第二千五百九話 怒り、深く
「あれ?」
不意に脳天気な声が聞こえた。思いがけない、想いも寄らない、けれど、もう一度聞きたかった声。膨張し続ける黒い激情がほんの少し和らいだのは、決して気のせいではあるまい。ほんの少し、ごくわずかに過ぎないが。
どうしたところで、怒りが収まるわけではない。
どうしたところで、己の無力さを否定できるはずもない。
だから、彼は、思いのままに力を解き放ち続けていた。そうしなければ、ならなかった。すべての力をぶつけても勝てない相手かもしれないのだ。ならば、全身全霊では足りない。もっと、もっとだ。引き出せる限りの力を、いや、さらなる力を。それこそ、もう二度と、自分に戻れなくなっても構わなかった。なぜならば、すべてを失ったのだ。
愛しいひとを、失ってしまった。
目の前で――。
だから、だろう。
彼は、視界を失っていた。なにも見えなくなっていたのだ。激情の赴くままに力を解き放ち、黒き矛と眷属たちに秘められたすべてを暴走させようとしていた。
「あたし、死んだはずじゃ……?」
「わたくしも死んだ気がするのですが」
「俺も……そんな気がするんだが」
「戦神盤の能力でしょ」
もはや二度と聞こえるはずのないものたちの声が連続的に聞こえて、彼は、自分がいかに彼女たちを大切に思っているのかを再確認した。この限りなく追い詰められた状況でも幻聴を聞くとなると、余程だろう。
「その通りだ」
「へ? なんでよ?」
「おまえたちが死んだからだ」
「うん?」
女神の声まで聞こえてきて、彼はいよいよだと想った。いよいよ、自分を制御できなくなってきているのだという実感があった。自分の身も心も制御を離れ、暴走を始めているからこそ、様々な記憶が脳内を駆け巡っているのではないか。けれども、声には極めて現実的な重量があって、それが不思議だった。
「やっぱり、死んだんだ? あたし」
「全滅したのかしら?」
「わたくしが死んだということは……おそらくは御主人様も……」」
「いや、セツナを残して全滅した、といったほうが正しい。ん? セツナ、聞こえていないのか? セツナ」
「セツナ?」
「どうしたの?」
「……え?」
肩を激しく揺さぶられて、彼は、はっとなった。目の前にミリュウの顔があった。傷ひとつ見受けられない彼女の顔には、当惑があり、彼はその表情にこそ困惑した。どす黒い感情は、いまもなお、彼の心の奥底で天変地異の如く荒れ狂っている。
「ああ……?」
「凄い怖い顔……怒ってる?」
「わたくしたちのために……でございますね?」
ミリュウが不安そうな顔を向けてくれば、レムがどこか嬉しそうに微笑む。その意図がわからない。
「……なんだ? なにが……」
起こっているのか。
セツナは、混乱するほかなかった。
皆、死んだはずだ。しかし、目の前にはミリュウの顔があり、その隣にはこちらを心配そうに覗き込むエリナの姿があり、レムがいて、シーラ、ウルク、エスク、ダルクスらもいた。もちろん、ファリアの無事な姿もあった。だからこそ、余計に混乱する。皆、死んだはずだ。ひとり残らず、神の光に飲まれ、消滅した。セツナと命を共有しているはずのレムさえも、命の繋がりを絶たれ、滅び去った。
「ラミューリンに戦神盤の能力を使わせ、開戦時に戻させた。このまま一度退くぞ」
「退く?」
どうして?
と、セツナは言外に問いながら、マユリ神に視線を向け、ようやくここがウルクナクト号の機関室であることを理解した。空間転移が起こった、というわけでもない。それだけならば、ファリアたちが皆生きているわけがないのだ。セツナひとりがここにいるはずだった。そして虚無感の中でのたうち回っていることだろう。しかし、そうではなかった。皆がいて、様々な表情をこちらに向けている。そこまで考えてようやく、女神がいったことを把握する。
戦神盤最大の能力を思い出したのだ。
だから、死んだはずの皆が全員生きているのだ。
死が、なかったことになった。
時間が戻った、ということだ。
それは、かつて帝都ザイアスを急襲したときにセツナたちがやられたことでもある。
戦神盤のなにが凄いかといえば、それだろう。開戦時の状態にすべてを戻すことさえ可能なのだ。戦闘での負傷は無論のこと、死んだことすらなかったことになる。それはつまり味方の優勢、有利な状況も取り消すことになるが、味方が優勢の場合に使う能力ではないということでもある。
もちろん、時を戻すには条件や制限があり、ひとつの戦場では一度しか戻せず、一度その能力を使うと、しばらくの間、使うことができなくなるという。つまり、いま使ったことで、しばらくの間、時を戻す能力は仕えなくなったということだ。ラミューリンを見ると、彼女は、疲れ切ったように椅子に座り込んでいた。どうやら、時を戻す能力には、膨大な精神力を消耗するらしい。
戦場の時間を戻すのだ。全精神力を消費し尽くしたとしても不思議ではなかったし、それくらいの代価が必要な能力なのは疑いようもない。
死すらなかったことにできるのだ。
極めて強力で、極めて理不尽な能力といわざるを得ない。
が、その理不尽な力のおかげでだれも死ななかったことになったのだから、感謝するほかなかった。
「わたしたちは敵を甘く見過ぎていた。敵の力を見誤っていたのだ。いまの状態では、万にひとつの勝ち目もない。それに一度戦神盤の能力を使った以上、二度目はない。再びおまえたちを失えば、今度こそ終わりだ。ならば一度退き、戦術を組み直す以外にはない」
マユリ神は、セツナの目をじっと見つめながらいってきた。苦渋の決断だったのだろうが、その考えが間違っているとはとてもセツナには想えなかった。現状、勝ち目がないのは、火を見るより明らかだ。また挑んだとして、同じ結果に終わるだけだ。そしてそうなれば、今度こそ、全員を失うことになる。
「海上移動城塞の南大陸への上陸を食い止めることもできないのは口惜しいが……いまはほかに方法がない。わかってくれるな? セツナ」
「……ああ。今度こそ、あなたの指示に従うよ、マユリ様」
「そうしてくれると助かる。たとえナリアを斃せたとして、おまえたちを失っては意味がないのでな」
マユリ神はほっとしたようにいうと、目を細めた。
「その怒り、いまは静めておくのだ。いずれ、借りを返すときが来る」
「わかっているよ、マユリ様」
とはいったものの、セツナは、心の奥底で渦巻くどす黒い感情を処理することなどできるわけがないと想い、諦めていた。
それは、ナリアへの怒りだけではない。
自分自身の無力さへの憤怒でもあるのだ。
「あら……?」
アーリウルは、突如、世界が暗闇に包まれたことに気づき、きょとんとした。寸前まで、この世とは想えないほど荘厳で神々しい光が彼女の視界を埋め尽くし、世界を包み込んでいたはずであり、その光が彼女の主に絶対の勝利をもたらすはずだったのだ。それなのに、突如として世界に暗闇が戻った。彼女の主が敗れたわけではない。だとすれば、彼女が無事でいられるはずもない。
彼女は、ナリア神の使徒なのだ。使徒は、神を命の源とする。神が滅びない限り、不老不滅たりうるが、逆をいえば、神が滅びれば使徒もまた滅びるということだ。それはつまり、彼女が生きているということは神もまた生きているということだ。
「なにが起こったのでしょう?」
「どうしましたか、アーリウル」
「……陛下?」
「はい?」
振り向くと、マリシアハイン・レイグナス=ザイオンは、いつものような穏やかな表情でこちらを見ていた。女神ナリアではなく、皇帝マリシアハインがそこにいるという事実には、彼女は混乱せざるを得ない。つい先程まで、そこにいたのは女神だったはずだ。女神ナリアがそこにいて、セツナと対峙していた。記憶違いなのか。いや、記憶違いだとしたら、おかしい。そもそも、なぜそのような記憶違いが起こるというのか。
《向こう側に面白い召喚武装の使い手がいるようです。アーリウル》
突如脳内に響き渡った女神の聲に彼女ははっとなった。マリシアハインの様子に変化はない。マリシアハインは、女神の依り代なのだが、常に女神が入っているというわけではないのだ。普段のマリシアハインは、かつてのマリシアハインの延長上の人格の持ち主として、そこにある。
(召喚武装の能力……ですか)
《ええ。そのせいで仕切り直しとなりました。が、まあ、いいでしょう。どのみち、彼はわたしと戦わなければならないのですから》
(はい……)
アーリウルはナリア神の聲に胸中でうなずき、意識を現実に戻した。召喚武装の能力によって時間が戻ったということのようだ。だから、マリシアハインはマリシアハインのままであり、この室内を満たす闇に変化がないのだろう。
「……なんでもございません」
「そうですか。それならばいいのですが。なにか気になることがあるのであれば、いつでもいうのですよ」
慈悲深く、分け隔てない、まさに理想的な主君としてのマリシアハインは、いつものように優しい声でアーリウルを包み込み、彼女は、目を細めた。