第二千三百八十九話 誓いの谷の戦い(九)
「ひゃっふうううっ!」
耳朶に飛び込んできたのは、エスク=ソーマの歓喜にも似た大声だった。
見れば、天幕が粉々に吹き飛んでいく様を目の当たりにする。布や木材が天を舞い、兵士たちが悲鳴を上げて、逃散していく。虚空砲による衝撃波が天幕を根こそぎ吹き飛ばしたのだろう。彼は、ソードケインがなくても十二分に戦える肉体を手に入れている。常人とは比較しようのない究極の戦士といっても過言ではあるまい。
東帝国軍陣地は、混乱真っ只中にあった。
真夜中。
睡眠を取るために天幕に籠もっていただろう兵士たちの多くは、セツナが最初に叩き込んだ攻撃が起こした轟音と激震によって、眠りから叩き起こされたはずであり、半覚醒状態のまま天幕を飛び出したはずだ。そして、敵襲と水攻めの失敗を知り、混乱のただ中を逃げ惑うなり、迎撃に動くなりしている。数万の将兵がいる陣地が蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
それもそうだろう。
彼らは、おそらく勝利を確信していたはずだ。
ほぼ完璧に近い水攻めによってビノゾンカナンは水上に孤立し、無援の状態だった。西帝国軍の援軍が向かおうにも、東帝国軍の警戒網が凄まじい精度で道を阻み、補給物資を届けることさえできない。このまま時が経てば、ビノゾンカナンは枯れ果て、降伏する以外の道はなくなっていた。ミルズ=ザイオンは、東帝国への降伏だけはできないと、決死の特攻を考えていたようだが、それも失敗に終われば、統率を失ったビノゾンカナンは降伏以外の選択肢を失ったに違いない。
それ故、東帝国軍は余裕を持って陣地の構築に勤しむことができていた。その余裕に満ちた態度、行動は、ビノゾンカナンに籠もる連中に精神的動揺を与える意味もあるだろうが、そうでなくとも勝利を確信している以上、急ぐ必要がなかったのだ。
ゆっくりと時間をかけて、敵が降伏するのを待てばいい。
ただそれだけのことで勝利が転がり込んでくる。
熟れた果実をもぎ取るよりも確実に。
だからこそ、東帝国軍は余裕を持って陣地の構築に勤しんでいた。無論、ビノゾンカナンに補給物資が届かないよう、援軍が到達しないよう、全力を挙げながら、だ。そうして転がり込んでくる勝利を待ち望みながらも、最悪の可能性を考慮して、堅牢かつ巨大な陣地を築きつつあったのだ。
その陣地が一瞬にして戦火に飲まれ、壊滅の一途を辿ろうとしている。
まず最初に攻撃を加えたのは、セツナだ。
東帝国軍陣地内において、警戒中の兵士たちがレキシア大渓谷の水嵩の減少を確認し、その衝撃が強烈な威力をもって敵軍全体に波及していくのを把握したとき、彼は、敵陣を襲撃した。たったひとりで飛び込み、陣地を構成する様々なものを破壊していった。柵や天幕を焼き払い、吹き飛ばし、敵兵たちを追い散らす。ミルズ率いる五千人の将兵には、敵陣の混乱が拡大したあとに突入してくるようにいってあった。彼らには、こちらの人数が膨大であると錯覚させるという重要な役割がある。そのためには、まず、敵軍将兵に盛大に混乱してもらう必要があった。
南側から北上したセツナが東帝国軍陣地内を縦横無尽に暴れ回り始めると、しばらくして北側から南下したミリュウたちが陣地に到着し、ようやくのことで挟撃の形となった。
ミリュウがラヴァーソウルでもって薙ぎ払えば、シーラがハートオブビーストを振り回しながら駆け抜ける。レムが“死神”たちを総動員し、ダルクスが重力球でなにもかもを押し潰していく。エリナはそれらの支援を行い、エスクは、ホーリーシンボルによって自己強化し、虚空砲を乱射する。
破壊の嵐が巻き起こり、東帝国軍陣地は、瞬く間に地獄の様相を呈していく。
だが、死者は出ない。
セツナたちが積極的に帝国兵を殺そうとはしないからだ。混乱を起こすためだけに破壊を行い、力を振るっている。無論、だれも彼もが逃げ惑うわけではなく、中には勇敢にも立ち向かってくるものたちもいる。しかし、それら将兵が召喚武装の使い手でもなければ、手加減という言葉すら生ぬるいほどの力加減で撃退することができた。メイルオブドーターの翅で優しく撫でてやるくらいで、打ちのめすことができる。そしてその程度ならば、殺すには至らない。セツナは、やっとのことで敵を殺さず、戦意を奪う戦い方を見出した気がして、にやりとした。
敵とはいえ、殺さずに勝利する方法があるのであればそれに越したことはない。
殺す必要があるのであればともかく、そうでない以上、それ以外の方法を模索するのは当然のことだ。これ以上、無駄に命を奪う理屈はない。
しかし、そういっていられるのは、相手が召喚武装も持たない常人の将兵が相手だからだ。決して帝国の軍人が弱いわけではない。数百年に渡って積み上げられ、洗練された鍛錬法によって鍛え上げられた将兵はいずれも小国家群の将兵とは比べものにならないほどに強く、研ぎ澄まされている。ひとりひとりの力もさることながら、部隊としての動きも洗練されたものだった。だが、いかんせん、ただの人間だ。ただの人間が黒き矛の使い手たるセツナに食い下がれるはずもない。矛を叩きつける必要すらないほどの一方的な勝利の連続だったが、その余裕にわずかながら水を差したのは、東帝国軍の武装召喚師たちだ。
当然、予想していたことではある。
敵陣地には、多数の武装召喚師がいた。常にビノゾンカナンの動向を注視していなければならない以上、数人から十数人単位の武装召喚師が監視任務についているはずであり、それら監視任務についていただろう武装召喚師が真っ先にセツナたちに対応した。
帝国には最大二万人もの武装召喚師がいたという。
そのうち、どれほどが最終戦争、“大破壊”を生き延びたのかは不明だが、少なくとも西帝国と東帝国にはそれぞれ二千人あまりの武装召喚師が所属しているといい、その二千人のうちのいくらかがこの陣地にいるはずだった。ただ、一割も投入されているとは考えにくい。
西帝国と東帝国の戦場というのは、国境の北から南まで無数にあり、それぞれの戦場に数多の兵力が投入されているという。しかも、各都市の防衛にも戦力を割かなければならず、必ずしもひとつの戦場に多大な戦力を突っ込める状況ではないのだ。だからこその長期に渡って均衡状態が築かれていたのであり、ラーゼン=ウルクナクトという超人がその均衡を崩す力となり得たのだ。
セツナを包囲した武装召喚師は、八名。男が六名、女が二名。いずれも屈強な肉体を誇る猛者ばかりであり、武装召喚師というよりは理想的な戦士のように想えなくもない。が、考えてみれば当たり前のことだ。武装召喚師は、心身ともに鍛え上げなければならなかった。ただの軍人よりも余程肉体の鍛錬が必要なのが武装召喚術という技術だ。召喚武装に振り回されない肉体と精神の修練は、武装召喚師の肉体を戦士の理想型へと近づける。
そういう意味では、セツナもまた、理想的な戦士の肉体へと近づいているはずであり、彼を取り囲む武装召喚師以上に鍛え上げられた肉体を誇るはずだ。心身ともに、八名の武装召喚師に負けているわけがない。セツナが勝っているのは、なにも召喚武装の能力だけではないのだ。
「この惨状……貴様らはいったい何者だ!」
武装召喚師のひとりが叫んだ。異形の大槍を構えた大男は、その鋼野のような肉体から闘気を立ち上らせている。見事なまでに鍛え抜かれた肉体は、武装召喚師としての実力を示すようだ。ほかには、剣や斧といった近接武器型の召喚武装を手にしたものが多い。当たり前だ。セツナを包囲しているのだ。遠隔攻撃型の召喚武装の使い手が敵に接近することなど、ありえない。つまり、遠方からセツナを狙っている可能性が高いということだ。
「俺はセツナ=カミヤ。西帝国の同盟者さ」
鋭く息を吐き、地を蹴ったときには、彼の拳は大槍の男の腹を抉るくらいに深々と突き刺さっていた。