第二千五百十三話 敗北について(三)
「活躍だったそうだな」
ミズガリス=ザイオンは、いつも通りの神経質そうな表情で話しかけてきた。統一帝国に参政して以降の彼は、皇帝時代のような居丈高さこそ鳴りを潜めたものの、本質的な傲慢さを消し去ることなどできるわけもなく、ラミューリン=ヴィノセアを始めとする忠実な部下に対しては、その本質の一端を垣間見せた。とはいえ、皇帝として振る舞っていた頃に比べると、随分と大人しくなったものだし、幾分、可愛げがある。と、彼女は受け取っているが、ミズガリスに可愛げを見出す人間など、この世に自分ひとりだろうと自認してもいる。
ミズガリスなど、統一帝国政府においても腫れ物扱いされているような人物だ。それは致し方のないことだ。旧西帝国の人間が主流派を占める統一帝国において、旧東帝国の元皇帝であり、ニーウェハインと覇を競い合ったミズガリスが平然を受け入れられることなどありえないのだ。だからといって、旧東帝国の人間が蔑ろにされているかといえば、そういうことは断じてなく、ラミューリンのように重要な役割を任せられることも少なくはない。ミズガリスも政治の中枢に携わっている。特に大陸東部の統治運営において、彼の意見が尊重されることは多く、その点では彼はいまの仕事に満足しているようだ。
彼が神経質そうな表情なのは、生まれつきといっていい。
「はあ……」
ラミューリンは、しかし、そんな愛すべき主君に対しても生返事を浮かべるしかなかった。
海上移動城塞攻撃作戦から二日が経過した。戦場からの離脱後、船の中で一晩を過ごし、ディヴノアに辿り着いたのがさらに翌日のことだったのだ。ラミューリン率いる統一帝国軍精鋭武装召喚師二百名は、ひとりとして欠けることなくディヴノアに合流することができ、その点では、彼女は心底ほっとしていた。部下としてあてがわれた二百名はいずれも帝国有数の武装召喚師ではあるが、それだけに海上移動城塞での戦闘で少なからず死傷者が出ることを予想せずにはいられなかったのだ。だが、戦いは振り出しに戻されることとなり、すべてなかったことになった。そのおかげでだれひとり傷つくことも死ぬこともなかったのだから、あのとき、女神が下した判断は間違いではなかったのだろう。もし、あのとき、あのままなにもしなければ、ただ見届けるだけに徹していれば、どうなっていたのか。想像することも難しい。
脳裏を過ぎるのは、女神の言葉だ。
『大袈裟ではなく、おまえは世界を救ったのだ。胸を張れ、ラミューリン』
その評価は、大袈裟にも程があるだろう、と、彼女は想う。
想うのだが、女神のいうことだ。ラミューリンにはわからないことを認識し、把握し、理解していた可能性は極めて高い。
確かにあのとき、セツナ=カミヤを示す光点が敵の女神ナリアの光点の光量を凌駕する勢いで膨張し、輝きを強めていたのは覚えている。あのまま放っておけば、セツナは、ナリアを討ち滅ぼせたのではないか。ただし、多大な犠牲と引き替えになるが、統一帝国の勝利を考えれば、必要な犠牲だったのではないか、とも考えられる。なにせ、南大陸に接近中の大帝国の総兵力は百万といい、それに神鳥や神獣が加わっているとなると、とてもではないが、統一帝国軍が総力を結集したところで話にならないのではないか。
ならば、二百名の武装召喚師とセツナ一行を犠牲にしてでも、女神ナリアを討ち、大帝国の侵攻を終わらせることこそ、あのとき遂行するべき事だったのではないか、と、彼女は考えなくもなかった。
だが。
「どうしたのだ? なにか、問題でもあったのか?」
「……世界を救うとは、どういうことでしょうか?」
「……難しい質問だな」
ミズガリスは、ラミューリンの突拍子もない質問に対しても、奇妙と想うこともなく考え込んだ。ラミューリンは、彼のそういうところが好きだったりする。ミズガリスは、第一皇子として生まれ、生まれながらに持て囃されたがために皇帝と皇后以外のすべてを見下すような性格の持ち主になってしまったが、一方で、先の皇帝にして実の父であるシウェルハインの教えには従順で在り続けた。
下々のものの声にしっかりと耳を傾けることこそ、上に立つものの責務である、と、シウェルハインは、何度も彼にいったという。彼はその教えを守り続けているのだ。だからこそ、彼は東帝国の統治運営を成功させることができたのだし、維持し続けることができた。彼がただの傲岸不遜な王者であれば、だれもついてこなかっただろう。
「世界を救うか。ふむ……」
「海上移動城塞における戦いについて、ミズガリス様は御存知でしょうか?」
「概要は、聞いている。惨憺たるものだったそうだな。おまえがいなければ全滅していたと聞く」
「はい」
静かに、認める。
「戦神盤が役に立ったというわけだ」
「はい。それもこれも、ミズガリス様が統一帝国に参加したからこそ」
「そんなことで持ち上げるな」
ミズガリスが苦い顔をした。しかし、ラミューリンは、冗談ではなくそう想っていた。ラミューリンが統一帝国の一員となったのは、ミズガリスが統一帝国に参政したからであり、もしミズガリスが罪人として裁かれるなり、あるいは統一帝国から放逐されるようなことがあれば、彼と運命をともにしようと心に決めていたのだ。ラミューリンはミズガリスを皇帝にしたという責任がある。彼に帝国を持たせたのは、ラミューリンら彼の忠臣たちだ。ミズガリスひとりでは、帝国を築き上げるなど不可能だ。ミズガリスがいかに才能があり、実力があろうとも、ひとひとりの力では、国を作ることなどできない。ミズガリスが西帝国に敗れた責任も、当然、ラミューリンたちにある。故にミズガリスの境遇に関しても、強い責任感を持っていた。
ミズガリスが統一帝国に参政すると決めた以上は、彼を支えるべく、統一帝国に参加することもまた、当然だったのだ。
「……で、それが世界を救った、という評価に繋がるのか?」
「マユリ様は、そう仰られました」
「おまえが、世界を救った……と?」
「はい」
「ふむ……」
ミズガリスは、またしても考え込むような表情をした。
「救世主ラミューリンか。悪くない響きだ」
「お戯れを」
「これからは救世主様と崇め奉らねばな」
「ミズガリス様……」
「冗談だ。気を悪くするな」
ミズガリスが軽く笑いかけてきたが、ラミューリンは、むしろ、そのような軽口を叩けるようにまでミズガリスが精神的に安定してきたことが嬉しくてたまらず、思わず目頭が熱くなるのを認めた。そうなれば、救世主談義など、どうでもよくなる。やはり彼女にとって世界の中心は、主君たるミズガリスであり、それ以外にはなかった。統一帝国などどうでもいい。ミズガリスさえ無事であれば、ミズガリスさえ元気であれば、それだけでいいと想えた。もちろん、そのためには統一帝国が無事でなければならず、統一帝国の脅威たる南ザイオン大帝国――女神ナリアを討ち滅ぼさなければならないという事実に変わりはない。
そのことは、先の戦いで思い知った。
女神ナリアの力は、とてつもなく強大だ。
絶対的といっても過言ではない。
統一帝国が誇る武装召喚師たちも、その遙か上を征くセツナ一行ですら、太刀打ちできなかった。なにもできないまま、皆殺しに殺された。生き残ったのはセツナただひとりであり、それすらも、もしかしたら生かされただけである可能性が高い、という。ナリアの思惑次第では、セツナさえ殺されていたのではないか、と、マユリ神は見ている。
だからこそ、マユリ神は、ナリアは絶対に滅ぼさなければならない、ともいった。
『あれの目的が見えてきた。まったく……恐ろしいことを考えるものだ……』
マユリ神の言葉は、ラミューリンの頭の中にいまも鮮明に刻まれている。
ナリアは、この世界を滅ぼすつもりなのではないか、と。