第二千三百八十二話 誓いの谷の戦い(二)
ビノゾンカナン救援作戦を開始するに当たって、マユリ神がまず行ったのは、セツナたちの想定する“堰”の所在地確認だ。
セツナたちは、レキシア大渓谷を大量の水で満たし、ビノゾンカナンを水上に孤立させたのは、北側の山脈にあるという堰や堤を壊し、大量の水を流し込んだだけではなく、南側に“堰”を築いたからだと考えている。それ以外に水が停滞する理由が見当たらないからだ。でなければ、遙か昔からレキシア大渓谷には水が満ちているはずであり、大渓谷というよりは大河として認識されているはずだった。しかし、帝国の歴史上、大渓谷が大河だったことはなく、遙か下方を流れる川こそ認知されていたものの、大渓谷は大渓谷として歴史に記されている。つまり、大渓谷に水が満ちるには、北の堰を破壊する以外の要因がなければならなかった。
それがセツナたちの想定する“堰”であり、その所在地を確認することは、作戦開始に当たっての最重要任務といってよかった。
そして、ウルクナクト号が夜間飛行を続けること十数分、レキシア大渓谷南部の大地の亀裂がやや狭まった部分に巨大な石壁が聳えていることを確認した。その石壁でもって北部から流れ込んでくる水を堰き止め、大渓谷を大河の如き状態へと変化させているのだ。石壁は、大渓谷の底から上方に至る高さととてつもない分厚さを誇っており、とても人間業ではできないことが一目でわかる。召喚武装の能力以外には考えられないが、それは当初から予測していたことだ。
帝国には、最大二万の武装召喚師がいたのだ。最終戦争と“大破壊”を生き延び、南大陸に転送されたものがどれだけいるのかわからないが、少なくとも西帝国には二千人ほどの武装召喚師が所属しているという。東帝国にも同程度の武装召喚師がいたとしてもおかしくはなく、それら武装召喚師が協力すれば、あの程度の堤防を築くことくらい決して難しいことではあるまい。
そして、その石壁の東側陸地には、東帝国軍の連中と思しき部隊の陣地が築かれていた。西帝国軍による石壁への攻撃を警戒してのことだろう。
夜半。
敵襲を警戒して焚かれた篝火の周囲には、兵士たちが屯している様子が遙か高空からも認識できた。
方舟を東帝国軍陣地のやや北側に滞空させると、ファリアとランスロットに後のことを託した。
「神威砲が使えればな」
セツナは、ファリアとランスロットを送り出す際、少しばかり不安になって、そんなことを口にした。方舟の船首に搭載されている砲台は、ログナー島での方舟戦以降、まったく使い物にならなくなっており、ファリアとランスロットに“堤”破壊を任せなければならなくなったのも、そのためだった。もし、神威砲が使えるのであれば、“堤”破壊はマユリに任せ、ファリアとランスロットにも敵陣襲撃に参加してもらうこともできたのだが。
「壊れたものは仕方がないわ。今後、ほかの部分が壊れたりしないよう、細心の注意を払わないとね」
「うん」
青い軽装の鎧を纏ったファリアの言に、セツナは、返す言葉もなくうなずいた。
方舟は、マユリ神すら未知の技術によって作られた代物だ。極めて高度な技術の塊であり、外装や内装の修復程度ならば女神にも容易く行えるのだが、機構、機能の修復となると、簡単な話ではなかった。少なくとも、神威砲を復元することは難しく、もっと長時間、徹底的に調べ上げなければ、元の状態に戻すことさえ困難だということだ。故に神威砲によって遙か遠距離から石壁を攻撃し、破壊するという最良の手段は取れなかった。
「少ない人数での作戦になる。くれぐれも気をつけてくれ」
「わかってるわ。信頼、してくれてるんでしょ」
「当たり前だろ」
セツナが当然のように即答すると、ファリアは嬉しそうに微笑んだ。その微笑みからくる余裕に満ちた反応に緊張感は見受けられない。この程度の作戦で気を張る必要はない、とでもいいたげだ。確かにリョハンやザルワーンでのネア・ガンディア軍との戦いに比べれば、遙かにましだろう。相手に神がいないのだ。それだけでセツナたちへの負担は減る。ランスロットに目を向ける。彼もまた、軽装の鎧を身につけているが、それは彼が船に乗り込む際に持ち運んできたものだ。つまり、最初から戦闘に参加するつもりだったということであり、彼がただのセツナたちのお目付役兼保証人ではなかったということの証明でもある。
「ランスロット卿にも協力して頂くことになりましたが」
「なに、同盟相手の作戦に協力するのは当然のこと。なにより、これは我が帝国の問題。そもそも、本来なれば部外者である皆様の手を煩わせる事自体、おかしなことです。しかし、皆様の協力がなければ東に勝てないのも事実。故に皆様には力を貸して頂くしかない」
ランスロットは、自国の問題に部外者の協力を要請し、なおかつそれを頼みにしなければならない現状をよしとは想っていないのだろう。その思いを苦みと憂いを帯びた表情で告げてきた彼だが、しかし一方ではさっぱりとした様子も見せた。
「敵本陣のこと、ミルズ総督閣下のこと、よろしくお願いしますよ」
「任せてください」
「なら安心だ」
彼はにこりと笑った。
「やはり、あなたと話していると、陛下の顔が浮かんで仕方がありませんな」
セツナは、彼のそんな軽口にどういう顔をすればいいのかわからなかった。
やがてファリアとランスロットが地上に転送されると、方舟は急速旋回し、大渓谷東部を北上した。作戦は、石壁の破壊後、水が引き始め、その事実を東帝国軍陣地の兵士たちが認識し、混乱が起き始めるのと同時に襲撃することで最大限の効果を発揮しうる。そのためには、ファリアたちが石壁を攻撃するまでにセツナたち敵陣襲撃部隊の配置を終える必要があり、船は大急ぎで敵陣付近へと移動していた。
まず、敵陣南部の森林地帯にセツナとミルズ=ザイオン率いる五千余の西帝国軍南部大戦団将兵が降り立った。夜中だ。五千もの人数が森の中に降り立ったところで、広大な陣地内の東帝国軍兵士たちは気づきようがない。無論、警戒はしているだろうし、武装召喚師たちも召喚武装を用い、広範囲を索敵し続けているのだろうが、セツナたちはその警戒範囲の外に転送されている。そのまま、敵陣の反応を窺っていればいい。
つぎに敵陣北部にミリュウたちが転送される手筈になっており、セツナたちが森の中に身を隠して数分後、腕輪型通信器を通して女神からの報告があった。報告により、ミリュウたちが無事に地上に降下したとのことであり、あとは、ファリアたちの石壁破壊とその影響を待つだけとなった。
夜の森林に身を潜めている間、ミルズ配下の側近と思しきものがミルズに疑問をぶつけた。
「東帝国軍の兵数は三万とも四万とも聞いております。本当にこの人数で大丈夫なのですか?」
「いまさらの疑問だな」
ミルズが苦笑を禁じ得ないという様子で返す。
「本作戦の目的は、敵陣を混乱させ、この地より撤退させることにある。戦力で上回る必要はないのだ。そも、敵陣は、水が引けば混乱するだろう」
「それは……そうですが」
「兵力差は圧倒的です。その混乱が収まれば、多勢に無勢となり、我々が逃げ場なく討ち取られる可能性も……」
「安心しなよ」
セツナは、聞いている間に黙っていられなくなり、つい口を突っ込んだ。
「あなたたちの役割は、こちらの人数を多く見せるためだけのもの。大声を上げてくれりゃあいいのさ。敵陣に突っ込むのは、俺たちだけでいい」
彼がいったそれは、当初からの予定通りのことであり、突如作戦内容を変更したわけではない。ミルズが要望するから仕方なく受け入れた五千余の将兵だが、考え抜いた末に見つけた使い方がそれだ。日時が変わる前後の真夜中。視界は悪く、人数を完璧に把握するのは困難だ。そんな状況下に五千人あまりであろうが、大声を上げて大人数であると錯覚させることができれば、敵軍の混乱を広げることに貢献できるに違いない。
「はあ……?」
「わたしは、征きますが……」
「だとすれば、武装召喚師の護衛をお忘れなきよう」
「無論」
ミルズは、当たり前のようにうなずいた。彼とて、自分がただの人間であり、過信は禁物であるということをよく理解しているようだった。彼がつれてきた五千余の将兵の中には選りすぐりの武装召喚師たちもいる。それらは戦力として組み込んでも十分過ぎるくらいには優秀なようだが、セツナは、彼らを戦力に含めなかった。なぜならば、力量を完璧に把握しているわけではないからだ。
自分たちだけでなんとかするつもりだったし、できる手筈だった。
敵軍の戦力を把握しているわけではないが、東帝国軍がネア・ガンディア並みに充実した戦力を誇るはずもなく、負ける要素はない。
セツナはそう確信しているからこそ、ミルズの同行を許したといってもいい。
もし、多少でも危険性があったならば、ミルズのことなど黙殺し、自分たちだけでこの度の作戦を遂行していただろう。