第二千四百八十八話 変転
突如、海面そのものが急激に膨張したかのように見えた。いや、それは見間違いでもなんでもなかった。海面そのものが天高く盛り上がったかと想うと、セツナたちの視界を埋め尽くしたのだ。そして、ある程度の高さまで盛り上がると、莫大な量の海水が瀑布の如く降り注ぎ、陽光を跳ね返してきらめいた。碧く幻想的な光景は、しかし、セツナたちにとてつもない衝撃をもたらす。なぜならば、その瀑布を切り裂くようにして、大量の海水を浴びながら姿を見せるものがあったからだ。
「あれは……なんだ!?」
それはさながら、城のようだった。
海上に浮かぶ巨大な宮殿であり、幾重もの城壁に囲われた城塞そのものというべきそれは、それそのものが打ち上げた海水を浴びながらも、内部に海水を押し止めることなく流しきり、白日の下、その白一色の威容を見せつけるようにして君臨した。
君臨。
そんな言葉が脳裏に浮かぶほど厳然と、それは海上にあった。
セツナたちは、言葉を失うほかなかったし、目の前で起こったことを認識し、それがなんなのか、どういった意味を持つのかを理解するまで、多少の時間を要した。
外周を取り囲む幾重もの城壁は堅牢そのものであり、城壁の角には合計八つの塔が聳え立ち、それぞれが異なる形状をしていた。城壁の内側に並び立つ無数の建物群はそれぞれが小さな砦として機能するだろうことを想像させる。そして、中心に聳える宮城は、荘厳以外の言葉で表現するのも難しいだろう。
突如として海上に出現したそれは、圧倒的な存在感を放ち、セツナたちを嘲笑った。
そして、セツナは、それがなんなのかを理解したとき、口の中に広がる血の味に顔をしかめていた。口惜しさのあまり唇を噛んでしまったのだ。それは即ち、先までセツナたちが行っていた大船団への攻撃だけでなく、大船団そのものが茶番だったということだ。まんまと騙され、乗せられ、すべての力を使い切るほどに必死になったこと、なにもかもが馬鹿馬鹿しいことになった。
ウルクナクト号が急加速する。海上に出現した城からできるだけ早く離れようというのだろう。それが現状取れる最善の選択だ。セツナたちは、大船団攻撃のため、消耗し尽くした。そんな状況で戦闘を継続することなど不可能だ。城に乗り込み、百万の将兵を相手に戦い抜けるはずもない。
そうして、多少離れ始めた頃合いになって、甲板上のそれぞれが口を開き始めた。
「なによあれ……いったいどういうことよ……」
ミリュウが呆然というと、エリナも、絶句していた。
「あれは……」
「城ですかい」
「ちょっと待ってくれよ。あれが……あれが大帝国軍本来の移動手段っていうんなら、船はなんだったんだよ」
シーラが理解が追いつかないとでもいいたげにいえば、レムがセツナを見た。
「そうでございます。千五百隻の船は、ひとの手によって建造されたものではなかったのですか?」
「そう聞いたが」
「わたしの記録に間違いはないはずです、レム。あの千五百隻は、皇帝の勅命によって急増されたもの。南ザイオン大陸侵攻のために」
ウルクは、どこか申し訳なさそうに、しかしはっきりと告げた。彼女の記録に間違いがあるとは、想えない。彼女が人間ならば思い違いもあるだろうが、そうではないのだ。記憶ではない。記録なのだ。魔晶人形の記録装置に刻み込まれた情報。そこに間違いがあるはずもない。ただ、その記録そのものに細工がある可能性はある。
「ねえ、ウルク。あなたはあの城、見たことないわけ?」
「申し訳ありません。記録のどこを参照しても、該当する情報は見つからないのです」
「そう……」
「ウルク、あなたが謝る必要はないわ。つまり、大帝国は、こうなることを予想していたってことでしょう」
「予想? なにをですか?」
「あなたがわたしたちにつく可能性をよ」
ファリアが彼方に浮かび、静かに移動する海上城塞を見遣りながら、いった。
「あなたがセツナと接触し、セツナを確保するどころか、セツナの味方につく可能性を考慮して、大帝国の本命を教えなかった。真実を隠し通した。そして、わたしたちを嘲笑った」
「そのためだけに千五百隻の船を用意し、海に浮かべたってのか」
『その可能性は大いにある』
マユリ神が、ファリアの考察に対し、肯定的な意見を述べてくる。
『おまえたちを嘲笑うためだけにあれだけの大がかりなことができるのもまた、神なればこそ、だろう。人間にはおいそれとできることではないだろう?』
「……ああ」
静かに、認める。
人間であっても、皇帝ならば、千五百隻の船を建造するよう命令することはできるだろうし、帝国臣民を総動員すれば、完成に漕ぎ着けなくはない。そして、それを海に浮かべ、南進することそのものは、決して難しいことではあるまい。だが、それら千五百隻の船を餌に敵をおびき寄せることなど、たとえ帝国のような巨大な国家であっても容易くできることではない。千五百隻だ。それらの建造のために費やしたものを考えれば、丁重に扱おうとするのが人間だったし、そうして然るべきだろう。
だが、神ならば、どうか。
千五百隻の船など、塵芥にも等しいと考えてもおかしくはない。
価値基準が人間のそれとは大きく異なるのが神という存在だ。
神にしてみれば、千五百隻の船の建造にかかる費用も、労力も、なにもかも、どうだっていいことなのだ。だから、いとも容易く捨てられる。セツナたちを嘲笑うためだけに利用し、利用し終えれば、海の藻屑とすることも厭わない。どうだっていいのだ。船よりも頑丈で堅牢な移動要塞があるのだから、それで十分だ。そう考えていても、なんらおかしくはない。
「それが神のすること?」
『否定はできん』
マユリ神がミリュウのつぶやきに対し、柔らかに告げる。
『わたしとて、おまえたち人間とは異なる価値観を持ち、それを変えることはできない。わたしは、希望を司る。そして、希望を叶えることがすべてだ。それ以外は、些事。それ以外のことは、どうでもいい。それがわたしだ』
希望を叶えるためならば、それ以外がどうなろうと関係がない、と、女神はいった。それは、彼女のことを知ったときから変わらないことだ。マユリ神以外の神にも同じ事がいえる。救世神ミヴューラも、世界を救うことが第一義であり、それ以外のことはどうでもいいらしかった。海神マウアウも、支配する海域のことだけしか考えていなかったし、闘神ラジャムに至っては闘争だけがすべてだった。リョハンの守護神マリクでさえ、そうだ。彼は、リョハンの外の世界のことなど、気に留めてもいない。
それが、神なのだろう。
自分の司る領域以外のことは、どうだっていいのだ。
だがそれは、人間にもいえることのような気がして、彼は神々を責める気にはなれなかった。
自分だって同じではないか、と、想う。セツナだって、自分の周りのひとびとを幸福にしたいという以外にはなにもない。それだけだ。それだけが行動原理であり、それ以上でもそれ以下でもない。自分の見知らぬ他人のことなど、考えたこともないし、考えようとも想わない。そんなことを考えはじめればきりがないからだ。自分と、自分の周囲のことで精一杯だということもある。
それでいい、とも想う。
それが人間だろう、とも。
とはいえ、だ。
『しかし……まさか、あれほどの大船団そのものが偽装だったとはな』
さすがのマユリ神も、想像すらできなかった事態には、度肝を抜かれたらしい。
「……偽装……か」
「でも、わたしたちが攻撃しなかったら、あの船団のまま、南大陸に向かったのよね?」
「だろうな。ただ、あれらの船に人間が乗っていたのかどうかすら怪しいから、上陸目前であの城が姿を現したんじゃないか」
大船団を構成した千五百隻に及ぶ大小無数の船。その無反応ぶりが、いまになって理解できる。ウルクナクト号の急接近にも、マユリ神による偽装工作の解除にも、大船団がなんの反応も示さなかったのは、大船団がただの張りぼてのようなものに過ぎなかったからだ。船がただまっすぐ進んでいただけであり、そこには戦闘要員のひとりすら乗っていなかったのではないか。もしかすると、迎撃のため現れた神鳥たちですら、大船団からではなく、あの城から放たれた可能性がある。
なにもかもが徒労に終わった。
セツナたちは、意気消沈しながら、ノアブールへの帰途についた。
ニーウェハインたちにこの事実を伝えなければならないと想うと、心が重たかった。