第二千五百五話 神への挑戦(六)
「ハイン。知らないわけがありませんね? 始皇帝ハインのことですよ。ザイオン帝国の建国者にして、ザイオン皇家の始祖。マリシアやニーウェの祖先のことですよ」
突如として語り出したナリアに対し、セツナたちは、身動きひとつ取れずにいた。まず、ナリアが神の気、つまり神威を放出し、セツナたちを牽制しているということもあるが、なにより、ナリアとアーリウルに微塵の隙もないことが大きかった。わずかでも隙が見いだせれば、いまのセツナならばその隙を存分に生かし、決定的な一撃を叩き込むことも可能だ。だが、その隙がなければどうしようもない。
ナリアの昔語りを聞き続けるしかないのだ。
「愛しいハイン。彼は、人間であることに拘り続けました。わたしと邂逅を果たし、絶対的な力を得る機会を持ったというのに、彼は、なにも求めなかった。なにも望まず、ただ、わたしとの心の交流をこそ楽しみとしてくれた。そのような人間に逢うのは、顕現以来、初めてのこと」
周囲。
セツナ以外のだれもが、彼と似たような気持ちなのか、どうか。
少なくともファリアやミリュウたちは、同じはずだ。彼女たちも、大帝国の神を討つべく、ここにいる。しかし、統一帝国の武装召喚師たちやサグマウは、どうか。彼らは、帝国の歴史を紐解くように話す女神ナリアを前に、戦意を喪失しつつあるのではないか。なにより、マリシアハインは、彼ら帝国人にとって忠誠を誓うべき皇族であり、その姿を目の当たりにして戦意を保ち続けられるものだろうか。というのも、既に何名かが構えていた召喚武装を下げていたからだ。彼らは、戦意を失いつつある。
元々、戦力として当てにしてもいない、数だけが頼みの連中だったとはいえ、その数が少しでも減るというのは、厄介だ。
敵は、大神。
こちらは持ちうる限りの力を叩き込まなければ、勝てるものも勝てない。
「人間という生き物は、多かれ少なかれ、欲を持っている。子供であれ、大人であれ、男であれ、女であれ。そしてそれは、決して悪いことではありません。むしろ、欲のない人間など、存在しないといっていいでしょう。欲が、人間を突き動かす。人間の生命力の根源こそ、欲なのですから」
ナリアは、懐かしむように語り続ける。その語り口を聞いて、アーリウルだけがうっとりとしていた。セツナたちは、いつナリアが攻撃してくるかわからず、気が気ではない。かといって、こちらから攻撃を仕掛けるには、隙がなさ過ぎた。
「故に、わたしと邂逅した人間は、欲を曝け出す。わたしは神なのですから、当然でしょう。わたしが人間の願いや望みを叶えるかどうかは気まぐれですが……なんにせよ、ハインのような人間はいなかった。彼は、みずからの望みは、みずからの手で叶えるものだと考えていたのです。ですから、わたしになにも望まなかった。わたしになにも欲さなかった。それ故、わたしも彼を欲することができなかった――哀しいことに」
心の底から哀しげに語った女神だったが、それが、彼女の昔語りの終わりだったようだ。静かに頭を振り、顔を上げる。双眸からなにかがこぼれ落ちるのが見えた。涙だ。ナリアが泣いているというのか。だとすれば、どうして泣いているのか。気にはなったが、聞く気にもならなかった。相手は敵だ。どんな理由があれ、絆されている場合ではない。情けをかける相手でもない。
「ですが、セツナ。あなたのいうことももっともです。わたしのようにミエンディアに召喚された神々は、あのものとの契約に縛られ、この世界に留まらざるを得なくなってしまった。故に、あのものの復活を切望し、儀式を執り行った。まさか失敗するとは、あのとき、主導権を巡って相争ったいずれの神も想定していなかったでしょうが」
ナリアは、続ける。
次第に女神の発する神威がその力を増してきていることは、室内に渦巻く空気の音でわかる。莫大な量の神威。マユリ神の加護がなければ、白化症を発症するものが現れてもおかしくはないほどの密度。並大抵の相手ではないことは、その一事でもわかる。
「もう、過ぎたことです。聖皇の復活はならず、わたしたちは帰る術を失った。ならば、つぎの機会を待つしかない。何百年、何千年の先、いつか訪れるであろうミエンディアの復活の機会を待ち続けましょう――と、考えていたのは、つい先日までのこと」
ナリアが涙の跡が残る顔で、笑みを浮かべた。その神々しい笑みは、見るものの心を奪うだけの威力があったのだろう。何名もの武装召喚師が召喚武装を手放し、その場に膝をついた。マユリ神の加護を持ってしても防ぎきれないなにかが、武装召喚師たちの心を捕らえたのだ。幸い、セツナ一行からはだれひとり脱落者はでなかったものの、セツナですら、魂の震えを感じるほどに強烈な波動が突き抜けていた。
「あなたが、魔王の杖の護持者として成長した姿を見せてくれた。これほどの好機はありません。そうでしょう? あなたは、いまやこの世に並ぶものなき力を得たのです。いまはまだ不完全でも、いずれはその力を使いこなせるでしょう。そうなれば、あなたの敵はいない」
「……なるほど、あんたは俺を支配して、黒き矛の力をも支配するつもりだったんだな」
もちろんそれは、ウルクを用いてセツナを確保しようとしていたことからもある程度は想像がついていたことではあったが、ナリアの言動から確信を持てた。
「だったら残念なお知らせだ。黒き矛は、あんたの存在を認めない」
「そうでしょう。しかし、あなたが認めれば、どうです?」
「なんだと?」
「あなたはマユリ・マユラなる異邦の神と行動をともにしている。マリクなる漂流神とも協力関係を結んでいる。それは、とりもなおさず、あなたがその神を認めているから。そうでしょう? 違いますか?」
「だったらどうだってんだ」
セツナは、黒き矛から流れ込んでくるどす黒い意思の奔流を受け止めて、口の端を歪めた。もはや、黙って聞いている必要はない。すべては決した。結論は出た。交渉は決裂した。いや、端から交渉の余地などはなかったのだ。ナリアの目的は、旧帝国領土の掌握であり、そのためならばどのような手段、方法も辞さないだろうことは明らかだった。それに加えて、セツナと黒き矛の確保が追加されているようだが、それはいい。いずれにせよ、相容れぬ敵だったということが改めて判明したということだ。
それがわかっていればいい。
「マリクは俺たちの味方だし、リョハンの守護神だ。そしてマユリ様は、俺たちの希望そのもの。だから、黒き矛がなんといおうと知ったことじゃねえ」
いっておくと、黒き矛は、マユリ神もマリク神も、マウアウ神、ラジャム神の存在も許しているわけではない。黒き矛は、どのような神であれ、存在を容認しないようなのだ。すべての神、神属と呼ばれるすべてのものが滅ぼすべき対象として認識しているのであり、セツナにそれを強要しようとする向きがある。つまり、マユリ神の前で黒き矛を召喚するというのは、極めて危険な行為であり、完全武装状態になったときも、マユリ神に襲いかからないよう制御するのが大変だった。神への敵意は限りないものであり、なぜ、黒き矛が魔王の杖と呼ばれるのか、理解できるというものだろう。
つまり、マユリ神やマリク神を滅ぼさないのは、黒き矛の意思などではなく、セツナの意思だということだ。
それを、ナリアは微苦笑でもって受け止めた。
「神に対し、生殺与奪の権利を得ているとでもいうおつもりですか?」
「そんなことはいってねえよ。敵なら斃す。そうじゃなかったら、話し合いにだって応じる。ただそれだけのことだ」
「ならば、わたしと話し合いましょう。わたしに協力してください。わたしとあなたで力を合わせ、この世に、この百万世界に真の秩序をもたらそうではありませんか」
「お断りだ」
セツナは、断固拒否した。
「あんたがウルクを利用した。その時点で交渉の余地はねえのさ」
「そうですか。それは残念です」
「勝手に残念がってろ」
「ええ。本当に」
ナリアは、心底嘆かわしそうに告げてきた。
それが彼女の、女神の本心なのかどうかなど、セツナには、関係がなかった。
ナリアのそれは、隙だったからだ。