第二十三話 オーロラストーム
「そうか」
ジオ=ギルバースは、部下からもたらされた報告に眉ひとつ動かさなかった。ガンディアがバルサー要塞を奪還するために動き出したという報告である。しかし、それは彼にとって想定の範囲内の出来事であり、驚くには値しないものだった。
ジオ=ギルバース。見た目には三十代半ばの男である。しかし、これまで散々苦労を重ねてきたのだろうか、その頭髪には白髪が混じり始めており、顔にはいくつもの皴が刻まれていた。
もっとも、彼の茶褐色の瞳からは生気は一切失われておらず、ガンディア進軍の報に触れ、むしろ光を放ち出していた。
待ちに待った時が来たのだ。
彼がログナーの将となって、早五年の歳月が流れていた。二十代で将軍に任命されたことで当初こそ国の内外から脚光を浴びたものの、戦場を飛び回ったにも拘らず碌な戦果も上げることができなかった彼は、やがて、ログナーの将士や民にも愛想を尽かされ、挙句の果てには黙殺されるようになってしまった。
どこで道を違えたのだろう、と想わないこともない。二十代で一軍の将となった彼には、本来ならば薔薇色の未来が待っているはずだった。大きな失敗さえしなければ、身の程を弁えてさえいれば、栄光に満ちた日々が約束されていたのだ。
だが、彼は、道を踏み外してしまった。光り輝く将来への架け橋を渡ることさえできず、急転直下。彼はいまや、ログナーの無能将軍の名をほしいままにしていた。
(それも今日までだ……!)
ジオは、強く拳を握った。これまでの様々な苦労が、閃光のように脳裏を駆け巡っていく。
今日のこの日のために地を這い、泥をすするような真似をしてきたのだ。どのような陰口を叩かれようと、薔薇色の将来に返り咲くためなのだ。辛くはあったが、我慢はできた。それよりも、無能将軍のままでいることのほうがよっぽど苦痛だったのだ。
そう、ジオは、バルサー要塞の指揮官となるためにあらゆる手段を講じたのだ。王侯貴族に取り入り、軍内部での発言権を高め……ようやく、このバルサー要塞の指揮官としての任命を受けることができた。
バルサー要塞は、半年前、ログナーがザルワーンの協力を得て、やっとの想いで落とすことのできたガンディアの要塞であり、領土防衛とガンディア侵攻の要である。ジオ=ギルバースのこれまでの功績からしてみれば、どう考えても分不相応な役目には違いなかった。そのことで、彼への誹謗中傷が増大していることも、ジオ自身理解していた。
しかし、それも結果次第で変わり得るものだと、彼は信じていた。
つまり、いずれ要塞の奪還に来るであろうガンディアの軍勢を打ち破り、その勢いのままマルダールを押し潰し、さらに王都ガンディオンをも制圧する――それほどの戦果を見せ付ければ、だれもかれも口を閉ざすしかないだろう。そして、賞賛するのだ。
(ログナーの英雄……と)
ジオは、即座に命令を発した。バルサー要塞に駐屯する全軍を以て、ガンディア王国軍を迎え撃ち、撃滅するために。
バルサー平原は、ガンディアの北部に広がっている。マルダールからは、徒歩で二日といったところか。
かつてガンディアの領土であったはずのこの平原一帯は、その名を冠する要塞が陥落したことで、一瞬にしてログナーの支配下に置かれるようになった。とはいえ、支配する国が変わったところで、地形に変化が訪れるわけもない。
遮蔽物の見当たらない、だだっ広い大地が、悠然と横たわっているのみだ。
その大地に打ち込まれた楔が、バルサー要塞である。巨大で分厚い城壁は五角形の星を象っており、その外観の見事さは、見るものに呼吸を忘れさせるほどだという。
幾度となくログナーの侵攻を退け、ザルワーンの加勢さえもものともしなかったバルサー要塞は、いつごろからか難攻不落の代名詞となっていた。そしてそれは、要塞がログナーの手に落ちてからも、失われることは無かった。
その強烈なイメージを払拭できないのは、なにも敵国だけではない。ガンディアの兵士たちも同じである。むしろ、ガンディア国民にとってバルサー要塞の存在は、大きくなりすぎていたのかもしれない。それは、度重なるログナーの侵攻をことごとく阻んできたという事実と、ガンディア軍の誇大な宣伝によって植えつけられたものに違いない。
もっとも、セツナにはそのバルサー要塞とやらがどれだけ凄いのかなど、わかるはずもなかった。
行軍中、要塞に関する話なら散々聞かされてはいたのだ。耳に蛸ができるくらいというのは言い過ぎにしても、うんざりするほどには聞かされただろう。シグルド、ジン、ルクスを始め、《蒼き風》に所属する傭兵の皆様方から、懇切丁寧に教えてもらったわけだが、しかし、セツナの頭には、ほとんど残っていなかった。
たったひとつの出来事を除いて。
(クオン……)
セツナは、胸中であの少年の名をつぶやいてから、慌てて頭を振った。くだらないことを考えている場合ではない。あの少年が、バルサー要塞においてどれほどのことをしたとしても、いまのセツナには関係のない話だった。
いまは、目の前のことに全力を注がなければならない。
でなければ、死ぬだけだ。
「さあて! 張り切っていこうか?」
シグルドの大声が青空の下に響き渡ったのは、ちょうど太陽が中天に至る頃合だった。日差しは極めて強く、鎧を着込んだセツナには辛いものがあった。もちろん、それはほかの連中も同じだろう。
《蒼き風》の傭兵やそれ以外の傭兵は、それぞれ思い思いの鎧を身に付けていた。各国の正規軍とは違い、揃える必要がないのだ。全身鋼鉄の甲冑で覆いつくしたものもいれば、胸当てだけといった軽装のものもいる。余程腕に自信があるのか、単純に着込むのが嫌なのか、どうか。
ともかくも、なにやら曲者揃いといった感のある傭兵たちの中で、一際異彩を放つのが、セツナとファリアのふたりなのかもしれない。紅一点のファリアが浮くのは当たり前であり、素人同然のセツナが目立つのもまた、当然である。
仕方のないことには違いない。
ふたりが《蒼き風》と行動をともにしているのは、レオンガンド直々の命令であったのだ。そもそも、ふたりはガンディア王国に仕えているわけではない。よって、正規軍として行動するのは難しいということなのだ。故にふたりは傭兵部隊に配属され、結果として、傭兵部隊の指揮権を握った《蒼き風》団長シグルド=フォリアーの支配下に入ったのだ。
そのことに関して、セツナは特に不満を抱くこともなかった。そういうものか、と想っただけである。レオンガンドの頼みに応じて参戦したものの、だからといって、特別待遇を期待したわけではない。最初からすべてが都合よく進むわけもない。
(傭兵……傭兵か)
響きとしては、悪くない。その実態はよくわからないものの、無名の傭兵が大活躍するのも、いいかもしれない。もっとも、それにはまず、活躍するだけの実力を身に付けなければならないのだが。
セツナは、ふと、右隣に立つファリアを一瞥した。彼女は、女性用に作られた軽装の鎧を身に付けており、スタイルの良さがまったく損なわれていないことには驚くしかないだろう。
ファリアは、瞑目し、なにかをぼそぼそとつぶやいているようだった。
セツナは、彼女がなにをしているのかはわからなかったが、そっとしておくことにした。声をかけたかったが、邪魔をするのはよくない。
「セツナはちゃんと覚えてるかい?」
「え?」
いきなりセツナに声をかけてきたのは、ルクス=ヴェインである。突然の呼びかけに、セツナは目を丸くしてしまった。
「戦術について、さ」
ルクスは、この軍勢の中でただひとり、私服そのままといっても差し支えのない出で立ちだった。胸当てひとつ身に付けていないのだ。簡素な衣服に革のジャケットを羽織り、とてつもなく長い剣を背負っている。
「いや、まあ、それなりに……」
セツナは、返答に窮して、しどろもどろになった。行軍中、ジン=クレールから聞かされてはいた。バルサー要塞周辺の地形を始め、ガンディア軍の編成及び各軍の陣形、その進攻経路など、この戦いに関する必要最低限の情報をある程度噛み砕いて教えてもらったのだが、やはり、セツナの頭には入りきらなかった。
地形を頭の中に思い浮かべることは不可能だった。編成を脳裏に描くなどもってのほかであり、陣形についてはもはや言うべき言葉すら見当たらない。おぼろげな輪郭のみが、セツナの脳裏に浮遊しているといった有様だった。
(我ながら頭が悪すぎる……)
失意の底に落ちかけたセツナを救ったのは、ルクスの明るい言葉だった。
「それなり、か。それでいいと想うよ。目の前の敵を蹴散らすのが、俺や君の役目だろう? 頭を使うのは副長に任せとけばいいよ」
それを当然のことのように告げてきたルクスに対し、セツナは、ただひたすらに感謝したくなった。彼の一言で、心が救われてしまったのだ。難しいことを考えなくていいということほど、セツナにとってありがたいことはなかった。
と。
「武装召喚」
涼風のような声とともに、眩い光がセツナの視界に差し込んだ。ファリアが、みずからの武器を召喚したのだろう。ということは、さきほど口にしていたのはなにかしらの呪文だったのかもしれない。
セツナは、ファリアのほうに目を向けた。
召喚を終えた彼女は、どこか、恍惚としたような表情を浮かべていた。そのとろんとした瞳には、ぞくっとするほどの色気があった。
「オーロラストーム――わたしの召喚武装よ」
ファリアの左手に握られたそれはまるで、大空を羽ばたく怪鳥のような異形の弓だった。