第二千四百九十五話 後退
九月十九日。
ノアブール近郊の海上を警戒していた魔動船からの連絡が途絶え、哨戒中だった複数の船もまた消息を絶ったという報せが、セツナたちの耳に届いた。
大船団強襲以来、その疲労と消耗を回復することに専念していたセツナだったが、事態が事態ということもあり、すぐさまノアブール基地へ向かい、そこでニーウェハインらから詳細を聞いた。
「生き残った船員の話によれば、魔動船は、海上移動要塞の攻撃を受け、沈没したとのことだ。おそらく、哨戒中の船も、同様に攻撃を受けたのだろう」
「生存者がいたのか?」
「ああ。海に投げ出された船員たちをサグマウが救助してくれたそうだ。生存者は二十五名。少ないが……全滅よりはずっとましだ」
ニーウェハインが噛みしめるようにいったのは、そうでもいわないと割り切れないからだろう。これから起こる戦いは、その程度の犠牲で済むとは考えられないくらい酷いものになる可能性が高い。
「サグマウが」
「ああ。わたしは直接逢えなかったが、船員たちの話によれば、無口な人物らしいな。機会があれば、感謝を述べたいものだが」
(無口……)
セツナは、サグマウの朗らかな口調を思い出して、複雑な気分になった。サグマウが救出した船員たちになにも話さなかったのは、間違いなく声音から正体を悟られないためだろう。マウアウ神の使徒サグマウとして生まれ変わった彼だが、声色は、リグフォードそのものだった。彼は海軍大将だった男だ。西帝国出身の海兵の中で彼の声を知らないものなどいないだろう。故に彼は口を閉ざした。口を閉ざし、海兵たちをノアブール港に届けるに留めたのだ。
本当は、もっといろいろ話したかったに違いない。海兵たちと語り合いたかったに違いない。声をかけたかったに違いないはずだ。だが、彼は、正体が明らかになることを恐れた。皇帝ニーウェハインの忠臣にして、誇り高き海軍大将が、神の使徒たる海の怪物に成り果てしまったことは、だれにも知られたくないのだ。彼がセツナたちに硬く口止めしたのもそれが理由だろう。
彼の想いを知っているからこそ、セツナもなにもいえなかった。
そして、その想いの強さは、影ながら魔動船を見守っていたことからもわかる。船が攻撃されたとき、彼にはどうしようもなかったのだろう。咄嗟に助けにいったが、間に合わなかった。
「さて、セツナ。警戒中の魔動船や船の数々が撃沈されたということは、だ。海上移動城塞が既に間近に迫っていると考えて良さそうだが……どうするべきだと想う?」
「方針、戦術は定まった。しかし、戦力が足りない。圧倒的にだ。時間を稼ぐ必要があるというのは、貴殿も御存知のことと想うが……」
ニーウェハインとニーナが口々に問うてきて、セツナは、渋い顔にならざるを得なかった。海上移動城塞が数日以内に南大陸近海に到達することは、発見時にはわかりきっていたことだし、そう驚くことではない。むしろ予想通り過ぎてなにもいうことがないくらいだ。魔動船や小舟への攻撃は想定外ではあったが、絶対にないとは思ってもいなかった。城塞だ。外部への攻撃手段くらい用意されていてもおかしくはない。
問題は、そういったことではなく、ニーナがいった時間を稼ぐ必要ということだ。
統一帝国の戦力は、ノアブール周辺の北部沿岸地域に結集しつつあり、既に二十万ほどの戦力がノアブール近辺に集まっていた。統一帝国の総兵力は、およそ八十万だからその四分の一ということになる。それだけでも莫大といえる兵数に想えるが、大帝国軍の総兵力を考えれば、圧倒的に足りない。大帝国軍は、兵数だけで百万を越える。それに神や神の使徒、神人、神獣、神鳥などを加えると、とんでもない大戦力となるのだから、二十万程度では対抗することも敵わない。
開戦することは、可能だ。
こちらの戦術は、先日決めた通りの短期決戦となった。長期戦ではなく、短期決戦。ラミューリン=ヴィノセアの召喚武装・戦神盤の能力を最大限に活用し、敵総大将のみを討ち、それによって戦いを終わらせるという戦術は、東西決戦でも取られた戦術ではある。ただ、今回は、東西決戦のようには、帝都急襲のようにはいくまい、という確信がある。
戦いが始まれば、百万超の敵軍が怒濤の如く押し寄せる。セツナたちが敵総大将たる大帝国の神を討ち滅ぼすまでの時間、統一帝国軍は、百万の軍勢による大攻勢を持ち堪えなければならないのだ。二十万では、持ち堪えるどうこうの話ではない。塵芥のように消し飛ばされるだけのことだろう。となると、やはり総力結集までの時間稼ぎは必要だ。
そのためには、どうすればいいか。
セツナは、前々から考えていたことを伝えるべく口を開いた。
「まずはノアブールを放棄し、本陣を後方に置くべきでしょう」
「やはり……そうなるか」
ニーナが苦い顔をした。
「ここで移動城塞を待ち構えても、戦力差が圧倒的である以上、迎撃もできません。とにかく、上陸地点より遠方の地点に本陣を構え、そこを中心に戦力を結集させるほうがいいはず」
どうせ、どう足掻いたところで海上移動城塞の大陸上陸を防ぐことはできない。たとえば、セツナたちが全力でもって城塞に特攻をかけたところで、どうにかなるものではあるまい。少なくとも、大船団を壊滅させたのと同じ方法で攻撃したところで効果があるとは考えにくい。ただの船の集まりだった大船団とは異なり、海上移動城塞は、神の加護を受けた存在なのだ。並大抵の攻撃では通らず、セツナの全力を叩き込んだとしても、神を滅ぼさない限り、瞬く間に修復されてしまう。それでは意味がない。
とはいえ、時間を稼げるのであれば、指をくわえて見ているよりはずっとマシだろうが。
「それについては我々も考えていたことだ。そうだな……速やかにノアブールを放棄し、ディヴノアまで引き下がろう。ディヴノアを本陣とし、大帝国軍を迎え撃つ。大総督、そうと決まれば、迅速に行動に移すべきだな」
「はい、陛下。では、指示通りに」
ニーナは、ニーウェハインの命令には、異論を挟まなかった。首肯し、素早くその場を離れていく。ニーウェハインのいったように想定していたことではあるのだろう。故に異論を挟む余地もなかったのだ。
ディヴノアは、ノアブールより南方の都市であり、南大陸北西部沿岸地帯最大の都市だ。広大な丘の上に作られたといい、本陣を構えるにはもってこいの都市といえるだろう。
「しかし、ディヴノアまで下がるのに数日を要することになる。つまり、だ。それまでには移動城塞が南大陸に上陸する可能性が高いということだ」
「多少の時間稼ぎは試みますが」
「頼む。統一帝国の、南大陸の存亡は、君たちにかかっている」
ニーウェハインの切実な想いは、彼の言葉に込められた感情からもはっきりと伝わってくる。その重みもだ。この南大陸に生きとし生けるものすべての未来がかかっている、といっても過言ではないのではないか。なぜならば、大帝国の神は、神鳥を用いた。それはつまり、大帝国の神にとって、人間やその他の生物が神化することなど、どうだっていいことだという現れなのではないか、ということではないか。
異世界の神々にとって、この世界の人間のことなどどうでもいいということは、神々が聖皇復活の儀式をこそ優先し、そのための犠牲について一切鑑みなかったことからも明らかだ。人間だけではない。人間以外のすべての生物、非生物も、異世界の神々にとってはどうだっていい存在なのだ。
そんな神の支配がどのようなものとなるのかなど、想像したくもない。
そこに人間が健全に生きられる保証はない。
ニーウェハインは、セツナをまっすぐに見つめて、いった。
「……俺としても、君たちにすべてを託すというのは心苦しいが、君たちに頼むしかないんだ。許してくれ、セツナ」
「許すも許さないもないだろう」
セツナは、微笑を浮かべるほかなかった。
「俺にしかできないことだ。神を討つなんてのはな。だれにだってできることじゃない」
なぜ、自分なのか。
と、想わないわけではない。
なぜ自分が黒き矛に選ばれたのか。
黒き矛の使い手に。
魔王の杖の護持者に。
なぜなのか。どうしてなのか。理由があるのか。意味があるのか。
様々な疑問が湧いては消える。
だが、黒き矛だけが現状、神属に対抗できる唯一の手段だということは間違いないのだ。
そして、それを扱えるのはセツナひとりだ。
ならば、セツナがやるしかない。
それだけのことだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「神を討つ……か。途方もないことだな」
「ああ、まったく」
セツナは、ニーウェハインの素直な感想に相槌を打って、話を終わらせた。
逼迫した状況は、動いている。
その状況下で、できる限りのことをしなければならない。