第二千四百五十話 神の影(五)
「セツナ殿。任務のことやその他もろもろについての話は後でいいよね?」
ミーティアは、青年騎士が去った後、神妙な面持ちのまま、問うてきた。
真霊の間は、至天殿の中枢といっても過言ではないような位置にあり、重要な部屋であることは疑いようがない。ニーウェハインが閉じこもる場所として真霊の間を選んだのは偶然ではなく、必然だったのではないだろうか。真霊の間からならば、命令を発しやすいという利点がある。しかも、出入り口がひとつしかない上、窓がなく、出入り口さえ閉ざしてしまえば、外部から中を見られることがない。出入り口には三武卿を立たせれば、だれも立ち入ろうとはしないだろう。ニーウェハインが己の姿を外部から遮断する上で、真霊の間ほど利用しやすい部屋はないのだ。
そのことを考えると、余計に不安になる。
「あ、ああ……それは構いませんが、いったい……?」
「陛下が先程からセツナ殿の名を呼んでいるんだ。ずっと、ずっと……」
「俺の?」
セツナは、ミーティアからの予期せぬ発言に驚きを禁じ得なかった。
「うん。陛下だってセツナ殿が帝都にいないことは知っておられるはずなんだけど、どうも様子がおかしくて……こんなこと、いままで一度だってなかったんだ」
ミーティアの様子を見れば、彼女がいかに深刻に現状を捉えているかがわかろうというものだ。それはつまり、ニーウェハインの様子がいつもとは比べものにならないくらいおかしく、奇妙だということだ。たとえニーウェハインが白化症に冒されているという事実を隠していたとしても、常に彼の傍らにいる三武卿や大総督がなにがしかの異変を感じ取らないわけもない。それがなんであるかがわからないだけで、ニーウェハインがなにかしらの病状を抱えている可能性については思い至っているのではないか。だからこそ、不安が掻き立てられ、いまにも涙を零れさせそうな表情にもならざるを得ない。
セツナには、ミーティアたちが哀れでならなかったし、これ以上の心配をさせたくないからという理由で、白化症の発症についてひた隠しにするニーウェハインの気持ちもわかるから、沈黙するしかない。
「ランスロットもシャルロットも、ニーナ様だって、こんな状態の陛下は初めてだって」
「どういう状態なのでございます?」
「わからない」
ミーティアは、小さく頭を振る。その力のない挙措動作が、普段の自信と活気に満ちあふれた彼女からは限りなく遠いものであり、セツナはなんともいえない気持ちになった。
「直接逢ってお話することも許されなくて。それをしたら、絶対に許さないって……」
「陛下が?」
「うん。だからぼくは、ここで陛下の声を聞くしかできない。ぼくだけじゃない。ランスロットも、シャルロットも……ニーナ様さえ……」
ミーティアの声はいまにも消え入りそうであり、その姿のあまりの痛ましさに目を逸らしたくなるほどだった。ミーティアにとってニーウェハインがどのような存在なのか、いまの彼女の様子を見れば一目瞭然だろう。彼女にとってニーウェハインはなくてはならない存在であり、故に、ニーウェハインの体調が思わしくないらしいという情報だけで気が狂いそうになっている。彼女の心情は、非常によく理解できたし、だからといって隠し事をしているニーウェハインを悪くも想えず、セツナは、苦痛を抱くしかない。
ふと、ミーティアが真霊の間の荘厳な扉に歩み寄った。何事かと想って見ていると、彼女が小さくうなずく様子が目に入ってくる。
「……うん、いま、来たよ。わかった」
扉の向こう側から、ニーウェハインが何事かを発したらしく、ミーティアは、それに対して応じたようだ。そして、こちらに向き直った彼女の表情は、さらに曇って見えた。
「セツナ殿。陛下がとにかく中に入ってくれ、って」
「陛下が……?」
「うん」
「……わかった」
セツナは、うなずき、レムを一瞥した。レムが声もなく首肯してくる。ニーウェハインは、真霊の間にセツナ以外をいれたくないらしいのだ。レムはここで待機させておくしかない。
扉の前に向かうと、ミーティアがこちらを見た。そのまなざしには、複雑な感情が混じっていた。
「陛下のこと、くれぐれもよろしくね」
「ああ」
セツナは力強くうなずいて、ミーティアが開いた真霊の間の扉の隙間を通り抜けた。途端に扉が閉じられ、真霊の間は、完全な密閉空間となる。
真霊の間には、何度か足を踏み入れたことがある。一度目は、帝都強襲の際、降伏したミズガリスに案内される形で至天殿を巡っているときだった。二度目以降は、ニーウェハインら西帝国首脳陣が帝都に降り立ったのちのことであり、ニーウェハインの至天殿における活動拠点が真霊の間だったからだ。そして、だからこそ、彼は真霊の間に閉じこもったともいえるのだろう。
分厚い闇が、広大な室内を閉ざしている。魔晶灯の明かりひとつなく、どこを見回しても闇しかなく、足下さえ覚束ない状態だった。特にいまのいままで魔晶灯の光で煌々と照らされた至天殿内部にいたものだから、その差に目が驚き、たじろいでいるといっても過言ではない状態だった。セツナは、夜目は利くほうではあるが、だからといっていきなり暗闇の中に放り込まれれば、目が混乱するのほ当然であり、彼は目を細め、その場から動かなかった。
室内が暗闇に包まれている理由は、察する。
ニーウェハインのその姿をだれにも見られたくないという心理が、室内に暗闇を作り出させているのだ。彼の頭部は、白化症によって異形化が進行している最中だった。仮面さえつけていればだれにもわからないはずだが、どうやら、そういう状況ではないらしい。だからこそ、部屋に閉じこもり、だれとも顔を合わせないようにしているのだろうし、室内を闇で満たしているに違いなかった。
そんな彼の心理状態を察して、セツナは、武装召喚術を用いようとはしなかったし、魔晶灯を点灯させようとも想わなかった。闇に目が慣れるのを待ちながら、一歩一歩、慎重に前に進む。幸い、真霊の間の床は、平坦な作りになっている。駆け回ったりしない限りは、足を引っかけて転倒するような心配はないだろう。
「セツナ……か?」
不意に聞こえてきたのは、ニーウェハインの声だった。他人にいわせればセツナとそっくりそのままの声も、セツナ自身の耳には、自分の声と同じには聞こえない。録音した声を聞くのと似ているかもしれない。声は同じでも、内から聞くのと、外から聞くのとでは、感じ方が違うのだろう。
「ああ。俺だよ、ニーウェ」
セツナは、考え抜いた末に彼とふたりきりのときの砕けた言い方で応じた。すると、前方に反応があった。ぼうっと、淡い光が生じたかと想うと、強烈な圧力がセツナに襲いかかってきたのだ。
「良かった。間に合って……くれて……」
ニーウェハインは、力なく、疲れ果てたように告げてきた。かと想うと、前方の淡い光が膨大化し、室内の闇を一気に吹き飛ばした。視界が白く染まる。闇から光へ。目が潰れるかと想うほどの変化には、セツナにとっても耐え難いものがある。歯噛みして、踏ん張る。
吹き荒れる光の中心には、ニーウェハインの姿があった。
仮面を外し、異界化した右半身と白化症に半ばまで冒された左半身を持つ、もうひとりのセツナ。この世界におけるセツナというべき人物は、真霊の間の中心に座り込み、こちらを見ていた。赤く輝く双眸には感情のかけらも籠もっておらず、顔面の左半分――白化していない、素のままの人間の部分は、苦痛に歪んでいる。彼が白化症を発症したことで、凄まじい痛みの中で戦い続けていることは知っていたし、理解していたつもりだったが、いまの彼を見る限り、その痛みとはセツナの想像を遙かに超えているもののようだった。しかし、疑問もある。彼の言葉だ。
「間に合った? なにが……?」
セツナの疑問は、つぎの瞬間、一瞬にして吹き飛んだ。
ニーウェハインの頭部の白化した部位が突如として破裂したからだ。