第二千四百五十五話 統一政府(一)
皇帝ニーウェハイン・レイグナス=ザイオンが政務を再開したのは、彼が意識を取り戻して三日後、つまりセツナとの面会の翌日である八月二十五日のこととなる。
ニーウェハインの体調に関して不安を覚えずにはいられなかったものの、マユリ神によれば、肉体的にはなんの問題もなく、精神的な後遺症も見当たらないということもあり、彼の政務復帰についてセツナからはなにもいうことはなかった。もっとも、セツナがなにをいったところでニーウェハインが聞く耳を持つはずもないのはわかりきったことではあったが。
ともかくもニーウェハインが政務に復帰したことは、統一帝国政府首脳陣に好影響を与えたのは間違いないらしく、至天殿そのものを包み込んでいた重々しい雰囲気が瞬く間に軽やかなものに変わっていったのはさすがとしかいいようがなかった。皇帝が、意味もわからないまま意識不明の状態に陥っていたのだ。統一政府首脳陣としては、不安を抱かずにはいられなかっただろうし、様々な憶測や噂が流れるのも致し方のないことだ。とはいえ、そういった不安や憶測を吹き飛ばすようなニーウェハインの精力的な活動は、ニーウェハインの体調を不安視していた首脳陣の目を覚まさせたのは間違いないらしく、帝都ザイアスは、大陸統一に向けた動きをさらに活性化させることとなる。
完全な統一は、まだ果たされてはいない。
抵抗勢力こそ完全に潰え去り、もはや統一政府に抗うものなどどこにもいないのだが、大陸全土に統一帝国成立の報せが届いているかというと、そうではないのだ。また、統一政府の成立によって大きな混乱が起こることも予測され、予断を許さない状態が長らく続いていた。上が変わるのは、なにも東帝国だけではない。西帝国にとっても、統一帝国の成立の影響は限りなく大きく、様々な事物が激しく揺れ動いた。多かれ少なかれ混乱が起こるのは致し方ないことであり、そういった状況を脱し、ようやく、大陸の統一が為せるということだ。
南ザイオン大陸の統一。
それは、東西に分かたれた帝国臣民のだれもが待ち望んでいたことだ。
元より、帝国の国民同士で相争うことなど、だれにとっても不幸なことであり、東西紛争を喜び、愉悦を見出すものなど、戦闘狂や武器商人といったごく一部の人間だけだったのではないか。それらごく一部の人間にとっても、南大陸の統一を喜ばないもののほうが少ない。帝国に生まれ育った人間である以上、ひとりの皇帝を頂点に戴き、その偉大なる光の下に集うことにこそ安寧を見出すものである、らしいのだ。
そんな国で、南大陸にはふたりの皇帝が立ち、相争った。
二年以上に渡る紛争は、両帝国の臣民に多大な心労を与え、不平や不満を蔓延させていった。厭戦気分が全国的に広がっていたというのは本当だろうし、当然の結果だろう。しかし、それでも、両帝国は、闘争を止めることができなかった。なぜならば、それはみずからが掲げる正義を否定することだからだ。東帝国は、ミズガリスの皇位継承を正当なものとするため、西帝国を打ち払わなければならなかったし、西帝国もまた、僭称帝ミズガリスを討つことで、ニーウェハインの正義を世に示さなければならなかった。
互いの正義を実現するためには、戦いを途中で放棄することなどできなかったのだ。
端から交渉の余地はなく、対話の意味もない戦いだった。
その戦いに打ち勝ったのが西帝国であり、西ザイオン帝国皇帝ニーウェハイン・レイグナス=ザイオンは、そのときより、南ザイオン大陸の統一皇帝として広く知らしめられるようになった。
当然、反発するものたちもいたが、それらは抵抗軍として一纏めにされ、排除された。多くは統一帝国政府に投降し、現在、統一帝国に取り込まれている。
統一帝国政府は、南大陸に絶対的な秩序を構築するべく、多量の人材を欲していた。皇帝を頂点とする絶対の秩序。それは、息が詰まるような閉塞感のあるものとは違う。帝国臣民のだれもが平穏と安寧を享受し、幸福な日々を送れるようにするための法と秩序であり、その構築と維持のためには、資金、物資、人材が限りなく必要だった。
そういう理由もあり、統一帝国政府は、人材登用に関しては見境がない、と評されるほどに手当たり次第人材を呼び寄せた。元の所属など関係がない。旧東帝国の重臣であろうと、抵抗軍として最後まで統一帝国政府に抗ったものであろうと、実力と才能に応じて採用し、手配した。そうすることで統一帝国政府は混沌とした様相を呈していったものの、それこそがニーウェハインの狙いだということは、想像するまでもない。
ニーウェハインは、西帝国首脳陣のみによる南大陸の支配など考えてもいなかったのだ。
西ザイオン帝国を立ち上げて以来、彼が真っ先に対応しなければならなかったのは、打倒東ザイオン帝国だが、彼が本当に見ていたのは、さらにその先のことだ。つまり、東帝国打倒後の、大陸統一後の政治についてであり、情勢についてだ。彼は、より広い視野で物事を見ていたのであり、その点において、セツナは彼の真似はできないと舌を巻いたものだ。育ちが違えば、考え方も視野も違うということだろう。
ニーウェハインは、西帝国首脳陣のみによる大陸統一は、必ずしもいいことばかりではないだろうと見ていたのだ。確かに西帝国首脳陣は、ニーウェハインの支持者ばかりであり、ニーウェハインの考える通りの帝国を作り上げるには打って付けだ。彼の想うままに動き、ときには彼がなにもいわずとも、彼の意を汲んでくれることだろう。だが、大陸は広く、西帝国とまったく同じとはいくまい。それに首脳陣を西帝国首脳陣だけで固めれば、当然、東帝国の旧臣たちから不平不満の声が噴き出し、それが抵抗活動や反乱の温床になりかねない。ならばいっそのこと、旧臣も抵抗軍もすべて取り込んでしまえばいい。
そもそも、皆だれしも帝国臣民なのだ。
帝国のために力を尽くして欲しいといえば、聞いてくれるのではないか。
彼の、ある種、甘いとさえいえる考えは、的中した。
東帝国の旧臣たちは、統一帝国成立のために躍起になって働いているというし、抵抗軍から統一政府に参加することになったものたちも、自分たちの行いが間違いだったと反省するとともに、名誉を挽回するべく、日夜職務に励んでいるという。
南ザイオン大陸の統一は、日々、少しずつ、しかし確実に進んでいるのだ。
「このままなんの問題もなく大陸の統一は進む。俺たちの出番は終わったってわけだ」
セツナは、壁面に飾られた南ザイオン大陸の地図を見遣りながら、つぶやいた。皇帝の執務室は、やはり広々としていて、ひとりで仕事をするには広すぎるといったほうが正しいだろう。広すぎて、逆に居心地が悪いのではないかと想わざるを得ないが、ニーウェハインには、関係がなさそうだった。高級そうな机に向き合う皇帝の表情は、普段と変わらない。
彼は、皇帝の仮面を外し、頭部に包帯を巻き付けたままの格好でそこにいる。包帯は、女神の力もあり、どうやら白化症の痛みをある程度抑えてくれる効果もあるらしく、そのことも彼は感謝していた。おかげで仕事に専念できる、という感謝の仕方がいかにも彼らしい。
「……感謝の念に堪えないよ。君たちにはね」
「何度もいっただろ。感謝したいのは、こっちのほうだってね」
セツナは、ニーウェハインに微笑み返した。何度もいったことだ。あのとき、ニーナがいなければ、交渉を持ちかけてくれなければ、セツナは、大切なひとたちを失っていた可能性がある。
「おまえが感謝するべきはニーナさんにだぜ、ニーウェ」
「……ああ、そうだな。わかっているよ」
「それならば、よろしい」
セツナがおどけて告げると、ニーウェハインはきょとんとしたあと、くすりと笑った。半分が異形で、さらに半分が包帯に覆われ、人間と呼べるのはごく一部だけの素顔だが、笑えば屈託がない。
それからしばらく様々なことを話し合った。
「君たちは、これからどうするつもりだ?」
ニーウェハインがそんな質問をしてきたのも、雑談の一環だったに違いない。