第二千三百七十九話 水の都(六)
ビノゾンカナンは現状、水攻めに遭い、身動きの取れない状況にある。東側の陸地に展開する敵軍を討つべく戦力を外に出そうにも、状況を改善するべく援軍を外に求めようにも、敵軍の執拗な妨害に遭い、手も足も出ないという状態なのだ。西側の陸地に集った味方援軍と連絡を取ることすらままならない緊急事態であり、そんな状況を少しでも改善できればそれに越したことはないのだが、それすら、まったくできていない。
そんな状況が十日以上、続いている。
このままではビノゾンカナンの備蓄食料も底を尽き、将兵はおろか市民の命すら危うくなるだろう。東帝国軍の狙いはそこにあり、水攻めによって補給線を絶ち、日干しにしてビノゾンカナンが音を上げるのを待っているのだ。ビノゾンカナンが東帝国に降伏すれば、速やかに救援する、とまで呼びかけてきているらしく、ビノゾンカナン内部には、東帝国の降伏勧告に従うべきではないか、という声が日に日に高まってきているという。
それもそうだろう。
この十日以上に渡って、ビノゾンカナンの西帝国軍は、状況を打開するどころか、改善することすらできていないのだ。ミルズが引き締めている将兵はともかくとして、そんなこと知ったことではない一般市民にしてみれば、西帝国軍は頼りにならず、東帝国に降り、少しでも早く安全を確保するべきではないか、と考えて当然のことだ。そして、このまま、この状況が続けば、さらにそういった声が高まるのも無理からぬことだろう。
一般市民にとって、西だの東だの、皇位継承の正当性だの、そんなことはどうでもよく、平穏無事に今日明日を生き延びることさえできればいいのだ。
ビノゾンカナンのひとびとが水攻めに遭うまで西帝国を支持していたのだって、そのためなのだ。平穏な日々を西帝国が約束していたからこそ、市民は西帝国の臣民であることに胸を張ってさえいた。しかしその約束が破られ、自分たちの平穏が脅かされれば、態度も翻そう。
悪化し続ける市民感情を慰撫するには、一刻も早く状況を打破することだというのは、だれにでもわかる。このまま悪化の一途を辿れば、一般市民の行動によって、ビノゾンカナンが内部から崩壊することもありえた。
ミルズも、将兵はともかく、一般市民のそういった感情を抑えるためにも、状況を打破する策を練りに練った。
それは、現在用意している小舟にミルズみずからが乗り込み、東側陸地の敵陣に突撃を仕掛けるという単純かつ無謀なものだった。策とも戦術ともいえぬそれが無謀極まりないことは、ミルズ自身、この上なく理解していた。ミルズとて、愚者ではない。だてに法聖公や近衛騎士団長を務めてきた人物ではないのだ。それがそれだけ無謀で無意味なことなのかは、良く理解している。しかし、その無謀な突撃によってミルズが命を散らせることこそ、意義のあることなのだ、と彼はいった。
かつての法聖公にして近衛騎士団長であり、西帝国皇帝擁立運動の中心人物だったミルズ=ザイオンがその命を捧げることにより、ビノゾンカナンの全将兵に奮起を促すことこそが、無謀極まりない突撃戦の真の目的であり、彼は、水攻めの果てに無残に降伏するよりも、敵地で華々しく散ることで味方将兵の勇奮を期待したのだ。
『ミズガリスの下に降るなど、我が誇りが許さぬ。それならば潔く散るほうが遙かにいい。案外、死ぬ気で戦えば、勝てるかもしれぬしな』
とは、作戦提示後の彼の言葉だが、それを聞いて、セツナはミルズがただの愚か者ではないことを理解したものの、だからといって到底受け入れられる策ではないとも想った。ミルズの策は、彼個人の感情に因っている。彼自身が東帝国に降伏することを恥辱と定め、ミズガリスの下に再びつくことを心底拒んでいるからこそ、降伏以外の方法を取ろうとし、そのために考え出したのが突撃策なのだ。外部と連絡が取れず、連携戦術が取れない以上、ほかに方法もないのだろうが、それにしたって彼が死ぬことに意味があるとは考えにくい。
ミルズは、配下の将兵を信じ、自分の死によってそれら将兵が死兵と化して奮戦してくれることを期待しているようだが、必ずしもそうはならないだろう、と、セツナは見ていた。
軍隊というのは、命令によって成り立っている。指揮系統が明確であり、しっかりとしているからこそ、末端の兵に至るまで機能的に行動することができるのであり、そこに多少の乱れが生じれば、それだけで軍隊にとっては致命的なものとなる。ましてや頭が潰れればどうなるか。獅子奮迅の如く戦ってくれるどころか、戦意を喪失させ、降伏やむなしという方向に向かうのではないか。
セツナは、今日に至るまで、そういった形で終わった戦場をいくつも見てきていた。それに、敵味方の損害を最小にして戦いを終わらせるには、敵指揮官を討つのが一番手っ取り早く確実であることは、基本中の基本とさえいってよかった。だからこそ、指揮官、総大将というのは、護りの固められた本陣にいるのだ。指揮官、総大将が討たれれば、その瞬間から軍隊の崩壊が始まる。指揮系統が乱れに乱れ、ついには潰乱するのだ。
ミルズは、確かに法聖公、帝国近衛騎士団長という帝国における重要な立場、役職を務めた人物であり、聡明な人物なのだろうが、実戦経験となると、どうなのだろうか。おそらく、セツナより圧倒的に少ないのは間違いない。
帝国は、数百年に渡る平穏の中にあった。戦闘があったとしても皇魔退治くらいのものであり、それ以外の戦闘行動となると、実戦とは程遠い演習くらいしかなかったのだ。小国家群との国境ですら、小競り合いひとつ起きなかったはずだ。小国家群の国々が三大勢力に手を出すことなど、あり得ない。眠れる巨獣にちょっかいを出して、叩き起こそうという愚かしさは、小国家群の国々は持ち合わせてなどいない。
故に、現代のザイオン帝国の軍人がはじめて実戦を経験したとすれば、セツナが最終戦争と認識するあの世界全土を巻き込んだ戦いがそれに当たるだろう。しかし、その経験が生きるとは想えない。なぜならば、あの戦争におけるザイオン帝国を始めとする三大勢力による小国家群への侵攻は、戦争などと呼べるようなものではなかったからだ。
圧倒的物量による蹂躙。
大陸小国家群とは、弱小国家の集合体ではなく、三大勢力を除く国々を一括りにした便宜上の呼称でしかなく、弱小国家の総称だったのだ。それを纏め上げ、巨大なひとつの勢力として三大勢力に拮抗し、新たな均衡の一角にしようとしたのがレオンガンドであり、当時のガンディアの大目標だったのだが、それもいまにして想えばただの幻想に過ぎなかったことは、セツナも痛感している。
弱小国家がどれだけ束になろうと、数百年の長きに渡り、最終戦争を勝利するために着々と兵力を積み上げ、戦力を練り上げてきた三大勢力に敵うはずもなかったのだ。たとえ、レオンガンドの小国家群統一構想がなったとしても、いずれ“約束の地”の位置を特定した三大勢力によって蹂躙されることは確定事項だったのだ。たとえばそれが百年先、千年先であったとしても、だ。そのころには統一後の小国家群の戦力も充実しているだろうが、三大勢力の戦力はさらに増しているのはいうまでもない。
結局、小国家群は蹂躙されるさだめだったということだ。
そして、その際の戦いが帝国の将兵にとってなんの糧にもなっていないだろうということは、想像するにあまりある。
最終戦争において、ザイオン帝国は約二百万の将兵と二万の武装召喚師を総動員したといい、目的地であるガンディオンへの進路上に存在する国々に対して、戦争を起こすというのではなく、ただ、踏み潰すようにして、あるいは蹴散らすようにして突き進んでいったのだ。戦争らしい戦争が起こったことはなく、多少、武装召喚師を動員し、抵抗した国があったとしても、帝国の武装召喚師を数で勝ることはあり得ず、一蹴されたことは考えるまでもない。
結果、帝国は容易くガンディオン包囲へと至ることができたのだが、貴重な戦闘経験を積むこともできなかったわけだ。
物量において遙かに勝るのだから、わざわざ戦術を練るまでもなければ、どのように戦えば効率的に勝利を収めることができ、どうすれば損害を抑えることができるのか、といったことを考慮するまでもない。ただひたすらに突き進み、揉み潰せばいい。多少の損害など、二百万の総兵力からすれば痛くもかゆくもない。それが帝国の大勢力たる所以なのだから。
そして、それによって帝国は、最終戦争における目的を果たしかけたのだから、問題はなかった。
問題があったとすれば、帝国は最終目的を果たせなかったことであり、たとえ果たせたとしても、ザイオン帝国の神ナリアが悲願を果たしただけで、イルス・ヴァレともども滅びの一途を辿っただろうということだが。
それは、いい。
いま考えるべきは、ミルズ=ザイオンの経験のなさからくる策の拙さをどう指摘し、どう説明すれば納得してくれるかについて、だ。
ミルズは、東帝国の皇帝となったミズガリスと喧嘩別れするくらいには気性の激しい人物だ。絶大な権力を握る相手に対しても、気に食わないことがあれば刃向かい、結果として命を落とすことになったとしても構わないとでもいうような自尊心がある。そんな人物をどうすれば説得できるのか。
そこはやはり、セツナよりも彼のことを多少なりともよく知るだろう、ランスロットに任せるしかないのだろうが。
ランスロットもまた、ミルズと同じだ。実戦経験の数においては、セツナに大きく劣っている。しかし、ミルズと違う点があるとすれば、彼は、方舟内でセツナたちの実戦経験の豊富さを知ると、戦闘に関してはなにもかもセツナたちに一任するといってきたところだ。
彼には、極めて柔軟なところがある。
「されど、それでは閣下の無念は晴らせませんよ?」
ランスロットの一言にミルズは、怪訝な顔をした。