第二千四百五十三話 神の影(八)
ニーウェハインは、丸二日、眠り続けた末に目を覚ました。看病に当たっていたミーティアやニーナたちはそれによって大いに安堵を得、セツナとマユリ神に多大な感謝を寄せたが、セツナはバツの悪さにあまり顔を合わせられなかった。
なぜならばセツナは、ニーウェハインの白化部位に襲われたことや、ニーウェハインの身に起きている出来事について、すべて沈黙を貫いていたからだ。ニーウェハインが白化症に冒されているという重大な事実に関しても、彼は口を閉ざしていたし、ニーウェハインの白化した部分がだれにも見られないよう、だれの目にも触れないよう最大限の注意を払い、皇帝専属医師にも、安静にすることが一番であると言い含めることで、彼の病状が明らかになることのないようにしていた。それがニーウェハインの心からの望みであり、また、彼と交わした約束なのだから当たり前のことなのだが、しかし、ニーウェハインを心底案じているニーナたちにまで隠し事をするのは、どうにも気の重い話だった。
無論、ファリアたちにもニーウェハインの身になにが起こったのかについては、話していない。
彼女たちの口が軽いわけではないし、むしろ口が硬いほうだということはわかりきっているのだが、それでも、だれにも話して欲しくないというニーウェハインとの約束のほうが勝った。
ちなみに、真霊の間での戦闘の痕跡については、マユリ神が復元することで掻き消している。真霊の間の外に音ひとつ漏れていなかったという事実が明らかになったことから、真霊の間でセツナがニーウェハインの白化部位に襲われ、激闘を演じたという事情を知るのは、セツナとマユリ神だけということになり、彼は胸を撫で下ろしたものだ。
ニーウェハインは、完全無欠の皇帝を演じている。少なくとも、なんらかの肉体的、精神的疾患に苛まれているという話はなく、極めて健康で快活なのがニーウェハイン・レイグナス=ザイオンという人間であり、だからこそ、西ザイオン帝国は東ザイオン帝国に対抗しうる勢力へと発展できたのだ、と、ニーナやランスロットがいっていた。
ニーウェハインが皇帝の仮面を被るようになってからというもの、彼は、ニーウェという人間から、皇帝ニーウェハインとなったのだ。そして、皇帝ニーウェハインは、先もいったように完全無欠といっていいほどの人格者であり、精神性の持ち主であると大いに喧伝された。先に帝都を抑え、皇帝を名乗り、勢力を作り上げたミズガリスに対抗するには、ミズガリスの数少ない欠点である正当性と人格面で攻めるのが一番だったからだ。
その戦略は大いに当たった。
西ザイオン帝国は、正当なる皇帝ニーウェハインの公明正大かつ単純明快なやり方によって瞬く間に勢力を増大させ、東帝国と拮抗する戦力を作り上げることができたのだ。
『そうである以上、皇帝ニーウェハインは、完全無欠でなければならないんだ』
『だったらなおさらだろ』
セツナは苦笑したものだ。
『俺には、完全無欠の皇帝なんて演じられないよ』
それはニーウェハインを最大限に賞賛する言葉でもあり、セツナは、もうひとりの自分たる彼のことを素直に尊敬できた。
そんな完全無欠の皇帝ニーウェハインが白化症(異形症)を患っているという事実が知れ渡れば、どうなるか。ようやく動き始めた統一帝国成立の流れに澱みが生じ、やっとのことで訪れようという南大陸の平穏と安寧の日々に巨大な影が差すのではないか。元々西帝国首脳陣だったひとびとはともかく、東帝国の旧臣の中には、いまもなおニーウェハインに対してわだかまりを持つものは少なくなく、そういった連中が待っていましたとばかりに騒ぎ出すのは目に見えている。またしてもミズガリスを担ぎ出すかもしれないし、別の皇族を囃し立て、決起させることだって十二分に考えられる。
統一帝国は発足したばかりであり、完全な一枚岩と呼べるような状態にはない。
そんな状況下では、ニーウェハインが不治の病にかかっているということを明らかにするわけにはいかないのだ。
これは、ニーウェハイン個人の問題ではない。南ザイオン大陸に住むひとびとすべての将来にかかわる問題なのだ。
慎重に扱わなければならないし、セツナはそのことをマユリ神にも強くお願いしていた。女神は快く引き受けてくれている。
マユリ神は、いつだってセツナの味方であり、そのことがなによりも嬉しく、なによりも心強い。
セツナがそんなことを想いながら足を向けたのは、至天殿上層部の一室で、皇帝の寝室だった。ニーウェハインは、あのあと、すぐにその部屋に運び込まれている。以来二日間、ミーティアがつきっきりで看病し、ニーナや三武卿を始めとする帝国首脳陣がひっきりなしに顔を見せたというが、いまは静かなものだ。
ミーティアに案内されるままに入り込んだ室内には、豪奢な寝台の上のニーウェハインと彼を看病しているのだろうシャルロットの姿だけがあった。ニーウェハインは、仮面を被ってはいないが、白化部位が完全に隠れるよう、幾重にも包帯が巻き付けてあった。その包帯はマユリの力によって封印されており、ひとの手で解けるものではなくなっている。ニーナや医師などには、女神印の治療術であると伝えており、だれもが納得するとともにマユリ神に感謝の言葉を述べたものだ。
「ミーティア……呼びに行ってもらったところ、済まないが、しばらくの間、ふたりだけにしてくれないか?」
「え、あ、うん……わかった。じゃ、じゃあ、なにかあったらすぐに呼んでよね」
「わかっている」
ニーウェハインがミーティアに笑いかけると、シャルロットも席を立ち、会釈をして部屋を出て行く。やがて大きな扉が閉ざされると、寝室内には、冷ややかなまでの静寂が満ちていく。夏の午後のことだ。外は暑く、歩いているだけで汗が流れるほどだが、至天殿内はまるで冷房器具でも効いているのではないかと疑いたくなるくらいに冷えていて、そのおかげで汗をかかずに済んでいた。構造上、風が常に流れるような仕組みになっているらしく、それも神の智慧によるものだろう、とは、マユリ神の談だ。
皇帝の寝室もまた、夏の気温の高さとは無縁なまでに冷えていて、それ故、薄着でいる必要がないのがニーウェハインにとって喜ぶべきことなのかもしれない。彼の体のうち、白化症が進行しているのは、どうやら頭部左側だけではないらしいのだ。着込んでいる限りは見えないような部分でも白化症が確認されており、そこも見られないよう、マユリ神によって包帯が巻き付けられていた。
広い室内。豪奢なのはなにも寝台だけではない。建具から調度品の数々まで、皇帝の寝室と呼ぶに相応しい絢爛さであり、ちょっとした椅子ひとつとっても高級品だろうことは、聞くまでもなく想像がつく。
「なんとも豪華な寝室だな」
「最初の一言がそれか?」
ニーウェハインが憮然としながら告げてきたので、セツナは、室内を彷徨わせていた視線を寝台に向けた。天蓋付きの大きな寝台は、様々な宝石が装飾に使われていて、贅の限りを尽くしたといっても過言ではない代物となっている。その寝台の中、衣服を着込んだニーウェハインがこちらに顔を向けていた。右半身が見事なまでに黒く変容し、左半身の大部分が包帯に覆われた青年。セツナと鑑写しのはずの姿も、その一部分しか同一性を視認できないくらいに変わり果てている。ただ、その目は、鑑を見るようにそっくりだ。
まなざしも鋭い、赤い瞳のニーウェハイン。
その視線が寝台脇の椅子を示す。座れ、ということだろう。セツナは彼の意に従い、寝台の側に設置された豪華な椅子に腰を下ろした。それから、十分な間を置いて、口を開く。
「……目を覚ましてくれて良かったよ」
「……君のおかげだ」
そして、ニーウェハインは、想わぬことを言ってきた。
「なぜ、殺さなかった?」