第二千四百六十一話 北の尖兵(ニ)
ノアブールは、帝都ザイアスより遙か北西に位置する。南ザイオン大陸北西の沿岸部に存在する都市であり、方舟で向かっても二日あまりの時間を要した。
ここ二年で港町に改造されたという通り、海辺に面した都市は、あやうく“大破壊”によって海底に没するか、“大破壊”そのものに巻き込まれ、消滅するところだったのではないか、というような位置に存在していた。上空から見下ろせば、余計にその危うさが理解できようというものだ。いまにも海に飲み込まれそうな、そんな不安定さを新造されてほどないという港によって支えられている、そんな印象を受けた。
「空から見た様子はどうだ?」
『そうさな……』
船首展望室のセツナが通信器を通して女神に質問すると、マユリ神は少し考え込むようにした。
『ノアブール市内は至って静かだ。激しい戦闘の形跡が各所に見られるが、そんな戦闘すらなかったのではないかと思うほどにな』
「形跡は、あるのよね?」
『ああ。はっきりと残っている。苛烈な戦闘だったのだろうな。いくつもの建物が倒壊しているし、城壁に大穴が開いている。敵性存在とやらは、そこから侵入したのかもしれない』
「そして、ノアブールの防衛戦力と激突した、ということか」
『可能性の話だ。戦闘中に開いた穴かもしれない』
「そうだな」
マユリ神の意見を認め、展望用の窓から眼下の都市を見下ろしたセツナだったが、さすがに人間の視力では、遙か彼方の地上の様子をはっきりと把握することは困難だった。ウルクナクト号は現在、敵性存在を刺激することのないよう、高空を飛んでいるのだ。地上からは肉眼は愚か武装召喚師ですら認識できないであろう高度だ。当然、船に乗り込んでいるセツナたちに地上の様子などわかるはずもない。
女神の目だけが頼りだ。
「でも、市内は静かなのよね? 制圧されたっていうけど、たったひとりにその状態を維持できるものなのかしら?」
「抵抗すれば市民に被害が及ぶとでも脅されれば、抑えつけられるだろうさ。勝ち目があるならまだしも、駐留軍は完膚なきまでに敗北したっていうんだ。抵抗する気力も失われているだろうよ」
「市民の皆様は御無事なのでございましょうか?」
「そうよ、ノアブールのひとたちの姿は見当たらないの?」
『市民は、普通に生活しているようにも見えるし、なにかに怯えているように見えなくもない。が、こればかりは、遠目では判断しにくいな。ただ、見たところ、無事ではあるようだ』
マユリ神の返答にだれもがほっとしたような反応を見せた。一般市民への攻撃は、救援要請の書簡には記されていなかったものの、救援要請が出されたあとのことはわからなかったのだ。
『敵性存在の姿は、見当たらない』
「敵性存在は、ノアブール制圧後、近隣の都市への攻撃を始めたという話だ。既に近隣の都市のいくつかは制圧されている可能性がある」
ノアブールの近隣には、ノアダルクス、ケイルノア、エンノア、トレスノアなどといった複数の都市が存在する。特に真東に位置するノアダルクス、真南のケイルノアは、ノアブール制圧後、つぎの攻撃目標にされた可能性は低くない。
「ノアブールの防衛戦力でもどうにもならなかった以上、その可能性は高そうですな」
「ああ。だから、一刻も早く敵性存在を捕捉し、制圧しなければならない。でなければ、被害は拡大する一方だ」
「南ザイオン大帝国の目的次第では、大変なことになりそうだものね」
ファリアの神妙な物言いに、セツナは静かにうなずいた。
もし、南ザイオン大帝国の目的が南大陸の制圧であり、その足がかりとして先遣部隊を派兵してきたというのであれば、生まれたばかりの統一帝国にとって存亡の危機に立たされたということにもなりかねない。
「敵性存在がどんな相手であれ、たったひとりってんならあたしたちの敵じゃあないと思うけど」
「ああ。同感だ」
「ああん、相思相愛って奴ね!」
セツナは、ミリュウが嬌声をあげながら飛びついてくるのをあっさりと受け止め、彼女の頭を撫でてやった。その全体重を乗せた体当たりにも等しい愛情表現にはもはや慣れきっている。どうやって受け止めれば衝撃を和らげ、互いに痛みを覚えずに済むのか、そして、そのあとどういう対応が彼女にとって正解なのか、なにもかも理解していた。セツナに頭を撫でられたミリュウは満足げな笑顔になっていた。
そしてその一連の流れというのは、船首展望室にいるだれにとっても見慣れた光景でもあり、だれもそのことに触れようとはしなかった。セツナ自身、彼女とのやり取りについて言及することなく話を進める。
「問題はその先のことだ。もし万が一、敵性存在が大帝国の先遣隊であり、大帝国が本格的な侵攻を計画しているということが明らかになれば、そのときは……」
「そのときは?」
ファリアに反芻するように問われて、セツナは、そのとき改めて自分の考えを口にした。ミリュウを隣の席に座らせてから、だ。
「俺は、統一帝国に協力しようと考えているが……皆は、どう思う?」
この新たな問題を対処するだけ対処して終わっても、なんの問題もあるまい。
ニーナと結び、ニーウェハインと結び直した契約は、見事に果たされた。完璧に近い成果を出したこともあり、ニーウェハインを始め、多くのひとびとがセツナ一行の功績を歴史に名を刻むほどのものと賞賛している。それだけのことをしたのだ。もはや帝国領土に留まる必要は、ない。気になるいくつかのことも無視して、飛び立っても構わないだろう。だれもセツナたちの旅を引き留めることはできまい。ニーウェハインですら、セツナが行くといえば、ただ別れの言葉を交わすだけだろう。これ以上、セツナに頼るべきではないと、ニーウェハイン自身が想っている。
それほどだ。
セツナは、ニーナへの恩返しと、ニーウェハインへの個人的な感情から、西帝国に肩入れすることとなり、その後の統一帝国が安定するまでは見届けたいと想うようになっていた。しかし、それは、セツナの個人的な感情であり、意見だ。
ファリアたちは、どうか。いずれも、帝国に対して特別にいい想い出などはなく、むしろ、悪感情を抱いていてもおかしくはない。実際、西帝国に助力するに当たって、皆、なにかしら想うところがあったのもわかっている。
東帝国を打倒するという当初の目的を果たし、契約を全うした以上、帝国に協力する必要はないと考えていたとしても不思議ではなかったし、セツナは、皆の想いを知っておきたかったのだ。
「どう思うって……ねえ?」
「まったくよ。あたしたちの意見なんて聞いてくれやしないくせにさ」
「そうでございます。御主人様はいつだって自分勝手で我が儘で我が道を突き進んでおられるばかり。わたくしどもの意見など、参考にしてもくださりませぬ」
ファリアが流し目でミリュウを見れば、ミリュウが憤懣やるかたないといった調子でレムを見遣る。レムはレムでここぞとばかりに不満をぶつけてきたものだから、隣にいたエリナが目を丸くした。普段、セツナに逆らうことなど皆無といっていいレムにしては、めずらしい反応だったからだ。だが、セツナは、三人の意見ももっともだと想わざるを得なかった。彼女たちのいうとおりだ。こうして意見を問うたところで、結局は、行動方針を決めるのはセツナだ。
そして、セツナは、余程の事がない限り、一度決めたことを変えるということがない。
「そ、そこまでいうこたあなくねえか……?」
シーラが三人の剣幕を宥めるように言葉を挟むと、ミリュウが彼女を睨んだ。
「シーラも!」
「え?」
「ここは皆でセツナを責める場面でしょ!」
「どういうこったよ……」
「俺を責めて楽しいのか」
セツナは、憮然としたシーラのことが可哀想になって、ミリュウを横目に見た。彼女は悪びれずに行ってくる。
「いやだって、こういうときでもないと、言いたい放題いえないし」
「はあ? おまえさあ……」
「あなたはいつも言いたい放題いってるでしょうに」
「でもでも、ファリアだって乗っかったじゃん!」
「それはそれ、これはこれ、よ」
「そうでございます」
ファリアに続き、レムがしれっとした顔で告げる。
「どういうことよ! なんであたしが責められてるわけ!?」
「そりゃあ日頃の行いの差、かな」
「そうね」
「そ、そんなこと……!」
だれもがファリアの肩を持つ中、ミリュウが絶望的な顔をすると、だれかが彼女の手を強く握った。
「師匠、だいじょうぶです!」
「な、なにが……?」
「わたしがついています!」
「あ、ええ、そ、そうね……エリナがいるものね」
「はい!」
エリナの屈託のない笑顔による断言には、ミリュウも毒気を抜かれきったように脱力するほかなかったようだ。