第二千五百二話 神への挑戦(三)
空間転移は、一瞬だった。
一瞬にして、セツナの意識は断絶され、一瞬にして、復活した。空間転移特有の違和感からの解放は、空間転移の成功を示しており、その瞬間、セツナは、敵を捕捉していた。
敵は、眼前――。
マユリ神の加護によってラミューリン=ヴィノセアの戦神盤は、いつになく力を得、海上移動城塞の隅から隅に至るまでの情報を得ることに成功した。それにより、海上移動城塞の八方の塔に異常なまでに強大な力が存在することがわかったものの、それが対空砲の力の源だということがわかっている以上、そこに戦力を割く必要はないと断定された。そもそも、割ける戦力がない。二百人の武装召喚師を各塔に分散しても良かったが、それよりもまずは、最大最強の敵を真っ先に斃すべきだと結論づけられた。
南ザイオン大帝国の支配者たる神を討てば、大帝国は瓦解する。
少なくとも、南ザイオン大陸への侵攻を阻止することはできるだろうし、統一帝国は存亡の危機から解放されるに違いない。それだけは確実だ。神が倒れたあとの大帝国のことなど、考えている場合ではない。緊急事態なのだ。放っておけば、どうなるものかわかったものではない。
一時は総力戦にすべてを賭けるつもりだったセツナだが、考えを改めていた。いま討てるのならば、いますぐにでも討つべきだ。余計な損害を出さずに済むのであれば、それに越したことはない。多少の負傷など、気にするものか、と、彼は想った。
そして、戦神盤が捉えた海上移動城塞上層部の極大光点に向かって、セツナたちは、一斉に転送された。
セツナ、ファリア、ミリュウ、レム、シーラ、エリナ、エスク、ウルク、ダルクスの九名だけではない。甲板上で戦闘を繰り広げていた二百名の武装召喚師も、海上移動城塞に接近中だったサグマウも、全員、一斉に転送された。
決戦の場所へ。
マユリ神以上の力を誇る大帝国の神を倒すというのだ。
万全を期し、全戦力を結集しなければ、嘘だろう。
「あらあら――なんの許しも得ず皇帝陛下の御前に土足で踏み込むだなんて――これまた大勢で――野蛮にもほどがあるんじゃないかしら」
真っ先に聞こえてきたのは、セツナには聞き覚えのある声だった。二通りの声音。
暗黒の宇宙のような暗闇の中、極めて強大な圧力が前方から感じられる。底冷えするほどに冷たく、内臓をかき回したくなるほどに痛烈な気配。それが、帝国の神の気――つまり、神威なのだろうということは想像がついたものの、聞こえてきた声は、皇帝の声などではなかった。皇帝マリシアハイン・レイグナス=ザイオンとはつまり、マリシア=ザイオンのことであり、ニーウェハインの記憶上のマリシアの声というのは、もっと柔らかく、常に話し相手のことを気遣うものだった。
これほどまでに冷ややかで、嘲笑と侮蔑を含んだものではない。
そして、その二通りの声音は、セツナの記憶を呼び起こすものだ。
その部屋の全体像は、暗闇に包まれており、目で見る限りはわからない。しかし、完全武装状態のセツナには、なにもかもが手に取るように把握できていた。そこは、ラミューリンが把握したとおり、海上移動城塞の上層部だ。城塞の天守閣に当たる建物の最上層に位置するのだろう。広い部屋だ。円筒状の壁に円錐の天井と、全体的に円形となっている。その中心近くに声の主が立っていて、その背後の玉座に皇帝マリシアハインが座しているようだ。女の言葉を鵜呑みにするならば、の話だが。
大帝国の神の所在地こそ、戦神盤によって明らかになり、セツナたちもその場に転送されたものの、それが皇帝の座所であり、皇帝が神の化身の如き存在であるという確証はないのだ。
とはいえ、セツナは、ファリアたちもまた、動揺しているらしいことに気づき、目を細めた。前方、暗闇に慣れてきた目が、玉座に腰を下ろした女帝とその腹心と思しき人物を認識し始める。
「英雄殿は、ガンディアではそういう風に教育されたのかしら――さあ?」
「人形遣いアーリウルです。気をつけてください」
ウルクの冷静な警告がセツナのみならず、その場にいた全員の気を引き締める。セツナも、全神経を集中させて、人形遣いと女帝の動向に注意を払っていた。動けば、斬る。そんな覚悟と決意があった。だが、それでも、と、想わずにはいられない。
「ああ、わかってる。わかってるんだ」
「なにをわかったのかしら――なにもわかっていないものがわかった風な口を利くものではなくてよ」
「その声は……」
セツナは、闇の中に浮かびあがった人形遣いの容貌に目を逸らしたくなった。だが、逸らすわけにはいかない。人形遣いの一挙手一投足から注意を逸らすということは、それこそ、致命的な失態となるだろう。人形遣いは、ウルクを支配し、使役する力の持ち主だ。セツナたちはそれが神から与えられた力だとばかり想っていた。だが、どうやらその支配の力は、神から譲り受けたものではないということが明らかとなり、セツナは、歯噛みした。様々な感情が胸中を激しく揺さぶる。なんといえばいいのかわからない。苦しいだとか辛いだとか、そんな言葉では言い表せない感情があった。
「アーリアさんとウルさん……だろ」
「うふふ――よく覚えていてくださいましたね――ほとんど話したこともないというのに――さすがはガンディア一の女誑しというべきかしら」
人形遣いは、深く被っていた闇色の頭巾を脱ぎ、セツナの目にはっきりとわかるように素顔を曝した。闇の中であれ、ファリアたちにもはっきりと見えただろう。
長く艶やかな黒髪に美人といって遜色ない容貌の中で、特徴的なのは灰色の虹彩だろう。アーリア、イリス、ウルの三姉妹は、全員、灰色の虹彩だった。外法を施術された影響らしい。ただ、いまの彼女の容貌は、奇妙だった。不均衡なのだ。目、鼻、口、眉、頬、顎――顔を構成するあらゆる部位から違和感を覚えた。右目と左目の形が微妙に違うし、眉も変だ。上唇と下唇でもなにかがおかしい。あらゆる部分が不協和音を奏でている。
まるで、アーリアとウル、ふたりの顔をでたらめにひとつにしたような、そんな印象があった。
そして、神の力を持ってすればそのくらい造作もないのではないか、と、想い至ったとき、セツナの脳裏に閃くものがあった。
アーリアとウル、ふたりの運命について。
「あなたは……シウェルハイン帝暗殺に失敗し、殺されたわけではなかったんだな」
「ええ――慈悲深き我らが主がわたしたちの命を繋ぎ止めてくださったのよ――まあ、こんな無様な姿に成り果てたけれど――悪くはないわ――満たされているものね、姉様――そうね、ウル」
アーリアとウル、ふたり分の声が、ひとりの口から発せられるのは、異様であり、異常だった。そしてそんなことを平然としてのける神が慈悲深いというのは、彼女たちなりの皮肉なのかと想ったが、そうではないのかもしれないとも想った。なぜならば人形遣いアーリウルの不均衡な表情は、まんざらでもないと笑っていたからだ。それが本心なのかどうかはわからない。だが、彼女たちが現状に満足感を覚えているように見えたのだ。
その満ち足りた笑みがセツナの心をざわつかせる。
アーリアとウルもまた、知人ではあった。ほとんど言葉を交わすこともなかったが、ガンディアのため、レオンガンドのために戦った同胞だったのだ。その衝撃たるや、リグフォードの比ではない。
「そんな……嘘でしょ……!?」
「そんなことが……」
「どうして……」
皆がそれぞれに衝撃を受ける中、セツナは、アーリウルの背後で女帝が玉座から立ち上がるのを認め、緊張を覚えた。
アーリウルの台詞から、彼女が神の加護を受けた存在であり、使徒に等しいものであるということはわかったが、神の化身や依り代ではないこともまた、確定した。彼女は、主が命を繋ぎ止めてくれたといった。それはつまり、神の力によってある種の復活を遂げたということであり、リグフォードと同じと見ていいだろう。それになにより、女帝が立ち上がった瞬間、アーリウルがセツナを冷ややかに笑ったのだ。それはつまり、女帝こそが彼女の主だということではないか。
そしてそのセツナの推測が正しかったことがすぐに明らかとなる。
マリシアハインがそれまで閉じていた瞼を開いた瞬間、金色の光が闇を貫いたからだ。