第二千五百六話 光明神(一)
隙。
一瞬――いや、刹那の時間にすら満たない隙を見出すのと同時に、セツナの体は跳ねるように動いていた。無意識。脊椎反射などと呼ぶにはあまりにも早すぎるその反応は、人間の持ちうる反射速度ではない。神速をも越える超反応。肉体そのものも、神速を越えた。隙を見出したと同時に飛びかかり、同時に、女神の背後に至っている。そして、玉座の上へと至り、女神に向かって黒き矛を突き下ろさんとした瞬間だった。目の前の空間が歪んだ。
「っ――!?」
セツナは、声にならない叫びを上げて、全力で突き下ろした矛の動きを止めた。両腕の筋肉のみならず、全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、激痛でもって非難の声を上げてくる。全身全霊、すべての力を込めた一撃を寸前のところで押し止めたのだ。その反動たるや想像を絶するものであり、セツナは、苦痛の中でのたうち回るような気持ちで、後ろに飛んだ。女神がこちらを振り返り、彼女の背後に現れた女の髪を撫でた。ファリア。
「せっかくの好機を見過ごしましたね。この娘のために」
「おまえは……!」
「この娘ごと貫けば、わたしを滅ぼせたかもしれないというのに」
ナリアは、ファリアから離れると、セツナと距離を取るように動いた。すると、ファリアがオーロラストームを掲げ、セツナに狙いをつけた。その目は虚ろで、意志の有無を感じ取ることはできない。操られている。
「ファリア!」
叫ぶが、反応はオーロラストームの雷撃となって襲いかかってきた。強烈な雷光の奔流。右に飛び、交わしたところを別の気配が迫り来たのを認めて、彼は愕然とした。襲いかかってきたのは、“死神”たちだったのだ。闇の衣を纏う髑髏人形たち。それぞれ、黒き矛の眷属に酷似した武器を手にした“死神”たちは、レムの命じるままに動くはずだ。つまり、レムも操られている。ファリアとレムだけではない。エスクの虚空砲がセツナの横っ面を叩いた。メイルオブドーターの翅によって護られていたからよかったものの、そうでなければ吹き飛ばされていただろう。そこにさらに重力場がセツナを捕らえ、無数の刃片が殺到する。ウルクとシーラが飛びかかってくるのも見えた。
(人形遣いか……!)
セツナは、胸中で絶叫しながら、アーリウルを探した。アーリウルは、二百名の武装召喚師たちに囲まれ、艶然と、不均衡な笑みを浮かべている。統一帝国に属するはずの二百名は、だれひとりとして人形遣いを攻撃しないどころか、敵としてすら認識していないようだった。全員が、セツナをこそ、敵と定めている。ただひとり、サグマウだけが、人形遣いの支配に抗うことに成功している様子だった。マウアウの使徒だからだろう。そして彼は、轟然と人形遣いに殴りかからんとしたが、武装召喚師たちの凄まじいまでの反撃に遭い、後退った。
セツナと同じだ。
味方を攻撃できない。
セツナは、ファリアたちの猛攻に曝されながら、防戦一方にならざるを得なかった。完全武装状態。攻勢に出れば、全員を斃すことは容易い。だが、そんなことをすればどうなるか、わからないセツナではない。ただでは済むまい。そして、それで支配を脱却できるかといえば、そういうことでもないのだ。
彼女たちは皆、人形遣いによって操られているのだ。その支配を解くには、人形遣いを斃すか、彼女たちがみずからの意志で支配から脱却する以外にはない。マユリ神の力ですら、その支配を解くことはできなかった。ウルクは、胴体と頭部を切り離すことで支配から脱却した。それは彼女が魔晶人形だからこそできた芸当であり、人間にできることではない。人間が真似をすれば、死ぬだけだ。
ならば、と、ナリアへの直接攻撃を試みようとすれば、ファリアたちがナリアの周囲を固めていて、どうすることもできない。ナリアだけを攻撃する方法はないものかと思索する隙もない。ファリアたちはやはり、優秀な武装召喚師だ。斃すべき敵に対しては容赦なく、微塵の躊躇もない苛烈な攻撃を加えることが出来、それは一切の情けもなかった。
セツナは、メイルオブドーターの翅による防壁の中で、ナリアを睨み据えた。ナリアは、こちらを見て、微笑んでいる。冷ややかに、笑っている。長衣が揺らめき、内側の宇宙に光が瞬いた。
「ナリア!」
「なんでしょう? セツナ。わたしと交渉する気になりましたか?」
ナリアは、ファリアたちに護られたまま、悠然としていた。勝ち誇っている。勝利を確信している。それはそうだろう。現状、セツナに逆転の手はない。少なくとも、ナリアだけを攻撃する手段がない以上、どうすることもできない。ファリアたちの猛攻をかわし、捌き、受け止め、回避しながら機を探るが、そんなものが見いだせるほど甘い攻撃ではなかった。苛烈極まる攻撃には、一切の慈悲がない。躊躇がない。敵を滅ぼすと決めたとき、ファリアたちは鬼神の如き様相を見せる。かといって、ひとりひとりを気絶させて回ったところで、どうなるものでもあるまい。人形遣いは、肉体そのものを操っている可能性がある。人形遣いを討ち、支配を解く以外に現状を打開する方法はない。
しかし、その人形遣いはといえば、二百名の武装召喚師に護られているのだ。
「わたしと手を取り合い、百万世界の統率者になりますか?」
「それが……!」
セツナは、ソードケインの光刃と“死神”の刃、ラヴァーソウルの刃片を受け止めながら叫んだ。そこへ雷光の奔流が迫ってきたが、ロッドオブエンヴィーの“闇撫”で打ち払い、事なきを得る。だが、それでファリアたちの猛攻が止むはずもない。五体の“死神”による連携に加え、シーラ、ウルクが立て続けに飛びかかってくるのだ。いずれも、エリナのフォースフェザーによって強化されている。
セツナは、完全武装状態だ。彼女たちに負けるわけはない。が、勝てる相手でもない。倒せないのだから、勝てるはずもない。完全武装状態は、対神属決戦装備といっても過言ではない。神属以外の相手を攻撃するには、ひとつひとつの攻撃が強烈過ぎた。ファリアたちを攻撃した瞬間、セツナは、自分さえも失うことになりかねない。
ファリアたちを殺すことはおろか、攻撃することさえ、ありえないことだ。
それが、セツナなのだ。
「それがおまえの望みか!」
「神の望みとは、ひとの望み」
ナリアは、冷然と告げてくる。
「わたしは、遍く世界を統べるものとして生まれ落ちました。けれど、そのためには力が足りませんでした。もっと、信仰を集め、力を増していかなければならなかった。何万、何億という時の中で、それでも圧倒的に足りないことがわかりました。故に、ミエンディアの召喚に応じたのです」
ナリアの語りを聞きながら、セツナは、苛立ちを隠せなかった。黒き矛の怒りが自分のことのように感じる。どす黒く、形容しがたい怒りの奔流。魂を灼き焦がし、肉体の表層までも黒く染め上げるのではないかと想うほどの烈しく絶大な怒り。その怒りに身を任せれば、セツナはセツナでいられなくなるだろう。
黒き矛は、ファリアたちのことなど、知ったことではあるまい。
「ミエンディアの召喚に応じることで、異世界においても信仰を集めることができると踏んだのですが、それも甘い考えでした。いえ、信仰そのものを集めることはできましたし、力が増したのは紛れもない事実です。しかし、在るべき世界に帰る手段を失えば、元も子もない。そうでしょう? わたしは、在るべき世界をこそ、百万世界の頂点に立たせなければならないのですから」
ナリアの目がこちらを見つめていた。金色に輝く双眸。超然と、そこにある。
「そのためにセツナ。あなたの協力が必要です。魔王の杖の護持者たるあなたの助力が」
黒き矛の力さえあれば、なんでもできるとでもいわんばかりのナリアの発言に、セツナは、
「さあ、セツナ。わたしとともに来なさい。そうすれば、あなたの恋人たちも、お味方たちも、皆、幸福に生きられるでしょう。あなたとともに永遠に、長く」
「……断る」
セツナは、逡巡もなく断言した。
「そうですか。それは残念です」
そして、光が、満ちた。