第二千三百七十四話 水の都(一)
ウルクナクト号がつぎの目的地ビノゾンカナンを視認する距離へと達したのは、大陸暦五百六年六月十日、正午過ぎのことであり、セツナたちは、遙か高空より見下ろす南ザイオン大陸の広漠たる大地に突如として出現する巨大な亀裂に、大量の水が満たされている光景を目の当たりにしていた。
「ほへー、話に聞いた以上だわ」
ミリュウが身を乗り出すようにしていった。船首展望室の窓からは、眼下に広がる景色を一望することができる。
方舟ウルクナクト号は基本的に遙か上空、雲の上を移動する。それは、地上のひとびとやそれ以外の生物、たとえば皇魔や神人、神獣などに気づかれないためであり、攻撃される可能性を極力減らすためだ。そのため、目的地までの移動中、眼下を流れる景色を楽しみながら時間を潰すといったことはできず、目的地付近に辿り着いたときや移動距離の短いときくらいしか、船首展望室に集まったりはしない。
眼下、雄大な大陸に突如として出現する膨大な水量は、さながら大河の如くであり、陽光を反射して無数に輝く水面は、空から見下ろしても美しいとさえいえた。
「本当、大きな川みたいですね!」
「あれ、元々は渓谷だったんだよな?」
感嘆の声を上げるエリナに続き、シーラが怪訝な顔をする。彼女が疑問に想うのも無理はなかった。話に聞く限り、ビノゾンカナンは、渓谷のちょうど狭間に作られた都市であり、川の中に浮かんでいるわけではなかったはずだ。しかし、いまセツナたちが見下ろしているのは、蕩々と流れる大河の狭間に浮かぶ孤島のような都市であり、渓谷の中に築かれたというにしては、どうにも様子がおかしかった。
「ええ。ビノゾンカナンは、渓谷の狭間に建造された都市だというのは本当のことだそうよ。帝国のひとびとの話によれば、ね」
ファリアが半ば呆れながら、いった。
「このザイオン大陸南部において最大の渓谷と呼ばれるレキシア大渓谷を目の当たりにし、感銘を受けたのが数百年前の皇帝にして“建築帝”ヒアルハイン・レイグナス=ザイオン。彼は、帝国領土各地に様々な建物や都市を作り、設計そのものに携わってきたことから“建築帝”だなんて呼ばれたそうだけど、そんな彼がレキシア大渓谷に作り上げたのは、谷の狭間に浮かぶ都市なのよ」
「へ?」
「もちろん、本当に浮かんでいるわけじゃないわよ。大渓谷の間に、まるで大河の中州のように存在した台地があったらしいの。“建築帝”はそこに目をつけ、大都市の建造に乗り出したってわけ。谷の東西に橋を架けることで、渓谷を挟んだ土地の行き来をしやすくするという意味合いもあったらしいけど、ビノゾンカナンの建造は、“建築帝”の趣味によるところが大きいらしいわ」
「へえ……皇帝ってのは、随分と思考の規模が違うもんなんだな」
シーラが皮肉でもなんでもなさそうに嘆息する。
皮肉と受け取りたくもなるのは、ビノゾンカナンの現状を目の当たりにすれば、当然だ。ビノゾンカナンは、渓谷の狭間に作られたために、上流から流れ込んできた膨大な量の水に飲まれかけたのだ。実際には飲まれこそしなかったものの、状況としては、最悪に近い。
「そもそも、なんでこんなことになったわけ?」
「元々、レキシア大渓谷には北の山々から無数の川が合流する場所だったのよ。そのまま、遙か南の海へと流れ込んでいくのが本来の形だった。それでも溢れるほどではなかったはずよ。そこで北の山々に堤防を築き、流れ込む水量を調整していたもの」
「その堤をぶっ壊されたってわけか」
「それだけとは想えないわ。それだけで溢れるくらいなら、堤が築かれる以前の水害は凄まじいものになっていたはずよ。でも、そういう記録はないらしいの」
「つまり、北では堤を壊し、南のほうでは水の流れを堰き止めている、ってことね」
「そういうこと」
「そして、その結果、水が留まり、増え続け、今にもあふれだそうとしているってわけだ」
「まあ、渓谷から川の水が溢れ出しても困るから、水量は調整しているようだけど……」
とはいえ、大河の真っ只中に浮かんでいるようにしか見えないビノゾンカナンの大都市は、このまま放っておけば、食料も底を尽き、いずれは東帝国に降参する以外には助かる道もなくなるだろう。だが、ビノゾンカナンに入っているという西帝国軍南部大戦団総督ミルズ=ザイオンは、東帝国の僭称帝ミズガリスを憎んでさえおり、彼が率先して降ることはないだろうというのが、ニーウェハインたち西帝国首脳部の見方だった。故にしばらくは持ち堪えるだろうし、その間にセツナたちが北を平定し、帝都に戻ってきてくれることを期待していた、まさにちょうどいいところでセツナたちが帝都に帰着したのだ。
渓谷を見渡せば、西と東の岸辺とでもいうべき場所に物々しい軍勢が展開している光景が窺える。西の岸辺に展開するのは、もちろん、西帝国軍南部大戦団の軍勢であり、ビノゾンカナンが水攻めにあったと知り、帝都に救援要請を送るとともに戦力を結集させたものたちだ。黒甲冑の軍勢は、粛々としながらも、焦りを見せ始めているように見受けられた。
東側は無論、東帝国軍の軍勢だ。大軍勢も大軍勢であり、広大な地域に陣地を形成している最中だった。ビノゾンカナンを水攻めに攻め立てた後、悠々と陣地を築き始めたことは、容易に想像ができる。敵たる西軍指揮官はビノゾンカナンの中。歯噛みして悔しがっている前で陣地を作り始めるのは、余程痛快なのかもしれない。東帝国軍の陣地からは余裕が感じられた。東軍にしてみれば、ビノゾンカナンが音を上げるまで待っていればよく、その間、ビノゾンカナンを見張っていればいいだけなのだ。無論、ビノゾンカナンから逃げだそうとするものや、外部と連絡を取ろうとするものには容赦なく攻撃を加えるのだろうし、そのために何人もの武装召喚師が警戒しているに違いない。
帝国には、大量の武装召喚師がいる。
どの戦場にも数多くの武装召喚師が投入されているのだ。そしてそれこそ、セツナたちにとって最大の障害となっている。倒すことは、決して難しいことではない。帝国の武装召喚師たちよりも余程実戦経験を積み、圧倒的とさえいえる鍛錬を積み重ねてきたのがセツナたちだ。生半可な武装召喚師では、太刀打ちできまい。特にセツナなどは、武装召喚師が何人相手だろうと問題なく処理できるだろう。確信がある。無論、召喚武装の能力によっては、セツナですら苦戦を強いられることもあるだろうが、だからといってセツナたちの余裕が揺らぐことはない。
故に問題となるのは、倒すことではない。
倒し、殺すのではなく、生かし、捕らえることが重要となってくるからだ。
西帝国は、東帝国を打倒して終わりなのではない。
西帝国は、東帝国を併呑し、南ザイオン大陸を平定することにこそ、主眼を置いている。南大陸を統一し、帝国の臣民を真の平穏に導き、人心を安んじるためにこそ、ニーウェハインは立ち上がったのだ。そのためには、たとて敵に回ったとはいえ、同じザイオン帝国の人間であり、戦後、統一帝国の力となるだろう武装召喚師たちを生かしたいと考えるのは、道理だった。
ニーウェハインも、それがセツナたちの任務遂行を困難なものにするということくらい理解していないわけではない。それ故、できる限りそうして欲しいという要望を伝えてきたまでなのだが、セツナとしても、ニーウェハインの意向を可能な限り叶えたいと考えていた。戦後の帝国のことを考えれば、この度の戦いで流す血は少なければ少ないほどいい。
西と東の戦いで大量の血が流れる結果に終われば、遺恨因縁が残ることとなり、戦後、速やかな秩序の構築が求められるだろうニーウェハインたちの足を引っ張ることになりかねない。
血が流れなければ、遺恨も少なくて済む。
それ故、セツナたちも東帝国の将兵をできるだけ殺さずに勝利する方法を考えなければならなかった。
この度のビノゾンカナン救援戦においても、そうだ。
どうやって対岸に広大な陣地を築き上げ始めている東帝国軍を血を流さず撃退するか、そのことばかりがセツナたちの会議の争点となった。