第二千四百五十八話 急報(ニ)
九月に入った。
四季でいえば秋が始まろうという時期ではあるが、帝都ザイアスはいまだ夏の熱気に包まれており、道行くひとびとも至天殿で様々な職務に従事するひとびとも、ほとんど薄手の衣服を身につけていた。平均的に気温が高く、夜中でさえも肌着一枚で過ごせるような気候なのだ。セツナも薄手の衣服に袖を通している。
しかし、皇帝ニーウェハイン・レイグナス=ザイオンはというと、いつも通りの厚着であり、暑くはないのかとか、体調に問題はないのかなどといった余計な心配をしてしまいそうになるほどだった。が、彼の状態を考えれば厚着になるのも当然のことだったし、彼が必要以上に着込み、その上で重厚な仮面を被っているのも致し方のないことだった。そのことで体調を崩すようなことはない、とは彼の言葉だが、どうやら異界化した半身のおかげで体温調整に関してはなんの問題もないということだ。また、白化症に冒された部分以外の体調は頗る良いということであり、心配することはないと彼は強くいった。
セツナに心配されるのは気持ち悪い、とも。
彼の減らず口には呆れる想いだったが、そんな悪口雑言をぶつけることのできる数少ない相手だという自覚を持って、セツナは彼の呼び出しに応じていた。
ニーウェハインは、暇な人間ではない。
皇帝なのだ。
常日頃公務に追われている彼には、休息という概念がないに等しいという。彼が休んでいるといえるのは睡眠中くらいであり、それ以外の時間はほとんどすべて職務に費やされていた。四六時中、統一帝国のことを考え、動き続けている。それは彼が並外れた生命力の持ち主だからこそできる芸当であり、常人には到底不可能といっていい。
そしてその生命力の根源こそ、エッジオブサーストの能力によって異界化した半身だという話をつい最近聞いた。
どうやら、エッジオブサーストの能力によって異界化した右半身は、彼に無尽蔵に等しい活力を与えており、彼は疲れ知らずに働き続けることができるのだという。それが事実なのかを調べる方法はないが、彼がセツナに嘘をつく理由がない以上、信じていいだろう。彼は、悪魔の如き異形の半身になったことで、広大な帝国領土を治める皇帝に相応しい生命力を得たのだ。
『君に敗れ去ったのも、案外、悪いことではなかった……ということかな』
セツナに追い詰められたからこそ、彼はエッジオブサーストの最終手段を用いたのだ。もし、彼がセツナに圧勝していれば、いまの彼はおらず、睡眠時間以外、すべての時間を公務に注ぎ込むことなどできなかっただろう。少なくとも、一切の休養を必要とせず働き続けることなど、人間にはできない。セツナにだって真似のできないことだ。
彼の半身がもはや人間のそれとは異なるものであるという証明だが、むしろそのことがいまの彼にとっては大いなる力となっているのだから、運命とは奇妙なものといわざるを得ない。
セツナがそんな異形の半身を隠すように厚着をした皇帝に呼び出されたのは、彼がセツナとふたりきりで話したがっていたかららしい。
「なんでまた? 話し相手ならいくらでもいるだろう?」
「まあ、ね」
ニーウェハインは、セツナとふたりきりになったのを確認すると、静かに仮面を外した。仮面というよりは、大きな兜だが、顔面を覆うことを主眼に置いていることもあり、仮面という認識で間違いないだろう。仮面を外せば、黒く異形化した右半身と、人間の素顔を大部分残しながらも包帯まみれの左半身が露わになる。その様子を見る度に痛々しく想うのは仕方のないことだ。どうしたところで、そう見てしまう。
「しかし、君としか話せないこともある」
「たとえば?」
「これのこと……とか」
そういって彼が左手で触れたのは、頭の包帯に覆われた部分だ。包帯の下の皮膚は、白化症によって白く変容している。天使化事件以来、マユリ神の力によってある程度抑えられているということだが、それもどこまで効き目のあるものかわかったものではないということであり、気休め程度にしかならないという。それでも、以前よりはずっと楽になったというニーウェハインの話を聞けば、彼がそれまでどれほど苦しんでいたのか、想像するにあまりあった。
「悪化したのか?」
「そういうわけじゃない。むしろ、マユリ様のお力のおかげで仕事が捗って困るくらいだ」
「はあ?」
「いままでは、白化症の痛みが引くまで休んでいたものだからね」
「……そういうことかよ」
「というのは冗談だが」
「おい」
「それはともかく、君の意見を聞こうと想ってさ」
「俺の意見?」
セツナは、ニーウェハインの言葉を鼻で笑った。
「皇帝陛下が部外者に意見を伺うなんざ、どういうこった」
「部外者? 君は統一帝国誕生の立役者だよ。意見のひとつやふたつ、皇帝に直接具申したって、なんの問題もない」
「そうかねえ」
広い執務室の片隅。応接用に備え付けられた、卓を囲む椅子のひとつに腰掛けたまま、セツナは頭上を仰いだ。ニーウェハインは、対面の席に腰を下ろしている。執務用の机と椅子にではなく、だ。
「そうさ。だれもが君たちを褒めそやしている。君たちがいなければ統一帝国が誕生したのは遙か先だろうし、なにより、これほどまでに損害を抑えることができたのは、君たちのおかげだ。君はまさに英雄なんだよ。この帝国にとってもね」
「……英雄か」
その言葉は、セツナにとっては感じ入るものがないではない。
そう呼ばれ、浮かれていた時代が脳裏を過ぎる。
血にまみれ、敵を殺すことが絶対的に正しい行いなのだと信じて疑わなかった時代。
青春といっていい。
「小国家群においてガンディアの英雄として名を馳せた君は、いまや三大勢力のひとつ、ザイオン帝国における英雄ともなったわけだ。どうだい、気分は?」
「別に……特に良くも悪くもねえよ」
「そうかい」
「……ま、ガンディアを蹂躙した連中の鼻を明かせたと想うことができりゃあ、気分も爽快なんだろうがな」
「君は、そうはならないか」
「……ああ」
うなずいて、視線を落とす。
ニーウェハインが、じっとこちらを見ていた。包帯まみれの左半分には、セツナとそっくりの目があり、血のように赤い瞳がこちらを見つめている。
かつて、ザイオン帝国は、セツナにとって憎悪の対象となった。三大勢力の一角であり、ニーウェの属する国というだけでそうなったわけではない。最終戦争を引き起こし、小国家群を蹂躙し、ガンディアを滅亡させた勢力のひとつだからだ。無論、そこには大いなる理由があり、帝国の人間にもどうしようもない流れだったという事実が判明したいまとなっては、彼らを恨んでも仕方がないということもわかってしまった。神々の策謀によって三大勢力そのものが利用された、ただそれだけのことだ。ヴァシュタリア共同体、ザイオン帝国、神聖ディール王国――そのいずれかが悪いわけでもない。あの最終戦争に引っ張り出された時点で、だれもが被害者といっていいはずだ。
だからこそ、セツナはもはや帝国人を恨みに想うことはなかったし、そんな彼らに英雄と呼ばれて溜飲が下がるというようなこともなかった。
「その英雄様にどんな意見を聞きたいんだ?」
「……統一帝国は、いま、地盤固めの真っ只中だ」
ニーウェハインは、態度を改めて、口を開いた。
「東西、ふたつの帝国に分かれていたものがひとつになったばかり。多かれ少なかれ混乱が起きるのは当然のことだし、様々なことで反発や不満が生まれるのも致し方のないことだ。ミズガリスの処分にだって、色々な反応があった。それはいい」
ミズガリス=ザイオンは、結局、統一帝国政府に参政する運びとなり、彼は統一帝国の政治の中枢たる統議院の一員に任命されている。ザイオン皇家のひとびとのうち、統議院の一員となったのは、ミズガリス以外にはイリシア=ザイオンのみであり、ニーナ=ザイオンは大総督のまま変わらず、ミルズ=ザイオンが総督と近衛騎士団長を兼任することになった以外では大きな変化はなかった。東帝国において総督級の役職についていたものについては、統一帝国への移行後も変化はなく、それが大きな混乱を生まなかった理由のひとつだろう。統一帝国の人事は、西帝国を主体とし、東帝国を吸収し、合併したようなものとなっているのだ。
「問題は……」
「問題は?」
セツナが彼の言葉を反芻したときだ。
執務室の扉が激しく叩かれたかと想うと、シャルロットの声が響いた。
「陛下! 大変です!」
常に冷静さを見失わない人物として知られるシャルロットの緊張感に満ちた声は、室内に驚きをもたらした。