第二百四十九話 勝ち負けよりも
ルウファは、背中のみならず、全身で疼く痛みの激しさに顔をしかめた。血も流しすぎている。意識を保てているのが不思議なほどだった。きっと、落下死を免れたいという一心だったのだ。
(必死だな)
自嘲しながら、彼は、地上に舞い降りることに成功した。着地の瞬間、ふらつき、前のめりに倒れかけたが、なんとか堪える。満身創痍という有り様でシルフィードフェザーを制御しきることができたのは驚くべき成果かもしれない。瀕死、というほどではないにせよ、重傷だった。意識は朦朧としかけていたし、いつ制御を失い、地上に落下してもおかしくはなかったのだ。
遙か上空まで飛翔していた。落下すれば、死んでいたのは間違いない。
ルウファは、安堵の息を吐くと、シルフィードフェザーをマントに戻した。純白のマントを全身に纏い付かせ、不安定な肉体の支えとする。痛みは薄れもしないが、傷口を擬似的にでも塞ぐことができる。血の流出は既に止まっていたが、開いた傷口をそのままにしておくのも問題だろう。部隊と合流して手当を受けるのが一番だが。
視線を巡らせる。
星空の下、闇が深く感じられた。視野が狭いのだ。血を流しすぎたからだろうか。足取りも重いが、こちらはシルフィードフェザーの補助によってなんとでもなった。ゆっくりと、周囲の地面を見て回る。
見渡す限りの草原。目的のものを見つけるには時間がかかるかもしれない。と思ったが、すぐに見つかった。
ザイン=ヴリディアと名乗った武装召喚師の末路だ。無残な亡骸だった。いや、亡骸といっていいものかどうか。
超上空から落とされたのだ。肉体は原型をほとんど失うほどにばらばらになっていた。どれほどの衝撃が加わったのか、ルウファには想像もつかない。痛みはあったのだろうか。そんなことを考える。激痛の中で死んだのか、それとも痛みを認識する前に死んだのか。後者ならば、まだ救いがあった。
(……救いなんてないな)
胸中で己の愚かな考えを否定すると、ルウファは、さらに周囲を捜索した。ザインの手には魔竜公という召喚武装が装着されていたはずで、彼が送還もせずに死んでしまったのなら、回収しておかなくてはならない。戦闘が終わってから探してもいいのだろうが、いま捜索している方がいいだろう。もし発見できれば、すぐに使うこともできる。
「さすがにない……か」
ザインの両腕は発見できたが、肝心の黒い篭手はついていなかった。彼が落下中に送還したに違いない。悪用されることを恐れたのか、死に逝くものに不要だと判断したのか。どちらにせよ、魔竜公が見つからなかったことにほっとする自分に気づき、ルウファは苦笑した。
彼の召喚武装を使いたいとは想っていなかったし、ザイン以外の他人に使われるのも変な感じがあった。ザインとの戦いを記憶の中に閉じ込めておきたいからかもしれない。
死闘だった。
ルウファは、全身全霊でザインに立ち向かい、なんとか、ぎりぎりのところで勝利を掴み取ることができたのだ。彼を拘束し、空に上がったときですら、勝利は確定していなかった。ザインがどうにかしてルウファに致命傷を負わせることができていれば、状況は大きく変わったのだ。ザインが生き残り、ルウファが戦死したかもしれない。
薄氷の勝利を噛み締めて、ルウファはザインの亡骸に敬礼した。戦場に戻らなければならない。わずかに喚声が聞こえている。戦闘はまだ続いているのだ。加勢しなければならない。加勢し、ドルカ隊の勝利を決定的なものにしなければならないのだ。
ルウファは、いまにも崩れ落ちそうな意識をなんとか繋ぎ止めながら、再び、翼を開いた。歩いて向かうより、低空飛行でも飛んでいったほうが早いに決まっている。
ファリアは、呆然と、虚空を見ていた。
クルード=ファブルネイアとの戦闘は、痛み分けに終わった。勝敗は確定しておらず、敵に逃げられてしまった。ファリアに決定的な力があれば、クルードに止めを刺すこともできたのだろうが、それはかなわなかった。
オーロラストームの雷撃は、クルードには届かない。彼の光竜僧の能力は、彼女の攻撃のすべてを無力化した。光化すれば、なにもかもが擦り抜けてしまう。敵を油断させ、隙を衝く以外の方法で彼に痛撃を加える事はできなかった。
呼吸をするたびに痛みが走る。全身、ぼろぼろだった。高圧の電流を浴びたのだ。髪も服も焦げてしまった。眼鏡は台無しになったし、太腿の傷口もより酷いことになってしまったようだ。クルードを出し抜くためだ。仕方がなかった。
戦いなのだ。
互いの生死を賭した戦闘なのだ。
これくらいの傷で泣き言などいってはいられなかった。生き残ったのだ。それだけで十分ではないか。生き延びることができた。明日があり、未来がある。全身の傷を癒やす時間があるということだ。髪はまた伸びる。綺麗に整える時間だってある。なにも嘆く必要はない。
彼女は嘆息すると、オーロラストームに視線を落とした。怪鳥の翼から、結晶体が剥がれ落ちてしまっている。オーロラストームという異形の弓は、怪鳥の頭部を模した本体から翼が生えているような形状である。翼は無数の結晶体からなり、その結晶体が共鳴することで雷が発生する仕組みらしい。ファリア自身、完全に把握しているわけではないのだが。
オーロラストーム本体から結晶体が剥がれ落ちても、機能が失われるわけではない。本体と連携したままであり、召喚者の意志ひとつで雷光を発生させるのも変わらない。ただし、一定以上の距離を離れると、本体に電力を供給することができなくなるため、オーロラストームの雷撃の威力も低下する。
また、結晶体を繋ぐのは雷の帯であり、召喚者が強力な雷撃を発生させようとするほど、結晶体の間を強烈な電流が流れることになるのだ。
ファリアがクルードを出し抜けたのは、その特性のおかげだった。彼は、オーロラストームから結晶体が外れたのを見て、破壊できたのだと思い込んだに違いない。召喚武装は強力な兵器だが、取り扱いには細心の注意が必要だ。ちょっとした損傷が思わぬ誤作動に繋がる。
そういう武装召喚術の常識から考えると、オーロラストームの結晶体は規格外なのかもしれない。ちょっとやそっとのことでは傷ひとつつかず、剥がれ落ちたとしても機能し続ける、電力発生装置。武装召喚術に精通する人間ほど、引っかかりやすい罠だったといえるだろう。武装召喚師ならば皆、クルードと同じように思ったはずだ。
オーロラストームはもはや万全ではない、と。
クルードは勝利を確信し、油断した。攻撃の回避を光化に頼り過ぎていたのも、慢心に繋がったのかもしれない。彼は、ファリアが敗北を認めたのだと勘違いしたようだった。
もっとも、ファリアとしては、あの方法でクルードを出し抜けるかどうかは半信半疑だった。だが、ほかに方法はない。あらゆる攻撃は光化で避けられ、意味をなさなかった。雷撃の連射も、極大の雷光も、雷の雨も、彼には触れることさえできなかった。
そういう意味で、光竜僧は無敵の槍といってもいいだろう。クオン=カミヤのシールドオブメサイアに匹敵する召喚武装というのはいいすぎだろうか。シールドオブメサイアは無敵の盾であり、自分のみならず、周囲の人間も守護する能力を持つ。まさに黒き矛の正極に位置する召喚武装といってもいい。光竜僧は、自分自身しか守れないようだが、攻撃手段も持っているのだ。カオスブリンガーとシールドオブメサイアのいいとこ取りとでもいうべきか。
もっとも、光竜僧の攻撃力は、黒き矛と比べるとたいしたことはない。黒き矛ならば、オーロラストームくらい簡単に破壊できそうだ。しかし、光竜僧の光弾では、結晶体を本体から引き剥がすだけが精一杯らしい。本体には傷ひとつついていなかった。
それでも、オーロラストームが破損したように見えるのは、結晶体もまた、オーロラストームには違いないからだ。
その結果、クルードはファリアがもはや敵ではないと判断した。ファリアもそう思わせるように振る舞いはした。結晶体が剥がされたときに愕然としてみせたのもそれだ。とにかく、クルードの油断を誘わなければならなかった。彼が光化を忘れる瞬間を作り出さなければ、勝ち目などあるはずがない。
そして、クルードはファリアに近づいてきた。ファリアは、彼が遠距離から攻撃してこなかったことで、ある種の確信を得た。彼は慢心している。用心に用心を重ねるのなら、彼は、離れたまま攻撃してくるべきだったのだ。光竜僧には光弾を放つという、遠距離からいたぶるには打ってつけの能力があった。彼はそれを失念していたわけではあるまい。単純に油断していただけだ。それが、ファリアの勝機となった。
彼が槍を突き刺してきたとき、彼女は避けようともしなかった。貫かれてもいいとさえ思った。彼の意識を一瞬でも光化から逸らすことだけを考えていたのだ。
クルードの槍が腹に刺さった瞬間、オーロラストームの全発電能力を解放した。周囲に散らばった結晶体が一斉に電流で繋がり、まるで電熱の嵐となってファリアとクルードを灼いた。凄まじい痛みの中で、ファリアは腰に隠し持っていた短剣を抜き、絶叫を上げるクルードの腹に突き刺した。手応えがあった。彼が光化し、電流の嵐を逃れたのは、そのあとのことだ。致命的な一撃になったはずだが、勝利の確証はなかった。
だが、クルードはあっさりと敗北を認めた。ファリアの健闘を称え、ミリュウという女性の元へと消え去った。
その場にひとり残されたファリアが茫然とするのも無理はなかったのだ。クルードの後を追うことはできない。馬もなければ、足を引きずって走ったところで追いつくはずもない。それに、クルードは、東の森へ向かったようなのだ。東の森には、セツナがいる。彼は勝てたはずだ。たとえどんな相手であれ、彼は勝つ。そう信じて、待つしかない。
そこへクルードが現れても、セツナなら倒すだろう。クルードは瀕死の重傷なのだ。負ける要素はない。戦場のセツナは、敵に容赦などくれてやらないのだ。戦場に踊る死神のようなものだ。黒き矛は死神の鎌であり、見たものは死ぬしかない――はずだが。
ファリアが胸騒ぎを覚えたのは、セツナが、クルードの感情に押されることもあるのではないか、ということだった。彼は感受性の豊かな少年で、人一倍考えこむ性格だった。
黒き矛を手にしている限り、迷いはしないと想いたいのだが。
ファリアは頭を振って思索を打ち切ると、オーロラストームを送還した。オーロラストーム本体と周囲に散らばった結晶体が、眩い光の粒子となって消えていく。全身の痛みが倍加したような感覚に襲われ、悲鳴を上げかける。痛みは、いまのいままで、召喚武装の副作用とでもいうべき身体強化が抑えてくれていたのだ。それがなくなって、全身の神経がかき乱されるような痛みとなった。ファリアは唇を噛むと、戦場に戻るために一歩、進んだ。それだけで気を失いそうになるが、呪文を口ずさむことで欺瞞する。
オーロラストームを送還したのは、結晶体が剥がれたままでは戦闘に支障が出るからだ。ここで敵を待ち受けるのならまだしも、戦場はここではないのだ。地面に散らばった結晶体を拾い集め、持ち運ぶには多すぎる数ということもある。送還し、数日も立てば、元に戻っているだろう。時間をかければ自分で付け直すこともできなくはないのだが、そんな時間はなかった。
呪文の詠唱を始めたのは、別の召喚武装を召喚するつもりだったからだ。痛みを抑え、戦闘に耐えうる状態を作るにはそれしか方法がない。
ファリアは、ふらふらとした足取りで戦場に向かいながら、呪文を唱えていた。