第二千四百七十一話 ウルク(二)
ウルク。
それが自分を示す名前だということを教えられたのは、起動してすぐのことだった。
「ウルク。それが君の名前だ。わかるかね。ウルク。古代言語で黒を意味する言葉だ。まあ、すぐには理解できないことだろうが、いずれわかるようになる」
神聖ディール王国魔晶技術研究所長にして世界最高峰の魔晶技師ミドガルド=ウェハラムは、起動したばかりで言葉の理解も追いついていなかった自分にとにかく声をかけ続けた。
「名前、という言葉の意味も理解できないか。名前は、そう、名前だ。なんていったらいいかな。なにかを区別するとき、識別するときにつける言葉、と言い換えてもいい。たとえば、これは机。わたしが座っているのは椅子という名前が付いている。これは書類だな。そして、君には、魔晶人形という名前がある」
ミドガルドは身振り手振りで説明してくれたものだ。
「しかし、魔晶人形というのは、全体の名前であって個体を識別するための名前ではないんだよ。君には、もっと大仰な個体識別名があるにはあるが……起動実験の成功体第一号である君には、特別な名前を与えるべきだと皆に言われてね。一晩中考えた結果、ウルク、という名前にしたんだ」
彼は、彼女が起動して以来、眠る時間を削れるだけ削っていたということを後に聞いた。ミドガルドにとって魔晶人形の起動は悲願であり、その起動実験に成功した魔晶人形に奇跡が起き、自律的な思考を獲得したとなれば、そうなるのも無理のない話だ――とは、彼の部下たちの話だ。そして、彼の部下たちも、寝る間を惜しんで彼女の相手をした。
「響きが気に入ってね。いいだろう。ウルク。素敵な名前じゃないかな。ウルク。うん。我ながら、素晴らしい命名だと想うよ」
ことあるごとに自画自賛し、悦に浸るのがミドガルドの悪い癖であり、愛嬌だと、彼の部下たちがいっているのをあとで聞いて、知った。確かに、ミドガルドにはそういうところがあった。
ウルクと名付けたのは、魔晶人形の心臓であるところの心核に使用した魔晶石が黒色魔晶石、あるいは黒魔晶石と呼ばれる漆黒の魔晶石だったからだ。黒色魔晶石だから、古代言語で黒を意味するウルクと名付けたのだ。安直だというものもあれば、わかりやすくていい、というものもいた。
彼女は、そのどちらでもなかった。
ミドガルドが喜んでいるのならば、気に入っているのであれば、それで良かった。
それはおそらく、感情の片鱗だったのだろう。
魔晶人形は元来、感情を持たない。
それはそうだろう。
魔晶人形とは、人間によって遠隔操作されるか、予め設定された行動原理に基づいて自動操縦する戦闘兵器であって、自律的に思考し、行動する代物ではないのだ。本来ならば言葉を発することすらできないはずだった。
であるにも関わらず、彼女は、目覚めたときより言葉を発した。
そのことにミドガルドを始めとする研究所職員は全員、ひとり残らず驚愕し、腰を抜かしてしばらく動けなくなるものまで現れる始末だった。それも当然のことだ。魔晶人形に言葉を発する機能など設けられていなかったのだから、起動実験に成功したかと思いきや、突如として言葉を発すれば、だれだって驚くだろう。恐れ戦いたとしても、おかしくはない。
たとえどのような失敗があったとしても、魔晶人形の躯体の構造上、言葉を発することなどできるわけがないのだ。開発者のだれかが勝手になんらかの機構を仕込んだというわけでもない。なにかしらの偶然でも、そんなことが起こるわけがなかった。
ミドガルドたちがウルクを指して奇跡の産物と表現したのは、そういう理由からだった。
そして、ウルクが自律思考する存在としてこの世に誕生したことを認識すると、ミドガルドたちは、ウルクの育成の先にこそ、魔晶技術の未来があると考えるに至った。そうすることで、ウルクの自我の獲得および躯体構造のありえない変化を受け入れ、一先ず、ウルクの教育と研究、調整に時間を費やすこととしたようだ。
ウルクは、起動以来、ミドガルドを始めとする魔晶技術研究所の職員たちによって様々なことを教わった。言葉を学び、意味を理解し、自分を知った。
型式番号・魔・零壱陸・黒・壱。
それが自分を示す名称のすべてだということを知ったが、やはり、ウルクという名前が一番しっくりきた。ミドガルドにつけられた名前だからなのか、それとも、別の理由があるのか。よくはわからないが、とにかく、ウルクという名前は気に入っていたのだと想う。
「ウルク」
そう呼んでくれるひとたちがいて、そのひとたちは、いつだって笑顔だった。それが笑顔であり、笑顔がどういった感情のときに現れるものなのかを理解したのは、つい最近のことのように想うが、ともかく、あのころ、彼女の周りには笑顔が溢れていた。それはきっと、幸福なことだったのだろう。
ミドガルドもほとんどずっと笑顔だった。たまに困り果てたような顔をしたりもしたが、だいたいは笑っていた。笑い声で溢れていた。ミドガルド。彼は、彼女にとって、必要不可欠な存在だった。彼がいなければ、彼女は、永遠に目覚めることはなく、故に永遠にあのひとと出逢うこともなかったのだ。
あのひと。
彼のことを想うだけで、なにかが揺れた。
激しく、強く、鋭く、熱く、淡く、深く、早く。
それが感情の、心の揺らぎなのだということを知ったのも、彼と出逢い、彼との触れあいの中で、変化していったからだ。
「彼は、君に感情を芽生えさせた」
ミドガルドは、いった。最後のとき。別れの直前。ミドガルドは、自分のことのように嬉しそうに、しかし、どこか哀しそうな目をしていた。
「彼の存在が、君の心を解き放った、と言い換えてもいい。彼との接触、彼との交流の日々が、君をただの人形から、心ある生命へと深化させたのだ。君は、生まれ変わった。君は、ウルクという一個の生命体となったのだ。だから、君の道は君が選ぶべきだ」
そして、ミドガルドは選択を迫った。
「君は、どうしたい?」
迷いは、あった。
それは、そうだろう。
ウルクにとって、ミドガルドもまた、大切な存在だった。
ミドガルドか、あのひとか。
選択肢はふたつにひとつ。
時間的猶予はなかった。
どちらかひとりしか、選べない。
苦悩があった。かつての彼女ならば感じなかったはずの苦痛が生じた。だが、時間はない。迷っている暇などあろうはずもなかった。一瞬の迷いが、大切なひとを失わせてしまうかもしれない。
永遠に。
だから彼女は、翔んだ。
あのひとの元へ。
セツナの元へ。
もう一度、彼とともに戦うために。
彼とともに戦い続けるために。
生き続けるために。
だというのに――。
自分の首を破壊したとき、痛みはなかったし、壊せるかどうか、疑問にも想わなかった。
精霊合金製の躯体にさらなる改良を重ねた弐號躯体だが、決して絶対無敵の物体ではないのだ。精霊合金は、特定波長の波光を浴びることでその性質を変化させるという特徴を持つ。つまり、特定波長の波光を浴びていない状態の弐號躯体は、極めて硬質な金属でしかないということであり、波光大砲の威力ならば簡単に破壊することが可能だった。
そして、首さえ破壊すれば、術式転写機構と胴体の繋がりが断たれることとなり、胴体が勝手に彼を攻撃するようなことはないだろうという確信があったからこそ、彼女は、波光大砲をみずからのくびに撃ち放った。それによってなにが起こるのか、想像できないわけもない。首が吹き飛べば、頭が胴体から離れれば、自分はまたしばらく、眠りにつかなければならなくなる。
それは致し方のないことだ。
せっかく逢えたあのひとと敵対する羽目になり、あのひとを悲しませるようなことをしてしまったのだ。その罰と考えれば、多少の眠りくらいは、我慢できる。
いやそもそも、その眠っている間、思考も停止するのだから、どうもこうもない。
意識が動き出したときとはつまり、吹き飛ばした首が修理され、心核から術式転写機構にまで波光が届いたという証明に他ならない。
そしてそれがどういうことかといえば――。
「さすがとしかいいようがありませんよ……まったく」
脱帽しきっているらしい声が聞こえてきて、彼女は、きょとんとした。声が、聞こえる。術式転写機構が正常に作動し、生物でいうところの五感が機能し始めているのだ。それそのものは、驚くには値しない。それはそうだろう。躯体が修復されれば、問題なく機能するのは必然だ。彼女は、首の一点だけを破壊するため、躯体の波光の流れを制御したのだ。首以外は無傷だ。内骨格も、装甲も、なにもかも、無事だった。ならば、修理されるのを待つだけであり、それだけが問題といえば問題だった。
魔晶人形を修理修復できる人間など、この世にどれほどいるのか。
ミドガルドたち魔晶技術研究所の人間以外には、いまい。彼女の弐號躯体は、魔晶技術研究所が技術の粋を集め、秘密裏に完成させたものだったのだ。聖王国の量産型とはわけが違う。
故にミドガルドたちがどこかで無事に生き延びていなければならないという前提があった。その上で、彼らがミドガルドたちを探し出さなければならなかったはずだ。
それには、膨大な時間がかかる。
だというのに、どうやらみずから首を破壊した瞬間から、それほどの時間が経っていないらしいということが機能不全中も刻まれていた時間記録から判明し、彼女は困惑したのだ。まさか、ミドガルドが行動をともにしていたのか。
そんな期待は、つぎに飛び込んできた言葉によって否定された。
「感謝するのであれば、ミドガルド=ウェハラムとやらにしておくのだな。彼が、わけもわからぬおまえに魔晶人形のすべてを託したおかげで、ウルクを修復できたのだ」
記憶にない少女の声は、彼女の主に対してどこか尊大に聞こえて、彼女はむっとした。瞼を開く。少女を睨み付けようと視線を動かそうとした彼女だったが、その途中で目が止まってしまった。少し右を向くと、そこに彼女にとってもっとも大切なひとがいたからだ。
「ミドガルドさ――」
彼は、ミドガルドについて言及しようとしたらしいが、彼女と目が合った瞬間、口をあんぐりと開けたまま、目を瞬かせた。そして、人目も憚らず彼女に抱きついてきたものだから、彼女は、今度こそ呆然となった。まるで夢を見ているようだった。
「ウルク! 目が覚めたんだな! 良かった! 良かったよー!」
「セツナ……」
彼女は、彼に対する謝罪の言葉を飲み込まざるを得なかった。
それくらい、彼は、ウルクの覚醒を喜んでいたのだ。
それは、彼女にとっても歓喜以外の何者でもなかった。