第二千三百九十二話 誓いの谷の戦い(十二)
ミナ=ザイオンは、気性の激しい娘だ。
才覚があり、実力もある。生まれ持って他の兄弟より優秀であることを自覚していたらしい彼女には、兄や姉、弟や妹が無能に見えて仕方がなかったようだ。子供のころ、彼女は無邪気にも兄弟を馬鹿にした発言をし、親兄弟に窘められたのだが、なぜ怒られているのかわからないといった素振りを見せていた。彼女には、世界が愚鈍に見えていたのだろう。
そんな優秀な彼女だが、三公五爵のいずれに選ばれなかった。
そのことが彼女の性格をさらにねじ曲げていったのは、想像に硬くない。
ほかはまだいい。
庶子とでもいうべきニーナとニーウェに五爵の位を奪われれば、ミナのような気位が高く、自尊心の塊のような人間には、憤死するほどに許しがたかったはずだ。しかし、父である先帝の考えには反対することなどできるわけもなく、彼女は、悶々と日々を過ごしていたのだろう。
そうして、世界大戦、大崩壊を経たいま、彼女がミズガリスに付き、ニーウェと敵対するのは運命のいたずらとはいえない。必然だろう。たとえ彼女の転移先が西側であったとしても、彼女は東側についたはずだ。東側に辿り着きながら、すばやくニーウェの元に身を寄せたイリシアのように。
そして、こうなる運命だったのだ。
ミルズは、敵本陣においてただひとり立っているミナを見遣りながら、小さく息を吐いた。壮麗な甲冑を身に纏うミナの姿は、勇壮であり優美というほかないのだが、その怒りと憎悪に満ちたまなざしは、皇族の血が作り上げた美貌を台無しにしているとしか言い様がなかった。
「……あなたの負けだ」
セツナが告げれば、ミナは剣を掲げ、叫ぶのだ。
「わたしはまだ負けてはいないぞ……! こうして、立っている……!」
ミナの憤激は、セツナという圧倒的な力の持ち主を前にして、為す術もない自分自身の無力さに対するもののようであり、それがわかれば彼女が多少なりとも愛おしくなった。相手は、理不尽の権化のような存在だ。負けて当然といえる。それなのにミナは己の無力さを口惜しがり、自分自身に対して、言いしれぬ怒りを感じているのだ。相手にではなく、自分に、だ。それはつまり、この敗北の原因を外にではなく内に向けているのであり、彼女の成長を感じさせるものでもあった。
かつての彼女ならば、この敗北の理由を周囲の愚かさに求めたのではないか。
そして、震える切っ先を見れば、彼女がもはや戦う力も残っていないことは明らかだ。敵う相手ではないと見切っている。立ち向かっても敗れ去ることを理解し、それでもなお挑もうとしているのは、そうしなければならないからだ。そうしなければ、皇族ミナ=ザイオンとしての自尊心が死ぬ。自尊心だけで今日まで生きてきたのであろう彼女にとってそれは、死そのものといって過言ではあるまい。
故に彼は、セツナの背後から彼女に声をかけたのだ。
「……いや、おまえの負けだ、ミナ」
セツナがゆっくりと矛を引いたのは、ミルズが説得に乗り出したからだろう。切っ先を向けたままではまともな話し合いはできない、と、彼が考えてくれたのだ。そのことに感謝しつつ、ミナの鋭い視線に苦笑する。
「おまえは……!」
激しいのは、視線だけではなかった。声高に叫んできた彼女の表情、一挙手一投足がどうにも激しく、烈火のようだった。
「敵と廻ればおまえ呼ばわりか、ミナ」
「……敵は敵だ。違うか」
「違わぬ。だが、敵とはいえ、家族、兄妹であることに変わりはあるまい。その事実を否定することはできんよ」
「親兄弟とて、敵に回れば同じ事だろう。それともなにか。親兄弟には手を抜けというのか」
「そうはいっていない。ただ、敬意を忘れるな、といっている」
「敬意……敬意だと」
ミナが手を震わせながら、こちらを睨んできた。震える切っ先がセツナからミルズに向く。同時に鋭く踏む込んできた。叫び声。
「そんなもの、最初から持ち合わせてはいない!」
「……まったく、困った子だ」
ミルズは、剣を抜いて、抜き様に、ミナのまっすぐな突きを捌いて見せた。立て続けに叩きつけられる斬撃を受け止め、目の前の妹の顔を見据える。ミルウーズの若き日の肖像画によく似たミナの美しい容貌は、怒りの炎に歪んでいて、それがひどく残念だった。
「おまえは、兄弟の中でだれよりも優秀だと自負して止まない自分が、なぜ先帝によって五爵に選ばれなかったのか、まだわかっていないようだ」
「なにを……いっている……!?」
「そういうところだよ、ミナ」
剣を何度となくぶつけ合いながら、ミルズはいった。
「生まれ持って優秀なおまえには、他者が愚かに見えて仕方がないのだろう。いまでさえ、おまえにはわたしが愚か者としか映っていない。だから、わたしの言葉も声も響かない。わたしの忠告にも警告にも耳を貸さない。この敗北の現実が見えない」
「わたしは……!」
「負けたのだよ、おまえは。彼によって、な」
彼は、剣を受け止めたまま、セツナを一瞥した。同時にセツナがこの戦闘に一切の手出しをしないことに感謝する。セツナがミナの行動を読めなかったわけはないし、止められなかったはずもない。しかし、ミルズの意図を察した彼は、自分の手でミナを制圧するよりも、ミルズに任せると判断してくれたのだ。その結果、ミルズが斬られるようなことは考えてはいまい。
その可能性があれば、ミルズの意図など黙殺したかもしれない。
実際問題、そうなる可能性は、決して低くはなかった。
なぜならば、ミナは才能の塊だからだ。先もいったように、彼女は生まれながら様々な才能を持ち合わせていた。それこそ、兄妹の中で特別といっていいほどに恵まれた人間であり、その素養は、日々の鍛錬の中で素晴らしいといっていいほどの成長を遂げ、開花させていった。剣の腕についても、兄妹最強のニーナに並ぶほどであり、ミルズでは太刀打ちできる相手ではない。
しかし、ミルズはいま、ミナの剣筋を読み切れていた。
変幻自在故に捉えられない彼女の剣は、感情が乗った瞬間、極めて直線的なものに成り果てる。そうなれば、ミルズにも対処のしようもあるのだ。
「認めよ。そして、西に降れ。ミズガリスの下へ戻っても、おまえは栄達できぬぞ。あの男は、おまえを利用しているだけだ。利用するだけ利用して、必要がなくなればおまえからすべてを奪うだろう。あの男は、おまえと同じなのだからな」
「わたしと同じ……?」
「そうだ。あの男もまた、生まれ持った才能故、他者が愚鈍に見えて仕方がなかった。物心ついたときからだ。彼はいつだって、自分以外の他人を見下していた。父上でさえ、あの男には愚昧に見えていたそうだよ」
「父上でさえ……」
ミナは、さすがに言葉を失ったようだった。絶句しただけではなく、顔面を蒼白にさせたのは、彼女がまだしも、先帝シウェルハインと実母であり皇帝正室のミルウーズについては、心の底から尊敬していたという事実があるからだろう。自分の父と母だから尊敬していた、ということではあるまい。彼女のことだ。尊敬に足る人物とそうではない人間の区別は、もっと別のところでしているに違いなかった。そして、それにかなう人物だからこそ、彼女は父シウェルハインの判断については文句ひとついえなかったのだ。
そんな彼女にしてみれば、ミルズのいったミズガリスの真実は、衝撃以外のなにものでもなかったようだ。
「陛下が……父上さえ見下していた、というのか? 嘘だ……」
「考えてもみよ」
力を失ったミナの剣を打ち払い、彼は告げる。
「あの男が父上を心底尊敬していたというのであれば、その遺命を尊重しないのはなぜだ? 父上が皇位継承者として指名したのは、ニーウェだったはずだ。ニーウェこそ、父上亡き後のザイオン帝国を支える存在にならなければならなかったはずだ。だというのに、あの男は、混乱を収めるという大義名分を掲げ、皇帝を僭称したのだ。それは即ち、あの男が父上を歯牙にもかけぬ存在であると見下し、遺命さえ踏みにじっているということにほかならぬのではないか」
「そ、それは……」
仕方がなかった、と、彼女はいいたかったに違いない。
ミナのいいたいこともわからないではないのが、ミルズの辛いところだ。ミルズもまた、彼女と同じだ。彼女と同じで、帝国の混乱を収めるべく、ミズガリスの皇帝僭称について、見て見ぬ振りをしようとした。まずは、帝国臣民の安寧のため、帝国領土の混乱を鎮め、秩序を打ち立てるべきだと考え、そのためには、皇帝という柱が必要だと考えたのだ。無論、皇帝には、ニーウェこそが相応しい。そんなことはわかりきっていた。しかし、ニーウェが生き残っているのかもわからなければ連絡の取りようもなく、探そうとしている間に帝都ザイアスを掌握し、皇帝を名乗ったミズガリスを利用するのが手っ取り早かった。
なによりもまず、帝国領の混乱を鎮めるのが先決だったのだ。
皇帝僭称を責めるのは簡単だった。しかし、そのために新たな混乱が生み出されるのは、避けるべきだと彼は判断した。彼だけではない。ミズガリスの皇帝僭称を受け入れた大半のものの考えというのは、そこにあると見ていい。混乱の拡大を恐れ、なおかつ、帝国の秩序を取り戻すには、皇帝の威光こそが必要不可欠と判断したからこそ、彼に付き従ったのだ。
「おまえのいいたいこともわからぬではない。しかし、ならば、いまこそ真実に向き合うべきだ。あの男は、皇帝を僭称し、いたずらに混乱を拡大させているに過ぎない。我らが帝国皇帝は、ニーウェハイン陛下をおいてほかにはおらぬのだ」
ミルズは、ニーウェハインへの忠誠心を隠さなかった。そのことは、ミナにとっては衝撃のはずだ。ニーウェを認めなかったのは、なにもミナだけではない。ニーウェとニーナの姉弟は、ミルズたち二十人兄弟の中で常に仲間外れだった。争いごとを嫌うマリシアと、ニーウェと同い年のイリシアだけが、ふたりに対して寛容であり、家族として付き合っていた。
ニーウェを皇帝と認め、臣従することは、これまでの価値観を否定することであり、自分の人生を否定するのに等しい。それ故、誇り高きミルズがそのようなことを認めることは、ミナには信じ難いことだったはずだ。
「降れ。ミナ。そして、わたしとともに陛下を支えてやってくれ。それが先帝の御遺志であり、願いなのだ。そして、それこそがこのザイオン帝国に真なる平穏をもたらす唯一無二の方法なのだ」
ミナは、言葉なく、立ち尽くしている。剣を弾かれ、散々に言葉を叩きつけられ、悄然とした彼女の姿は、痛々しいというほかはない。
「それとも、東に戻るか? 暴君ミズガリスの下に」
「……この状況で戻るもなにもないだろう。元よりわたしに選択肢などはない、違うか」
「そうだな。その通りだ。さすがはミナ。状況がよくわかっている」
「馬鹿にしているのか」
「いや、そういうつもりはないよ。ただ、わたしとしては、おまえには投降し、西帝国の一員になって欲しいというだけのことだ」
「……考えておく」
彼女が顔を俯け、発したその一言を聞いた瞬間、ミルズは、わき上がる感情を抑えるのに必死にならなければならなかった。ミナが妥協的に発言したのは、彼の説得が功を奏したということにほかならない。でなければ、彼女は頑なに認めなかったはずだ。
「そうか」
彼は、喜びを噛みしめるようにいい、セツナに向かってうなずいた。
ミナが敗北を認めたことで、戦いは終わった。




