第二百三十八話 矛と矛
セツナは、ミリュウへと飛びかかっていた。死体の山を飛び越え、女が矛の切っ先をこちらに向けるより早く、間合いに滑り込むことに成功している。勢いに任せた突きは、矛の柄で弾かれた。女が嬌声を上げる。
「教えてあげるわ。力の使い方って奴をね!」
「そいつはどうも!」
言い返しながら、弾かれた矛を力で押し留め、斬撃へと転じる。切っ先で受け流されるが、構わず切り返して攻撃する。どれだけ無駄であっても、攻撃の手を止めてはならない。敵の矛に炎を吐かせる隙を与えることになる。
「あはは! いいわ! 乗ってきたじゃない!」
ミリュウが笑いながら叩きつけてきた矛を、切っ先で受け止め、流す。ミリュウの矛は地を抉り、土を飛ばした。
(なんて力なんだよ、おまえは……!)
黒き矛の斬撃と打撃をことごとく無力化され、それどころか押され始めた事実に、セツナは悲鳴をあげかけていた。一撃の重みが明らかに違うのがわかる。明確な差があるのだ。使い手の力量が反映されているのは端から明白であり、このままではセツナが不利に終わるのも目に見えている。
鏡の召喚武装の秘められた力に、いまさらながら舌を巻いた。幻像を生み出すだけならば、それほどの脅威にはならなかっただろう。幻像を壊し続ければ、いつかは本体を攻撃できるからだ。だが、幻像はセツナに攻撃させるためだけの存在であり、鏡の真の力ではなかった。どうやら、鏡は、幻像に触れたものの模造品を生み出すのだ。ただの模造品ではない。性能も完全に近く再現しているのが、黒き矛と戦うセツナにはよく理解できた。
(迂闊だったな……)
いかにも攻撃してくださいといわんばかりに隙を見せた幻像のことを思い出して、彼は舌打ちした。しかし、いまさら後悔しても遅い。セツナの矛は幻像を打ち砕き、それによって鏡の力で複製されてしまった。
数度、穂先で打ち合う。そのたびに金属音が響き、火花が散った。だが、互いの矛に刃毀れはない。威力の差はあった。ミリュウの一撃のほうが遥かに鋭く、重い。セツナは、両手が痺れるのを実感しながら、なんとか堪えていた。これが黒き矛の持つ力なのだ。いや、セツナの斬撃も打撃も十分強いはずだ。鉄の鎧も紙切れのように切り裂き、並み居る雑兵を一閃で斬り捨てる。それくらい、呼吸をするようなものであり、全力を振り絞って放っているいまの一撃ならば、通常時よりも余程破壊力があるはずだった。しかし、ミリュウの攻撃は、セツナの全力の上を行くのだ。武装召喚師としての技量の差が如実に現れている。
腹を狙って伸びてきた石突を矛の柄で打ち払い、踏み込む。女は、うっとりとしたような笑みを浮かべ、両腕を広げた。まるで、セツナを迎え入れるように。
(え……?)
炎を封じるためにミリュウの懐に飛び込んだセツナだったが、相手の行動に戸惑っているうちに抱きすくめられた。汗と血と女の匂いが入り交じる。
「捕まえた」
囁きが聞こえたかと思うと、左の耳たぶに軽い痛みが走った。鼻息が鼓膜をくすぐる。噛み付かれたらしい。
「ちっ!」
セツナは振りほどこうとしたが、ミリュウの腕力は凄まじく、拘束を弛めることすらできない。ただ圧迫され、腕や胸の肉と骨が悲鳴を上げる。圧力が徐々に強くなっていくのがわかる。このままでは圧殺されかねなかった。
「このまま女に抱かれて死ぬのも悪くないでしょ」
耳元で紡がれる甘ったるい言葉とは裏腹に、彼女の力がもたらす激痛は決して生易しいものではない。もがき、足掻こうとするのだが、それさえも許されない。足をばたつかせたところで、蹴りつけたところで、ミリュウの腕が緩むことはないのだ。うめくと、女が嬌声を上げた。
「可愛い声ね。でも、これじゃ期待はずれもいいところなんだけど」
「期待、だって?」
ミリュウの言葉の意味もわからず、セツナはただ反芻するように問いかけた。全身がばらばらになりそうな苦痛の中、彼女の思考を読もうと試み、諦める。そんなことをする暇があるなら、拘束を解くことに全力を尽くすべきだし、実際、全霊で抵抗していた。思索するだけの余裕などはない。手に力が入らなくなっていくが、それでも黒き矛は手離さない。手離したら最後、抵抗することもできずに死ぬだろう。そういう未来が見えている。
「黒き矛の武装召喚師の実力なんて所詮この程度だったってことよ!」
声に、激しい怒りがあった。誰に対する怒りなのか、痛みが増大したことでわかる。彼女はセツナに怒っている。しかし、その理由はわからない。
(期待はずれ、だと? 俺になにを期待していたんだよ!)
叫んだつもりだったが、声にはならなかった。ミリュウの圧迫が、圧殺へと変わろうとしている。骨が軋み、筋肉も破壊されかけている。両腕の圧力だけだ。ただそれだけなのに、あまりに強く、激しい。
「これだけの力があるのに! こんな力があるのに! なのに、あなたはどうして、こんなにも弱いのよ!」
ミリュウの理不尽な怒りを聞いても、セツナには彼女がなにに固執しているのかなどわかるはずもない。彼女は圧倒的な優勢の中にいる。勝利は目前であり、少し力を込めるだけでセツナは死ぬ。そんな状況にあって、ミリュウがセツナに憤る理由は見当たらない。
(弱い? 俺が?)
胸中でつぶやき、冷ややかに認める。確かに、弱い。わかりきっていたことだ。黒き矛のセツナという雷名の大部分は、黒き矛にあるのだ。敵軍を蹂躙し、皇魔を殺戮し、戦局を覆し、戦争を終わらせたのもすべて、黒き矛という絶大な力を秘めた召喚武装を偶然にも手に入れてしまったからだ。でなければ、セツナのような普通の人間が戦乱の世を生き抜けるはずもない。最初に遭遇した皇魔に殺されるのが関の山だ。
セツナは黒き矛の召喚者に過ぎず、そして、武装召喚師の見習いですらない。武装召喚術の原理を理解してもいないし、肉体も武装召喚術の行使に耐えうるほどのものでもない。だから鍛錬を始めた。黒き矛に耐えうる器を作ろうとしたのだ。だが、武装召喚師として成熟しているのであろうミリュウと比べると、なんとか弱いことか。同じ召喚武装を手にしているにも関わらず、これだけの差が生まれているのだ。自分の無力さに呆然とし、情けなくなる。
(弱い……)
彼は、虚空を見ている。焼き尽くされた森に月光が降り注いでいるが、しかし、闇の支配力のほうがはるかに強い。それでもなお燃え尽きた木々の姿まではっきりと見えるのは、カオスブリンガーによる感覚の強化が働いているからだ。だから、セツナはミリュウの圧迫にも耐えていられる。いままで戦ってこられたのも、召喚武装の特性のおかげであり、黒き矛という凶悪な性能を持った武器のおかげだった。これからもこの力だけを頼りに生きていくのか。矛の力に縋り、自分ではないなにものかになっていくというのか。
(違う)
胸中で否定したところで、目の前の現実は覆せない。眼前にあるのは、ミリュウが創りだした黒き矛の複製の力で殺される自分の未来だ。黒き矛の力に頼ってきたものが、黒き矛の力によって殺されるのだ。皮肉な運命というべきか、気の利いた運命だというべきか。どちらにせよ、冗談ではない。
(いいのかよ、これで……こんな終わりで!)
怒りがあった。
それは自分の無力さへの怒りであり、敵に力を貸している黒き矛への怒りであり、その圧倒的な力への怒りでもあった。そんなものを平然と扱っていた自分への怒りもあるかも知れない。
「期待したのに!」
「期待ってなんだよ!」
ミリュウの理不尽さに叫び返したとき、セツナは、奇妙な開放感に襲われた。ミリュウの唖然とする顔を見ている。彼女の拘束から解き放たれ、後ろに飛んでいるという事実に気づいたのは、数瞬間の後のことだ。激痛は残っている。だが、両腕は動いたし、思考も濁っていない。矛を握る手に力がこもる。どうやって抜けだしたのかは自分でもわからなかった。なにが起こったのかさえ判然としない。だが、セツナがミリュウの拘束から脱出できたのは紛うことなき現実であり、彼女の驚きに満ちた表情からもそれと知れる。しかし、その表情も次の瞬間には喜悦に歪む。
「へえ、隠してたってわけ?」
「そんな余裕あるかよ」
着地とともに再び接近する。距離を取れば、炎を浴びせられることになる。それだけは避けなければならない。そして、二度と彼女の胸には飛び込んだりはしないと堅く決意しながら、セツナは矛を振り下ろした。
「ひとは追い詰められると馬鹿力を発揮するとかいうけど、そういうことかしら」
「かもな!」
数度、矛を叩きつけ合う。そのたびに火花が視界を彩り、轟音が耳朶に響いた。矛がいつになく軽い。まるでいままで以上の力を得たかのような錯覚がある。だが、相変わらずミリュウの攻撃は重く、押されているのは否めない。
ミリュウは、笑っている。戦いを楽しんでいる。この死と隣り合わせの戦闘を心の底から楽しんでいる。それがセツナには理解できないのだが、自分も心のどこかで愉しんでいるのは知っている。黒き矛を握っているとき、破壊や殺戮に躊躇いを持たないのは、その行為を愉しんでいるからにほかならない。それが自分の本性なのだと突きつけられれば、否定はできないだろうが。
不意に飛んできた蹴りを矛で受け止めると、ミリュウは、セツナの矛を足場にして後ろに跳躍した。間合いが広がる。しかも、空中に向かって遠のいていく彼女を追いかけるには遅きに失してしまった。ミリュウは既に、矛の切っ先をこちらへと向けている。
「でも足りないわ! もっと、激しく燃やしてよ!」
黒き矛の穂先が赤く膨張したかに見えた瞬間、紅蓮の炎が奔流となってセツナに押し寄せてきた。飛び退き、射線から逃れようにも、彼女がセツナの移動先に矛先を合わせてくるのだから意味がない。矛を振り下ろし、剣圧で炎の波を両断しても、一瞬後には爆発的に膨張する炎が眼前に迫っていた。さらに後退し、何度となく矛を振り回す。そのたびに黒き矛から衝撃波のようなものが生じ、炎を一時は堰き止める。だが、森を燃やしていた炎を消費し尽くすには至らない。爆炎は濁流のように押し寄せてくる。
(あの女のようにはいかないか)
セツナは、みずからの矛が生み出す衝撃波の威力に目を細めざるを得ない。ミリュウは、剣圧で数本の木を切り倒してみせたのだ。やはり、彼女のほうが実力は上。しかも、ちょっとどころではないのが、痛いほどわかる。それでもここで引くわけにはいかない。安っぽい自尊心や誇りのためではない。ここでセツナが逃げ出せば、助かるのはセツナの命だけなのだ。黒き矛の複製を手にした彼女が戦場に向かえば、数多の味方が命を落とすことになりかねない。彼女もまた、殺戮を躊躇はしないだろう。セツナのように死を振り撒くに決まっている。
ファリアを失ったら、自分はどうなるのだろう。
そう考えたとき、セツナは眼前の炎に向かって矛の柄頭を差し出していた。命じる。
「喰らえよ」
柄頭の宝玉が輝き、爆炎の波を瞬く間に飲み込んでいく。ミリュウの矛が炎を放ち続ける限り、セツナの矛が炎を喰らい続けるのだ。それも長くは続かない。森を焼いた炎も無限ではない。有限であり、やがて、尽きる。
「最初からこうするべきだったな」
つぶやきながら、炎が消え、闇に戻った世界を認識する。熱気は風に流されていくが、まだ熱い。
「少しは頭が回ってきたのかしら? さっきまでよりはましになってきたわよ」
挑発的にいってきた女は、いまにも崩れ落ちそうな木の枝に立っていた。月を遙か後方に佇む黒き矛の女。絵にはなる。が、そういう問題ではない。セツナは無言で矛の切っ先を女に向けた。蓄積した炎を解き放つ。
「有無をいわさぬその感じ、好きよ」
ミリュウの矛は、こちらに向けられていた。
互いの矛の切っ先が紅蓮に燃えた。