第二千五百三話 神への挑戦(四)
「アーリウル」
女帝の声は、極めて穏やかで、美しく、透き通っていた。
小さな声だというのによく通り、よく聞こえた。威厳はあるが、圧力は感じなかった。しかし、アーリウルの双眸が金色に輝いているという事実は、彼女が神となんらかの関わりを持っているということを示している。彼女の名は、マリシアハイン・レイグナス=ザイオン。闇の中に浮かぶその容姿は、セツナの記憶に刻まれたマリシア=ザイオンの姿とそう大きく変わらない。それはそうだろう。ニーウェが記憶していたマリシア=ザイオンの姿は、いまより数年前のものだが、二十代を目前に控えていた美しい女性だった。そのまま、数年の時を経て、成長した姿、といったらいいだろうか。
帝国人らしい黒髪を腰よりも長く伸ばしているようだが、垂らしているのは一部だけであり、大部分の頭髪は後ろに束ね、纏めているように見える。容貌は端正に整っていて、端的に言えば美人だ。やや目尻の下がっている分、ほかの皇族よりも優しく、柔らかな印象を受ける。微笑んでいるというのもあるのだろうが。頭上には精緻な細工も美しい金の王冠を戴き、金糸がふんだんに使われた黒地の長衣を身につけていた。まさに皇帝というに相応しい装束ではあった。
いまより昔、皇族に忌み嫌われたニーウェやニーナに対しても分け隔てなく接した慈愛に満ちた女神の如き皇女は、ニーウェにとってもイリシアと同じく特別な人物だった。ほかの兄姉はともかく、イリシアとマリシアの無事だけは確認し、できるのであればなによりも優先して救いたいと考えていたほどにだ。
彼女がニーウェに与えた影響というのは大きい。
ニーウェが帝国に絶望しなかったのは、ニーナだけでなく、イリシアやマリシアのように手を差し伸べてくれるひとがほかにいたからだ。もし、皇族の全員がふたりの敵となり、帝国社会がニーウェたちを排除しようとしていたのなら、彼はきっと、帝国そのものに絶望していただろう。そうなれば、シウェルハインに正当後継者と任命されたとしても、なんの感慨もなかったのではないか。“大破壊”後、ミズガリスのような独裁者に成り果てたのではないか。
そういう可能性を想像した場合、マリシア、イリシアの存在というのは、帝国の現状に極めて大きな影響を与えているといっても過言ではなかった。
もっとも――。
「せっかくいらしたお客人に失礼ですよ。まずは、挨拶から入るべきではありませんか?」
「陛下。失礼致しました。しかし、礼を失しているのは、お客人が先かと……」
「それはそうでしょう」
マリシアハインは、悠然と微笑み、アーリウルを一瞥する。
「方々は、わたくしを弑するためにここに現れたのですから、無礼は百も承知。ですが、こちらまで礼儀を忘れ、方々と同じ領域に堕ちる必要はありませんよ」
「なるほど――それは確かにその通りですね」
アーリウルが肩で笑った。そして、こちらに視線を戻す。
「わたしは人形遣いアーリウル。ご覧の通り、南ザイオン大帝国皇帝マリシアハイン陛下に付き従うものです。神をも恐れぬ皆様方には、どうぞ、お見知りおきのほどを」
アーリウルは、礼儀にかなった挙措動作で深々とお辞儀をしてきた。さすがに長年ガンディアの王宮で働いていただけあって、その仕草のひとつひとつが完璧といってよかった。ただ、その慇懃無礼としかいいようのない口調だけは、礼を失しているといえるだろうが。
そんなことは、どうでもいい。
「……それで良いのです。アーリウル。いつ何時も、礼儀を忘れてはなりませんよ。礼儀とは、相手のために行うものではありません。みずからの心を律するためにあるのです。礼儀は、ひとが獣ではないことの証。礼儀を忘れたとき、ひとは野蛮に堕ちる。方々のように」
マリシアハインは、アーリウルの対応に満足げな笑みを浮かべた。その笑顔ひとつとっても人間離れした美しさがあり、気品があり、魅入られそうになる。それがマリシア本来の持ち味なのかどうかは不明だ。神とは無縁の才能かもしれないし、神の加護による力なのかもしれない。いずれにせよ、警戒しなければならないのは間違いない。
すると、ミリュウが動いた。
「それも随分と失礼な言い方だと想うけど?」
「そうね。野蛮にも統一帝国領に侵攻してきたのは、どちらかしら」
「まったくだぜ、言いたい放題言いやがって。こちとら頭にきてるんだよ」
「そうです。よくもウルクを……!」
「わたしを支配し、操り、セツナと戦わせたこと、忘れたとはいわせません」
「そうです!」
口々に意見を叩きつけた女性陣だったが、マリシアハインもアーリウルも表情ひとつ変えなかった。繭ひとつ、睫一本動かさない。吹き抜ける風のただ中にいる以上の穏やかさで、こちらを見ている。聞こえていないわけがない。ただ、なにひとつ彼女たちの心に響いていないのだろう。そのことがファリアたちの感情を昂ぶらせることもわかりきった上での反応に違いなく、セツナは、皆が怒りに燃える中、極めて冷静に状況を見ていた。
怒るのもわかる。
セツナ自身、許せないという想いが強い。
アーリアとウルの変わり果てた姿を見て、喜べるわけもない。むしろ、大帝国の神への疑問が湧いた。同時に確信も生まれる。
大帝国の神は、ナリアだ。
二大神の一柱たる女神ナリアが、大帝国の真の支配者なのだ。
アーリアとウルは、最終戦争時、帝国の侵攻を食い止めるべく、皇帝暗殺に赴いた。その後、消息を絶ったことから暗殺が失敗に終わり、そのまま殺されたものと想われていた。しかし、実際にはどうだ。アーリアとウルは、暗殺に失敗したものの、生きてはいたのだ。帝国の神によって、生かされていた。帝国の神とはつまるところ、大神ナリアだ。
セツナが冷静さを失わなかったのは、彼の思考がそこに行き着いたからにほかならない。敵の正体が明らかになり、それが想像していた中で最悪の答えだった場合、冷静にならざるを得まい。全神経を集中させ、アーリウルとマリシアハインの行動を凝視する。少しでも不穏な動きを見せた場合、有無を言わさず攻撃するという覚悟がセツナの中に漲っていた。
マリシアハインは、それを知ってか知らずか、静かに口を開いた。
「わたくしは、マリシアハイン・レイグナス=ザイオン。御存知のことと想いますが、こう見えても、南ザイオン大帝国の皇帝として、北ザイオン大陸を統治しているものです。そして、父上がかつて治めていた帝国領土のすべてを取り戻し、再びザイオン帝国としてやり直すことがわたくしの悲願」
「悲願……か」
セツナは、マリシアハインの金色に輝く目を見据えた。彼女が先帝に言及するのが、いかにも馬鹿馬鹿しくてやってられなかった。そこにマリシアハインはいまい。マリシアハインの意思など、あろうはずもない。少なくとも、ニーウェの記憶の中のマリシア=ザイオンならば、そのような偽善に満ちた言葉を吐くはずもなかった。だからこそ、ニーウェもニーナもマリシアを家族として受け入れることができたのだ。
だが、しかし、いま、マリシアハインが紡いだ言葉の数々は、偽りに満ちていた。
「あなたのお父上が正当なる後継者に任命したのはニーウェだったはずだ。皇帝の勅を無視し、勝手に皇帝を名乗ることほどの無礼もないだろう」
「……なるほど。そういう考え方も、ありますね」
「ほかにどんな考え方があるってんだ?」
「そうよ。いってること、めちゃくちゃじゃない」
シーラとミリュウが憤然と言い返せば、マリシアハインは面白そうに口の端を歪めた。
「初代皇帝ハインは、偉大なる女神ナリアに祝福され、皇帝を名乗りました。女神ナリアに祝福されたわたくしが皇帝を名乗ることになんの不思議があるのでしょう? なんの問題があるというのですか?」
「女神ナリア……!」
「やはりそうか」
セツナは、黒き矛の柄を強く握り締めた。
「あなたは、女神ナリアの……!」
「そう、わたくしは女神ナリアの依り代」
彼女がそういった瞬間だった。
「セツナ=カミヤ。よくぞ来てくれましたね。わたしの元へ」
凄まじい圧力とともに皇帝の長衣が揺らめいた。
金糸に彩られた漆黒の長衣、その内側を覗き見るのは、さながら銀河の深淵を覗き見るのと同じだと想った。
星々が、瞬いていた。