第二千三百七十二話 時を越えて(四)
「して……御主人様の体になにかしらの異常があったり、変調の原因を突き止めることはできたのでございますか?」
「……結論をいうとだな。なにもわからなかった」
マユリ神は、機械の上に鎮座したまま、頭を振った。なんの手応えもなかったとでもいわんばかりに。レムは、そんな女神の一挙手一投足に全神経を集中し、彼女の発言に虚偽や欺瞞が含まれていないか、見抜こうとした。
女神は、必ずしもレムの味方ではない。
確かにセツナの味方ではあるが、セツナの味方ではあったとしても、それがすなわちレムに与するということにはならないのだ。この度、大健康診断大会などという茶番を行ってまで協力してもらっておいてなんだが、レムには、女神が自分よりもセツナの意向を優先するに違いないという確信がある。
マユリ神は、セツナと契約した。
神は、契約を履行する存在だ。契約を結んだ以上は、その契約を裏切ることはない。そのことは、マユリ神と同一の神であるマユラ神の言動からも窺い知れよう。よって、女神マユリがレムたちと敵対することはありえない。だが、だからといって、レムたちの、いや、レムの思惑通りに動いてくれるとは限らないのだ。
その事実を踏まえた上で、レムは、女神の調査結果に意識を集中させた。
「……セツナを無理矢理眠らせ、長時間拘束し、隅々まで徹底的に、まさに完全無欠といっていいほどに調べ上げてみたのだが……おまえが心配しているようなものは、影すら見当たらなかったのだ。兆候さえ、な」
女神は、静かに、しかし、染み渡るような声で語る。そこには一切のよどみはなく、揺らぎもない。挙措動作にも違和感はなく、女神が親身になって話してくれていることが伝わってくる。
「人間の味覚は、そのときの体調によって多少なりとも変化するものだという話ではないか。セツナが帝国料理の味を薄く感じたのは、そのとき、セツナの体調が悪かったからなのではないか?」
「やはり……杞憂だったのでございましょうか」
その可能性も十二分にあった。風邪を引いたり、体調の悪化が味覚に異変をもたらすことは、よくあることだ。ゲインも心配しすぎではないかと考えたが故になにもいわなかったのだし、レム自身、考えすぎかもしれないと想いつつ、念のために女神に協力を仰いだのだ。
もし、杞憂で終わるのならば、それに越したことはない。
レムとて、なにもセツナの体調悪化によって神の呪いを結びつけ、そのことに確信を抱きたくなどないのだ。むしろ、なにごともないと確定させ、安心したかった。そのためにこそ、マユリ神の力を借りたのだ。神の力ならば、人間の医者以上に細部まで、深部まで調べ尽くすことができるに違いない。
マユリ神は、しかし、難しい顔でいった。
「そうとも言い切れぬ。セツナは、神によって呪われた身。である以上、いつ心身に異常をきたしたとしても、不思議ではないのだ。それに、その呪いの作用が、わたしの力でもっても見えないものである可能性も、否定しきれぬ」
「では……」
「うむ。今後も注意して見守るよりほかはない。もし、セツナの心身になんらかの変調があれば、すぐにわたしに知らせるのだ。わたしとマユラがすべてを賭けて、セツナを護って見せようぞ」
マユリ神は、胸を張って、そう宣言した。神々しい光がまっすぐにレムの瞳に入り込み、意識の奥へと触れる。女神の言葉、想い、意思。そういったものが流れ込んでくるかのようであり、その美しく柔らかな波動は、あまりにも純粋で邪念がなく、故に彼女は感動に打ち震えるほかなかった。
「マユリ様……」
レムは、マユリ神の心からの言葉に胸を打たれ、自分の浅はかな思考を恥じた。しかし、そのとき、女神の背後に動きがあり、レムが女神への謝罪の言葉を述べることはできなかった。マユラ神が身じろぎしたのだ。
「む……」
「なんだ? マユラよ」
女神が嫌そうな顔で背後を振り返る。
「いや……なんでもない」
「此度はわたしのいうとおりにするという約束だ。忘れるな」
「……わかった、わかった」
マユラ神がふてくされたように顔を背け、そのままうなだれるようにした。眠りについたのだろうが、なんだか可哀想に想うのは、勝手だろうか。
一方のマユリ神は、ただ嬉しそうに勝ち誇る。
「ふふん。わかればいい」
マユリ神とマユラ神のやり取りを目の当たりにして、レムは、少なからず衝撃を受けた。二神のやり取りを見るのはこれが初めてのことだが、それにしても、あまり仲が良さそうには見えない。いやむしろ、積極的に嫌い合っているようですらある。
「あの、マユリ様?」
「なんだ?」
「マユラ様とは……その、仲が悪うございますか?」
「わたしとあやつは半神同士。仲が良いも悪いもないよ。ただ、以前はマユラが思い通りに暴れ回ってくれたのでな。この度の主導権はわたしが握ることになった。ただそれだけのことだよ」
「そういうことなのでございましたか……」
マユリ神のあっさりとした物言いに納得こそしたものの、なんだか腑に落ちないのは、結局のところ、レムがマユリ神とマユラ神について詳しく知らないからだろう。マユラ神が思い通りに暴れ回った以前というのがいつのことなのかもわからないし、そのことでどうしてマユリ神が怒っているのかも、不明だ。聞けば、わかるのかもしれないが。
それよりも、優先するべきことがある。
レムは、改めて、女神を仰ぎ見た。美しい少女の姿をした女神は、十三歳の少女のままのレムよりは随分と大人びている。その神々しいまでの美しさには、並び立てようもないし、そんな不遜かつ不敬なことを考えたこともないが。ともかく、レムは、女神を仰いで、口を開いた。
「マユリ様」
「……どうした? 改まって、なにごとだ」
マユリ神が怪訝な顔をしたのは、レムの様子が先程と打って変わったからだろう。
「先程、わたくしはマユリ様のことを疑ってしまったのでございます。御主人様にもしものことがあった場合、御主人様の意を汲み、わたくしに真実を話さないのではないか、と。ですが、マユリ様のお言葉を拝する限り、そのようなことはありえぬことだと痛感いたしました。マユリ様を少しでも疑ったこと、心よりお詫び申し上げたく……」
「なんだ、そのようなことか」
マユリ神は、あざやかに微笑んで見せた。
「なにも気にすることはない。おまえがそう想うのも無理のないことだ。わたしの契約者はセツナだ。セツナの希望をこそ叶えることがわたしのいまの役割。そして、セツナの希望を優先する以上は、わたしがおまえに虚言を弄する可能性を考慮するのは、おまえの立場を考えれば当然のこと」
なにもかもお見通しといった調子の女神の発言には、レムは、言葉もなく震えた。
「しかし、だ。わたしは希望の女神。おまえたちを絶望させるものがなんであるか、だれよりもよく知っている。そして、おまえたちの希望もな。希望こそがわたしの力の源なのだ。おまえたちの希望を叶えるために力を尽くすのもまた、当然といえよう」
「マユリ様……」
レムは、女神を仰いだまま、茫然とした。女神の懐の深さ、器の大きさ、心の温かさに触れれば触れるほど、自分の小ささがわかっていく。だが、そのことで自分を卑下するようなことはない。むしろ、そういった自分さえ包み込んでくれる女神の包容力に感動するのだ。
そして、女神マユリと出逢えた幸運に感謝する。
マユリ神との幸運な出逢いがなければ、レムたちにどのような運命が待ち受けていたかわかったものではない。
そんなことをぼんやりと考えていると、女神はにこやかに告げてきた。
「では、レムよ。おまえの希望をいうてみよ」
「わたくしの希望……でございますか?」
レムは、突然のことにきょとんとした。女神の発言の意図がわからない。
「優勝賞品は、希望を一つ叶える権利。そういうただろう」
「それは先程の……ではなく?」
「無論だ。セツナの体調調査は、おまえだけの希望ではあるまい。わたしとて、調べておきたかったことではある」
「しかし……」
「しかしもなにも、ここでおまえが優勝賞品を返上するようであれば、健康診断大会が別の目的のためのものだといっているようなものだぞ。セツナに感づかれるやもしれぬ」
「それは……確かにそうかもしれません」
レムは、小さく笑った。セツナは、決して鈍い男ではない。特に他人の好意に関しては敏感なほうだ。ただ、悪意に対してはかなり鈍感らしく、そのことがガンディア時代には良い方向に働いていた気がする。ガンディア時代、黒き矛のセツナの英雄譚は持て囃されるばかりではなかったのだ。彼の活躍を嫉むものも決して少なくはなかった。もしセツナが悪意に敏感であれば、いろいろ感じるものがあったかもしれない。
もちろん、レムとマユリ神のこの度の計画がセツナへの悪意に満ちたものではなく、むしろ好意の塊であることはいうまでもなく、それ故、徹底的に隠さなければ見破られかねないということだ。
「では……」
レムは考えに考え抜いた挙げ句、あるひとつの希望を提示した。
それこそ、この度の健康診断、身体検査において、嫌というほど実感することになった己の肉体についての希望だ。
これまで、何度となく考えたことでもある。
もし、十三歳のとき、命を落とさず、無事に生き続けることができていたならば。
もし、死神に生まれ変わったとしても、時間が止まるようなことがなければ。
成長した自分の姿を妄想することは、死神部隊の一員だったときからの彼女の趣味のようなものだった。