。無機物に近い。タズマウは、メリッサ・ノア号を元に作り替えられたものだという。元が船なのだ。内部に居住空間があるのも当然といえば当然なのかもしれない。
レムを含めた全員、突如水中に投げ出されたこともあって死にかけていたものの、死そのものは回避することができている。それもこれもサグマウとタズマウのおかげなのだが、もし、彼らの協力がなければ全滅に近い状態に陥っていたことはいうまでもない。マユリ神が異変を察知し、レムたちを移送したときにはもう遅かっただろう。それくらいぎりぎりの状況だった。
室内にいるだれもが死の恐怖を振り払うように衣服の水を絞り出したりしている。
レムは、死そのものへの恐怖こそないものの、それはそれとして、なにもできないまま蹂躙されるというのはあまりにも理不尽であり、八極大光陣に対する怒りが湧いていた。
「まったく、運が良かった」
と、サグマウが姿を見せた。彼の巨躯さえ余裕を持って行動できるほど、タズマウの体内というのは広い。厳めしい彼の姿は、帝国の武装召喚師たちには威圧的に見えるだろうし、受け入れがたいものもあるだろうが、命を救われたことで感謝の想いも抱いていることだろう。そういう空気感を肌で感じ取りながら、レムは、彼の言葉に強く同意した。
「まったくでございます」
「しかし、八極大光陣になにが待ち受けているかは、だれにもわからぬこと。これでマユリ様やラミューリン殿を責めるのはお門違いですぞ」
「わかっております。しかし、どのような場所に転送されても対処できるようにしておくべきだったのは、確かでございましょう?」
「ええ。異論はありませんな」
サグマウは微笑んだものの、いきなり水中に投げ出されることなどどう想像し、そう対処できるのかといえば、よくわからないことだ。まさか、塔の中に転送したと思いきや、水中だったなどとは、想像のしようがない。サグマウがいったように、マユリ神やラミューリンが悪いわけではないのだ。想定外の出来事は、どんなことにだって起こりうる。そしてそれが起きた。それだけのことだ。
それだけのことで全滅しかけたのは、笑えない話だが。
「さて、この水中のどこに使徒がいるのか。まずはそこですな」
サグマウは、気を取り直したように告げると、前方に向き直った。体内がわずかに揺れ、タズマウが動き出したことがわかる。
レムたちは、タズマウとサグマウが使徒を探し当てるのを待たなければならなかった。
居場所さえわかれば、水中であろうと、攻撃手段がないわけではない。
なんの対処法もなく水中に投げ出されたのが、死にかけた原因なのだから。
空間転移が終わると、視界に飛び込んできたのは、鬱蒼と生い茂る木々であり、咲き誇る花々であり、伸び放題の草であり、木に絡みつく蔦などだった。まるで樹海だ。それもただの樹海ではない。植物の楽園であり、植物以外の生物の生存権はなく、植物だけが命を謳歌している。そんな雰囲気さえ漂うような景色であり、世界だった。とても、塔の中の風景とは想えなかったが、ラミューリンが転送先を間違えるとも想えず、ならばここが目的地に違いないのだろうと納得するほかない。
つまり、塔の主が塔の中をこのような世界に作り替えているということだ。
相手は、神に力を分け与えられた使徒だ。神がなんでもなりなら、その使徒もなんでもありなのだろう。おそらくは、そういうことだ。と、彼は自分に言い聞かせると、背後を振り返った。
「皆、無事か? 生きてるか?」
エスクは、部下としてあてがわれた五百名の武装召喚師たちに問いかけながら、ウルクが平然とした様子で周囲の様子を警戒している様を見て、安堵した。ウルクは、人間ではない。魔晶人形なのだ。その躯体と呼ばれる金属製の体は、召喚武装による攻撃すら撥ね除けるほどの強度を持っている。戦闘能力は極めて高く、武装召喚師たちよりも当てにできた。なにより、ウルクは、どのような状況にも動じないところがあり、頼りになった。
「は、はい、なんとか……」
「ここ、いったいなんなんですかね?」
「森の中……なんでしょうか?」
「塔の中に転送されたはずじゃあ……」
武装召喚師たちが口々に生存を報告してきたり、疑問の声を上げるのを聞いて、エスクは小さく苦笑した。武装召喚師たちがひとり残らず無事なのは、聞くまでもないことだ。ディヴノアからここまで、あったのは戦神盤による空間転移だけであり、転移先が上空や水中でもない限り、死傷者がでるようなことはあるまい。そしてここは森の中だ。動き回りさえしなければ、怪我をするようなこともない。
「ここがその塔の中なんだよ」
エスクが告げると、ウルクが顔をこちらに向けた。だれもが見惚れるほどの美貌は、ときに彼女が作り物であることを忘れさせる。
「エスク。船から見た塔の規模から考えて、この森があの塔の中に収まるとは到底考えられませんが」
「……ああ、それもわかってる」
ウルクは、森の規模が塔の中に収まる程度のものではないといっていて、それは、エスクにも感覚的に理解できていた。ソードケイン、ホーリーシンボル、エアトーカーという三種の召喚武装を同時併用しているようなものである彼にも、森の規模がどの程度のものなのかわからないくらいなのだ。もし、塔の中に収まる程度の規模ならば、外周を覆う壁の位置を感じ取ることくらいできるはずなのだが、それができない。それはつまり、極めて広大な樹海の中にいるということだ。
「では、あなたの発言は間違っているのではありませんか?」
「相手は使徒だぜ。なにがあったっておかしくはないんだよ」
「どういうことでしょう?」
「塔内部の空間をねじ曲げて、広さを誤魔化しているってことさ」
マユリ神は、かつて、ウルクナクト号内部の広さを神の力によって拡大し、一万の兵を運んだことがある。それと似たようなものだろう。塔内部の空間をねじ曲げ、何倍にも広くしている。そしてそこに森を作った。なんのためにかはわからないし、この植物だけの楽園にどのような意図や意味があるのかも想像できないが、ともかくも、この塔を司る使徒には、重要なことなのだろう。でなければ、このような森を作る必要がない。ナリアの力を増幅するための八極大光陣なのだ。無意味なことをしているとは、考えにくい。
「使徒ならばそのようなことも可能、ということでしょうか」
「そういうこと。だから、常に緊張していろよ、おまえら」
「は、はい」
「どこから攻撃が飛んでくるかわからないってことですよね」
「そういうこった」
エスクがうなずいた直後のことだ。鳴動があった。大地が、いや、世界そのものが震えるような鳴動。木々が揺れ、枝と枝、葉と葉が擦れ合い、ざわめき、うなりを上げる。木々だけではない。草や花もまた、まるで歌うように大きく揺れていた。
森が、目覚めたのだ。