第二千四百九十七話 皇帝は想う
ニーウェハインは、ディヴノアに向かう召喚車の中で渋い顔をしていた。
九月二十日。
ノアブールに結集していた統一帝国軍将兵五万名は、ほとんどすべてが本陣となるディヴノアへ向かった移動している最中だ。統一帝国軍の総兵力はおよそ八十万。つまり、残すところ七十五万ほどが現在、この北西部沿岸地帯とでもいうべき地域に結集中であり、そのうちの一部はすでにディヴノアなどに到着している頃合いだった。ただ、全軍の到着にはまだ時間が必要であり、そのための時間稼ぎをセツナ一行に一任しているといっても過言ではなかった。統一帝国軍からも二百名の武装召喚師を提供したとはいえ、セツナたちに頼り切りであるという事実は拭いきれない。
「どう……されました?」
おずおずと、ニーウェハインに尋ねてきたのは、シャルロット=モルガーナだ。
皇帝専用とでもいうべき特別仕様の召喚車には、皇帝とその側近および統一帝国首脳陣と近衛騎士団のみが乗り込んでおり、彼のいる車両には、彼と三武卿だけがその広い車両を専有している。大総督ニーナの姿はない。彼女は、一足先にディヴノアに入り、皇帝の到着に際し、不手際がないように手配するということでだれよりも先にディヴノアへ向かっていた。大総督がするような仕事ではないという周囲の声にも耳を貸さなかったのには、苦笑しか漏れないが、致し方のないことだ。ニーウェハインに関することならば、だれの手を患わせることなく自分の手でなんとかしたいというニーナの性分なのだ。
故に皇帝専用車両には、彼と三武卿の四名だけが寛いでいて、ニーウェハインは後部の広々とした座席に腰を下ろし、車窓の外を流れる荒涼とした景色を眺めていたのだ。そんなとき、不意にシャルロットが話しかけてきたものだから、彼は素直に驚き、彼女を見上げた。無論、彼は皇帝の仮面を被っている。頭部を冒す白化症は、現在、マユリ神の加護もあって落ち着いているとはいえ、だれかに見せられるようなものではない。皇帝が白化症を患っているとなれば、不安を煽るだけであり、統一帝国の秩序を乱しかねない。ただでさえ、乱れかけている。
南ザイオン大帝国の本格的な侵攻は、南ザイオン大陸そのものの安寧と平穏を掻き乱し、いまにも成立しようとしていた秩序に大いなる混乱をもたらそうとしていた。秩序の維持と、ひとびとの心の平穏の拠り所たる統一帝国軍の全戦力を動員しなければならなくなってしまったのだ。たとえ、北大陸からの侵攻という事実を隠したところで、ひとびとはなにかを察し、不安を抱き、心配するに違いない。統一帝国政府は大丈夫なのか、と、日々、不安に駆られているのではないか。
だが、こればかりは、どうしようもない。
総勢百万を超える兵力を有し、そのすべてを南大陸侵攻に投入するという大帝国軍に対抗するには、セツナたちに頼るだけではいけないのだ。
いや、実際には、セツナたちに頼り切りなのだが、それ以外の部分では、自分たちでなんとかしなければならない。
セツナたちだけではどうにもならない部分もある、ということだ。
「少し……考え事をしていた」
窓の外。
セツナたちのいう“大破壊”以来、変わり果てた世界は、どこもそう変わらない風景だという。変わり果てた世界。そう、世界は、“大破壊”によって蹂躙され、切り裂かれ、ばらばらになった。大地は動き、大海原がすべてを隔絶した。帝国領土は北と南、ふたつの大陸となり、ふたつの大陸にそれぞれふたつの帝国が誕生したのもいまや昔の話だ。
天地が荒れ果て、自然環境そのものが狂いに狂ったのもまた、“大破壊”のせいだという。“大破壊”が聖皇復活の儀式の失敗によって引き起こされたものであり、聖皇復活の儀式に注ぎ込まれた力と儀式によって召喚されようとした力の暴走が世界をでたらめに破壊したというのだ。それによって、世界の法理さえも乱され、なにもかもが狂ってしまった。
窓の外は荒れ果てた大地が横たわり、かつての帝国領土の美しい光景は見る影もない。
「考え事?」
ミーティア・アルマァル=ラナシエラがぴょこんと前の座席の背もたれから顔を覗かせてきた。シャルロットは、ニーウェハインの隣の席に座っているのだが、彼の隣の席は、三武卿の交代制となっている。シャルロットもミーティアも、ランスロット=ガーランドも、ニーウェハインの隣に座りたいからだ。そういうとき、三人は、遙か昔の取り決め通り、交代制にする。そうすれば、口論に発展することさえないからだ。
「セツナ殿、のことですね?」
「……ああ」
シャルロットの言葉にうなずくと、隣の列の座席に寝転んでいたランスロットが上体を起こした。
「なーる。セツナ殿になんでもかんでも任せすぎなのではないか、と、考えておられる」
「まあ、なんでもかんでも自分でしたがる陛下にしてみれば、そうなるのも無理はないよねえ」
うんうんとうなずくミーティアを一瞥して、彼は肩を竦めた。
「そういう問題じゃあないよ」
「じゃあ、どういう問題?」
問われて、ニーウェハインは、虚空に視線を彷徨わせた。言葉を探し、諦める。
どういう問題なのか、わかってはいる。
ランスロットのいった通りのことだ。なにもかもセツナたちに頼り切っている。東西紛争以来、彼らの圧倒的な力に頼り切り、自分ではなにひとつ成し遂げられていない、そんな気分になる。実際には、そうではない。ニーウェハインは、彼にしかできないことをしていたし、そのことは、だれもが認めることだろう。皇帝として、成すべきことを成している。統一帝国の発足から成立に至るまでの手際の良さは、帝国史に残るものといっても過言ではないだろうし、南大陸が急速に統一へと加速したのも、ニーウェハインの手腕とは無縁ではない。
彼は、やれることをやった。
だが、それでも、と、想わざるを得ない。
セツナは、彼の半身だ。
異世界の、自分。
もうひとりの自分なのだ。
彼がこの世界でただひとり、すべてを打ち明けられる存在。それがセツナだった。
ニーナとは長年一緒にいて、心の底から愛し合っているし、三武卿には心よりの信頼を寄せているが、しかし、なにもかもすべてを曝け出せるかといえば、どうだろうか。白化症に冒された我が身を晒せるものか、どうか。
状況次第。
そんな言葉が脳裏を過ぎる。
彼がもし、皇帝でなければ。
皇帝という重責を担う立場になければ、ニーナにも、ランスロットたちにも、白化症に冒された事実を打ち明けることができただろう。この不治の病と戦い続ける覚悟を伝えることもできただろう。しかし、皇帝という立場は、彼にそういった甘えを許さなかった。
帝国においてただひとりの現人神――皇帝である以上、弱みを見せてはならないのだ。
たとえ、心より信の置ける相手であっても、だ。
そういう意味でも、ニーウェハインにとって、セツナの存在は特別だったし、彼がいてくれてよかった、と心から想えるのだ。彼にならば、皇帝という立場にあっても、すべてを曝け出すことができる。彼は、もうひとりの自分だ。異世界という鏡に映った自分。
だが、だからといって、セツナに頼り切り、統一帝国の将来まで彼に切り開いてもらおうというのは、あまりにも虫の良すぎる話ではないか。
無論、わかっている。
大帝国が強大なる神によって支配され、動かされている以上、神殺しの力を持つセツナを頼る以外に手の打ちようがない。
それでも、と、彼は想うのだ。
(それでも……)
彼のために、なにかできることはないだろうか。