第二千三百八十三話 誓いの谷の戦い(三)
レキシア大渓谷南部の東側には小高い丘がいくつもあり、そのひとつにファリアとランスロットのふたりはいた。
夜中。いや、真夜中に近づこうという時間帯。頭上には雲はなく、満天の星空が広がっていて、巨大な月の膨大な光が広大な大地を照らしている。月と星々の光を反射する大渓谷の水面は、さながら大河のそれであり、もしここが大渓谷であるということを知らなければ、自然に発生した大河と認識したに違いない。一見して不自然には想えないのだ。川にしては横幅が広いというだけで、それくらいの川ならば世界中、いくらでも存在するのは間違いない。
だが、深く巨大な大渓谷が人為的な大河となった例など、古今東西、レキシア大渓谷を除いてほかにはあるまい。
レキシア大渓谷ほどの巨大な大地の亀裂を大河に帰るには、膨大な量の水が必要であると同時にそれを堰き止めるための手段が必要だった。それも、素早く用意できなければ、流れ来る水の量と勢いによって押し流され、堰き止めることもできなくなる。
それを為せたのは、武装召喚術があればこそだろう。
暖かい夜風の中、ファリアは、大渓谷を堰き止める巨大な石壁を見遣っていた。石壁は、さすがにこれだけの水量を受け止めるだけのことはあり、巨大で分厚く、簡単には破壊できそうになかった。少なくともオーロラストームの全力を叩き込む必要があるのではないか。でなければ、敵軍の反撃を受けることになりかねない。
川岸とでもいうべき大渓谷東部の陸地に築かれた東帝国軍陣地に視線を向ければ、煌々と焚かれた篝火の炎と煙が夜空へと登っている様子が窺える。夜中だというのに警戒中の兵士たちの姿がちらほらと見られるということは、それだけ石壁への攻撃を警戒しているということであり、そのための戦力が配備されているとみていい。
「まさか、こうして君とともに戦うことになるとはね。運命とは、数奇なものだ」
「まったくです」
ファリアは、ランスロットの軽口に付き合ってあげながら、敵陣の様子を探った。いくつもの天幕が並んでいるのだが、その数は二十ほどはある。ひとつの天幕がそれなりに大きいこともあり、天幕ひとつにつき、二十人から三十人は休めるのではないか。つまり、その二十倍の人数があの陣地にいるということだが、それら全員が一般兵ならばなんの問題もない。ランスロットひとりでも蹴散らせるだろう。
問題は、その中の武装召喚師の数だが、それも決して危惧するほどの数ではあるまい。
いくら石壁の維持が重要とはいえ、本陣以上の数を割くとは想いがたい。
しかも、ここは東西帝国の戦線のひとつにすぎないのだ。北端から南端に至るまで、国境付近の様々な場所で小競り合いが行われていて、それぞれに両軍の戦力が展開している。数多の戦場、数多の戦線に両軍の武装召喚師が配備されている。防衛のため、各都市にも配備しなければならない。多数の武装召喚師をひとつの戦場に投入するという贅沢はできないのだ。
戦力が拮抗している以上、どこかに戦力を集中させれば、どこかに綻びが生まれ、敵に付け入る隙を作ることになる。
だからこそ、エスクを得た東帝国軍が北部戦線を制する勢いを得たのであり、西帝国が躍起になって海外に戦力を求めたのだ。そして、セツナ一行を味方に加えた西帝国が今後、勢いを増すのは当然の結果といっていい。
「まさか、帝国に協力することになるだなんて、想いも寄りませんでしたわ」
「それは……そうだろうね」
「特にあなたがたと同盟関係になるなんて」
「……まったく、そのとおりだ」
彼は、ファリアがなにをいわんとしているのかを察したのか、顔を俯けた。星明かりの中、彼の表情は見えない。
「あのときは……済まなかったね」
「あなたが謝る必要はありませんわ、ランスロット卿」
ファリアがいったのは、本心だった。確かにあのときは、ランスロットを始め、ファリアたちの道を塞いだ彼らに激しい怒りを覚え、憎悪さえ募らせたものだが、いまとなっては遠い過去となった。セツナが気にしていないのだ。ならばそれでいい。と、ファリアは考える。
ミリュウは、そうではないだろうが。
「あなたは、あなたの役割を果たしただけのこと。わたしがわたしの役割を果たそうとしたように」
「だが、君たちには恨まれても仕方のないことをしたのは事実だ」
「それは、セツナも同じでしょう」
「うん……?」
「セツナは、あなたたちの主を大変な目に遭わせた。違いますか?」
「……命を賭しての勝負を仕掛けたのは、ニーウェ様のほうさ。姿は変わり果てても、生きていたんだ。生き延びることができたんだ。それもこれも、セツナ殿の温情のおかげでね。感謝こそすれ、恨む道理はないんだよ」
ランスロットはそういってきたものの、本心ではどう想っているか。ニーウェは、本来、セツナにそっくりそのままの姿の青年だった。それが、半身が怪物に成り果てたという話であり、彼を敬愛する側近たちの心理的な痛みは計り知れないものがある。
たとえば、セツナがそのような姿になったすれば、ファリアたちはどう想うか。想像するだけで胸が痛んだ。ミリュウなどは荒れ狂っただろう。それでも、セツナが好きだという事実が変わることはないにしても、だ。
「おかげで、西帝国ができた」
ファリアがちらりと彼を見ると、彼は、敵陣に視線を向けていた。互いに既に召喚武装を呼び出している。彼の召喚武装ライトメアも、ファリアのオーロラストームも、遠距離攻撃に重点を置いたものだ。だからこそ、この任務に選ばれている。
「もし、あのとき、ニーウェ様がセツナ殿に敗れたとき、命を落としていたら、いまごろ帝国はどうなっていたものか……想像するだけでぞっとしないよ」
彼は、頭を振り、肩を竦めた。
彼のいうように、ニーウェが命を落としていた場合、帝国の現状は大きく変わっていただろう。南ザイオン大陸は、ミズガリスの独壇場となっていたかもしれない。ミズガリスは、評判を聞く限りでは悪政を敷いている暴君というわけでもなさそうだが、気性の激しい癇癪持ちという話もあり、名君というわけでもなさそうなのだ。そんな人物に皇帝をやらせるわけにはいかないというのは、西帝国首脳陣の共通認識であるらしい。ミズガリスが南大陸の支配者として君臨していた場合、帝国がどうなったのかについては、そういった認識からもある程度は想像できそうだった。
それからしばらく、他愛のない話を続けながら敵陣の注視を続けた。東帝国軍南陣地に大きな変化はなかった。あったとしても、警戒人員の交代くらいだ。そのため、ファリアとランスロットは、召喚武装を送還し、作戦開始時刻まで身を潜めることとした。召喚武装の維持には精神力の消耗を伴う。作戦開始まで時間があるときは、出しっ放しにしておくのは無駄なことだった。
「そろそろ……時間かな」
「そうですね」
ファリアは懐中時計を取り出して、確認した。時刻は、午前零時に至ろうとしている。
今回の作戦は、敵本陣が眠りについているだろう時刻に起こしてこそ、意味がある。敵軍に大混乱を起こし、恐慌状態にして、撤退させることが目的である以上、最大限の効果が発揮できるであろう頃合いを狙うのは当然のことであり、それが敵本陣が寝静まった時間帯なのはいうまでもない。どんな人間であれ、寝起きの頭では正確に状況を判断することは難しく、そんな状態で大渓谷の水が引き、さらに敵襲が遭ったとなれば、恐慌状態にも陥ろう。
そのためには、まず、大渓谷の水を堰き止めている石壁を破壊しなければならない。
ファリアとランスロットはほぼ同時に武装召喚術を唱え終えると、目的を再度確認した。
目的は石壁の破壊と、当該武装召喚師の確保だ。石壁は召喚武装の能力によって作られたに違いないのだ。ただ石壁を破壊するだけでは、ファリアたちの任務が完了したことにはならない。それだけでここを去っては、また石壁を作り直され、水が大渓谷を満たすことになる。
それでは、意味がない。
石壁の作り手たる武装召喚師だけは確保するか、撃破しなければならなかった。
少なくとも、召喚武装を破壊しておくべきだ。
そうすれば、少なくとも、この戦争中は石壁が大渓谷を塞ぐことはなくなる。