第二千三百九十四話 誓いの谷にて(ニ)
レキシア大渓谷を満たしていた水は、南の石壁を破壊したことで大いに引いていた。北の堤が壊されたままである以上、完全に引くということはないものの、少なくともビノゾンカナンが水上に孤立することはなくなっただろう。ただし、ビノゾンカナンから東西に渡されていた橋が押し流されてしまったため、いまは、大渓谷の狭間に浮かんでいるかのような状態で孤立している。
「水は引いたが……」
セツナは、廃墟の如き様相を呈している東帝国軍陣地からレキシア大渓谷を覗き込める位置まで移動すると、大渓谷の断崖絶壁ぶりを把握するとともに、さながら孤島のように佇むビノゾンカナンの台地に目を留めた。大渓谷が水に満たされていたときは、まるで中州のようですらあったビノゾンカナンだが、その水が引くと、とても中州などとは呼べないほどの地形であることがわかる。それも、“大破壊”の影響ではなく、数百年前からほとんど変わらない地形なのだというのだから、驚きだ。
もっとも“大破壊”以前の、ワーグラーン大陸の地形そのものが作られたものである以上、大渓谷が自然にできあがったものかどうかは疑問の残るところだ。なにかしら、手が加えられたものだとしても、おかしくはない。
「それなんだけど、マユリ様がなんとかしてくださるそうよ」
「マユリ様が?」
「うん。ここに来る途中で話したのよ。ビノゾンカナンについてね」
そういって説明してくれたのは、ファリアだ。彼女は、石壁破壊の疲労を微塵も見せなかった。
「橋を作るにしても時間がかかるでしょうし、同じような強度だと、また押し流されかねないでしょ。だから、もう少し強度のある橋を作ってくださるって」
「なるほどな」
「でもそれだと、敵が攻めてきたときに橋を落とす戦法が使えないんじゃない?」
ミリュウがセツナの左腕に自分の腕を絡みつけてきたが、ファリアは反応ひとつ見せなかった。まるで当たり前とでもいったように受け流し、返答する。
「そうよ。だから、どうするかは西帝国の判断次第ってわけ」
「ああ、そういうことね」
「だとさ」
セツナが話を振った相手は、ランスロットだ。彼も、セツナ一行とともに大渓谷の様子を見に来ていた。彼だけではない。捕虜を監視中の兵を除くほとんど全員が、水の引いたビノゾンカナンの状態を確認するべく、本陣のあった丘を降りてきていた。
ランスロットは、しかし、突然話を振られ、困惑を隠さない。
「はい?」
「だから、ビノゾンカナンの橋についてだよ。もう一度人力で橋を架けるか、それとも、うちの女神様に硬い橋を架けてもらうか、どっちがいい?」
「それ、俺が決めるんです?」
「あなたは三武卿のひとりでしょう、光武卿。立場は、総督よりも上だったはず」
「……まあ、そうですけど」
ランスロットは、あからさまなまでに困ったような顔をすると、しばし虚空に視線を彷徨わせた。そして、はたと思いついたように左を向く。視線の先には、ミルズ=ザイオンが立っている。
「ミルズ総督閣下」
「わたしに意見を聞くつもりかね」
「そりゃあ、ビノゾンカナンは南部大戦団が統治しているようなものですしね。防衛するのは、南部大戦団の軍勢。それなら、どうしたいかを決めるのは、やはり当事者である総督閣下でなければ」
「ふうむ……」
ミルズは、ランスロットに意見を求められ、悪い気はしなかったのだろう。慎重に言葉を選ぶようにしながらも、どこか表情が緩んでいる。
「中々に難しい問題だな。護りを考えれば、以前と同様の橋を架けるべきかもしれんが、今回のような水攻めに遭えば、あの橋では頼りない。同じ戦法を食らうつもりはないが、とはいえ、北と南の状況を常に把握できるわけもない」
「俺個人としては、硬い橋にしてもらえばいいのではないかと思いますがね」
ランスロットが軽い調子で告げる。
「早晩、東帝国は倒れますから」
「ほう?」
「総督閣下もご覧になられたでしょう。セツナ殿御一行が力を貸してくださるのですから、我々が負ける道理がない。いや、むしろ、勝てなければおかしいんです」
「ふむ……」
ミルズは顎に手を当て、考え込むようにした。
セツナは、ランスロットの評価にこそばゆいものを感じながら、周りを見た。ミリュウ、ファリア、レム、シーラ、エリナ、ダルクス、エスク。現状、セツナが自由に扱える戦力、手駒というのはこれだけだが、これだけが、とてつもなく頼もしい。エリナこそまだ一流の武装召喚師とはいえないものの、彼女以外は、いずれも一線級どころではない実力者揃いだ。そのエリナですら、召喚武装の支援能力は並々ならぬものがあり、エリナがいることでセツナたちの力は何倍にも膨れあがりうる。故に全員が必要不可欠なのだ。
エリナも、日々、成長している。それも、ミリュウをして天才中の天才といわしめるほどだ。希有な才能に弛まぬ努力、経験の数々がエリナの成長を加速させていた。だからこそ、どのような戦場でもひるまず、皆の支援に専心することができるのだろう。
彼女の成長こそ、セツナたちの勝利の鍵となり得るのではないか
ミリュウが本気で信じていることをセツナも信じたくなったりしたが、止めた。それでは、彼女に責任を押しつけることになりかねない。勝利の鍵は、自分でなくてはならないのだ。
「確かにな。セツナ殿のお力は、わたしがこれまで目にしてきたどの武装召喚師よりも強大だ。いや、セツナ殿だけではない。いずれの方々の実力、技量ともにわたしの想像を遙かに超えるものだった。陛下が、セツナ殿を同盟者として迎え入れた理由も理解できるというものだ。なるほど、東帝国など、いまや敵ではないか。その通りやもしれぬ」
ミルズは大いにうなずくと、ランスロットに目を向けた。
「わかった。卿のいうとおり、硬い橋を架けて頂こう」
「だ、そうです」
「――ということだ」
セツナは、ランスロットにうなずくと、トールモールを通して女神にありのままを報告した。すると、腕輪型通信器上に浮かび上がった小さな女神の幻像が小躍りした。自分の案が受け入れられたことを素直に喜んだのだろうが、そんな女神のはしゃぎっぷりには、セツナもかける言葉も見つからなかった。
マユリ神は、ウルクナクト号を地上に降ろすなり、船外に姿を現した。
真夜中の闇の中でも燦然と輝く女神の姿は、神々しいという以外に表現のしようがなく、セツナは、改めて神の助力によって自分たちが生き延びることができているという事実を認めた。そして、神の偉大なる力を目の当たりにする。
女神は、地上に姿を見せるなり、レキシア大渓谷東側の端に立ち、四本の腕を振り翳した。女神より神威が拡散する。大渓谷東側とビノゾンカナンの間を膨大な量の光が飛び交いながら、なにかが作り上げられていくのがわかる。大渓谷の虚空を乱舞する無数の光によって描き出される神秘的かつ幻想的な光景には、セツナたちも見惚れるほかなく、だれもが言葉を失った。
そして、光の乱舞が終わるころには、巨大で複雑な構造をした橋ができあがっていた。
あっという間の出来事で、セツナたちは、マユリ神の力のほどを改めて理解し、彼女が協力してくれているという事実に対し、何度目かの感謝を思い浮かべた。
「つぎは、あちら側だな」
マユリ神は事も無げに告げてくると、セツナたちが呆然としている間に姿を消した。
やがて、ビノゾンカナンとレキシア大渓谷を結ぶ橋が完成したのは、夜が明けるよりもずっと早い頃合いであり、セツナたちもミルズたちも、絶句するほかなかった。
それが神の力なのだといわれればそれまでだが、それにしたって、想像を絶するものがある。
召喚武装の能力を利用すれば、人力で橋を作るよりはずっと早く作れただろうが、女神の製作速度には到底敵うまい。
「神様だもん。敵うわけないとは思っていたけどさ」
「改めて見せつけられると、とんでもないわね」
ミリュウもファリアも、呆然と褒め称えるしかないといった様子だった。
だれだってそうだろう。
特にミルズ以下西帝国将兵たちは、本物の女神が味方についているという事実をようやくのことで理解し、沸きに沸いた。セツナたちが味方につく以上の盛り上がりは、当然といえる。
神様が味方についているのだ。
東帝国なにするものぞ、と、息巻くのも無理のない話だった。